雑誌「OK FRED」に藤子不二雄A先生登場

 藤子不二雄A先生のインタビュー記事が雑誌「OK FRED」volume005スライドラブ刊/2005年3月発売)に載っている、との情報を、月刊ぽけっと4月発行号紙上で見つけたので、さっそく通販で注文し、それが数日前、メール便で自宅に届いた。
 この雑誌、正規の表紙も裏表紙も、正規の表紙のような体裁になっていて、外から見た限りでは、右閉じの本なのか左閉じの本なのか判別しにくい。中を開けば、どちらが表でどちらが裏か分かるわけだが、その裏表紙にあたる面が、藤子A先生の写真一枚でデザインされている。
 インタビューの内容は、藤子A先生のことを詳しく知らない読者に向けたもので、私からすれば既知の話ばかりのため、インタビューの中身そのものより裏表紙に藤子A先生の写真が使われたことのほうが感激だった。
 3月に藤子A先生とお会いしたさい、「ぼくの写真を表紙にしてくれるという雑誌が取材にきたんだけど、まだ雑誌を送ってこないところを見ると企画がつぶれたのかな…」とおっしゃっていたが、その雑誌とは、この「OK FRED」のことだったようだ。


 既知の話ばかりといっても、藤子A先生のインタビュー記事は、それが出たというだけで私の心を惹きつける。それに、既知の話ばかりに見える中にも、以前とはニュアンスの違う言い回しや、ほとんど初めて目にするような新鮮な発言も含まれていて、それが思いがけぬところで藤子研究に役立ったりするので、私は藤子A先生のインタビュー記事収集を止められない。
 今回のインタビューでとくにおもしろかったのは、やはり、長年コンビを組んでいた藤子・F・不二雄先生にまつわる話題である。

インタビュアー「藤本さんは、逆に全然人前には出なかったですよね。」
藤子A「ええ。テレビに出たり、取材とかも嫌いだしね。『ドラえもん』で取材が来た時も、自分はしゃべるのイヤだから、おまえしゃべってくれって。僕は『ドラえもん』で何も描いてないわけ。何もしていないのにしゃべるのは変だから、なるべくそういう時は無理してでも出ろ出ろって言ってると、出るようになったけど、やぱり一生そういうのは好きじゃなかったね。自分の世界に閉じこもってる、彼は一種の天才だから。」

インタビュアー「正反対の生活をしてる安孫子さんを見て、藤本さんは何も言わなかったんですか?」
藤子A「うん、言わなかったけど、ある意味でうらやましいと思ってたんじゃないかな」

インタビュアー「若いころから、お二人は両極端だったんですか? 安孫子さんは、どっちかというとダラしない方で……。」
藤子A「そう、ダラしなかった。」

インタビュアー「藤本さんが亡くなられて10年ぐらい経ちますけど、今でも思い出されたりしますか?」
藤子A「うん、もちろん。ただまあね、なんというか彼はすーっと逝っちゃったからね。死んだっていうより、どこか星へ行ってんじゃないかな、そういう不思議な気持ちなんだよね。亡くなったっていう気はあまりないね。また戻って来るんじゃないかなっていう気もするしね。」

 藤子不二雄A先生はここで、藤子・F・不二雄先生の死去について「死んだっていうより、どこか星へ行ってんじゃないかな」と語っている。
 似たような主旨の発言として、藤子A先生が藤子・F先生を追悼するために描いたマンガ『さらば友よ』(「ビッグコミックオリジナル」1997年1月12日増刊号)の最終コマにこんな言葉が見られる。

きっと彼は、〝どこでもドア〟を通って、四次元の世界へ遊びにいっているのだろう。

 どこでもドアを通って四次元の世界へ行けるかはともかくとして、藤子A先生のこうした発言を読んでいると、藤子A先生にとって藤子・F先生の死とは、深い悲しみをともなう辛い現実であったと同時に、日常と非日常を融合させる作品を描き続けた藤子・F先生自身が日常から離れ非日常の世界へと旅立っていったような、幻想性を帯びた出来事でもあったのかな、と思えてくる。


 藤子・F先生の追悼ということでは、「婦人公論」1996年12月号で藤子A先生、石ノ森章太郎さん、大山のぶ代さんの3人による鼎談も開かれている。そこで交わされた藤子A先生と大山のぶ代さんのこんなやりとりが印象的だ。

藤子A「彼がいなくなって新作はできないかもしれない。子どもたちも、いつかは大きくなって『ドラえもん』を卒業していく。でも、それはまた繰り返し読み継がれていく。オーバーなこと言うと、漫画のバイブルみたいなものですよ。彼は本当に素晴らしいものを残していったなと思いますね。」
大山「大変だ。バイブルだったら、私、神の声になっちゃうのかしら(笑)」
藤子A「それは最高じゃないですか。(笑)」

 大山のぶ代さんの声が〝神の声〟であるならば、その神の声を引き継いだ水田わさびさんは、そりゃあ大変なわけである…