大垣女子短大・藤子A先生公開講座


 昨日6月1日(水)、岐阜県大垣女子短期大学で開催された、藤子不二雄A先生の公開講座に出席した。今年の演題は「漫画のできるまで/発想から制作まで」だった。


 大垣女子短大における藤子A先生の公開講座は、毎年この時期の恒例行事だ。
 昨年も6月に予定されていたが、静岡県を中心とした集中豪雨のため藤子A先生が岐阜に到着できず、10月に延期されるというハプニングがあった。もちろん今年はそのようなことはなかった。


 朝から待ち合わせをした藤子ファン仲間、大垣女子短大に着いて合流した岐阜県マンガ文化研究会のメンバーとともに、講座会場の多目的ホールに入り、藤子A先生の姿を拝見しやすい前方中央あたりの席を確保した。私は、藤子A先生が立つ演壇のほぼ目の前という絶好の位置につくことができた。
 予定の午後3時を10分ほどすぎて、公開講座がスタート。まず、マンガ家で大垣女子短大教授のしのだひでお(篠田英男)氏が藤子A先生を簡単に紹介した。しのだ氏が、A先生の日本漫画家協会文部科学大臣賞の受賞を報告すると、場内から一斉に拍手がわきおこった。
 そしていよいよ藤子A先生が壇上に立った。先生のお話が始まる。


 藤子A先生は、しのだひでお氏との縁でこの公開講座を担当することになった、今では大垣へ来ることが毎年の自分の務めのような気持ちになっている、と話し、講座の中身へと入っていった。
 長年の相棒だった藤子・F・不二雄先生との出会い、手塚治虫先生の『新宝島』を読んだ衝撃、高校時代から新聞社時代、藤子・F先生に誘われての上京、トキワ荘での青春の日々、原稿を大量に落とした事件、そんな様々なエピソードを楽しく紹介しながら、その折々に、マンガを描くという孤独な作業のなかで良い友を持つことの重要性を説いた。
「(藤本くんと二人で上京しマンガ家生活をスタートしたことが)ぼくにとって大きかったし、藤本くんにとってもぼくがいたことが力になったはず」
「自分の心を打ち明けあえる友は、できるだけ多いほうがいい」
「(原稿を大量に落とし、出版社から干されてしまっても)藤本くんと二人でいると、『ぼくらのマンガのよさがわからない編集者がバカ。2、3本落としたくらいで何だ!』などと互いに言い合えるので気分が晴れて元気が出た」
「(トキワ荘の仲間たちのあいだでは)誰かが売れてきても嫉妬はなかった。兄弟みたいだった。仲間が売れると嬉しかった。ぼくたちも頑張ろうと思った」


「漫画のできるまで/発想から制作まで」という演題の講座の前半に、藤子A先生がこのような〝友情の話〟〝心の話〟を持ってきたことはとても印象的だ。


 講座の後半は、スクリーンに画像を映しながら、藤子A先生が行なったマンガ以外の仕事を見ていく時間となった。
 干支ゴルフボール、ゲームソフト「熱闘ゴルフ」、回転すし「三葉」の看板、ルイ・アームストロング生誕100年記念のCDジャケット、歌手デイジーのCDジャケット、カウント・ベイシーのCDジャケット、中川家単独ライブのポスター、ブリヂストンカレンダーのイラスト、マグリット風喪黒福造のイラスト、忍者ハットリくん列車、氷見のサカナ紳士録、薬師寺の散華、藤子Aキャラの浮世絵風イラスト、シンちゃんの陶板画、京都・藤子A展での中川家とのトークライブなど、ひとつひとつの仕事にまつわる背景や裏話を、藤子A先生は笑いをまじえながら簡潔に説明していった。色鮮やかな画像を観ているだけでも楽しいひとときだった。


 そんな藤子A先生のお話のごく一部を要約して紹介したい。
●ゲームソフト「熱闘ゴルフ」について、
「ゲーム会社の社員は若い人ばかりで、担当の部長は28歳だった。ぼくから見ると子どもみたいだった」
ルイ・アームストロング生誕100年記念のCDジャケットについて、
ルイ・アームストロング生誕100年記念のCDはいろいろと出たが、ぼくがジャケットを描いたものがダントツで売れた」
歌手デイジーのCDジャケットについて、
「これは売れなかった(笑) 彼女は今どうしているのだろう」
中川家単独ライブについて、
中川家のライブが終わると、客席にいたぼくが舞台に呼び出された。ぼくは意外に若い女の子に人気があって、ぼくが舞台に立った瞬間スタンディングオベーションが起こった」
●京都・藤子A展での中川家とのトークライブについて、
「翌日の京都の新聞に『爆笑の渦 軽妙なトーク』という見出しの記事が載った。この記事を会う人会う人に見せびらかした(笑)」



 藤子A先生はまだたくさんの話を用意していたようだが、時間が迫ってきたので残りの画像を端折って説明していった。
 そのとき、伊東四朗主演のドラマ『笑ゥせぇるすまん』(1999年/テレビ朝日)の裏話が披露された。
 バー「魔の巣」にいるのが終始無言のマスター(藤村俊二)ひとりでは寂しいので、女の子も入れることになった。その役に、ファッションモデルの梨花が選ばれた。梨花を見つけてきたのは藤子A先生の姪御さん。梨花は、これがドラマ初出演だったが、そんなとき彼女とサッカー選手のスキャンダルがもちあがり、藤子スタジオなどにマスコミが押しかけてたいへんだった、ということだ。


 講座の締めくくりとして、藤子A先生は、ヒット作『怪物くん』の第1話(「少年画報」1965年2月号)をとりあげた。この第1話、ラフデッサンや下描きは藤子A先生が行なったものの、ペン入れのほとんどすべてをしのだひでお氏が担当したというのだ。なぜそんなことになったかといえば、この作品の締切りが迫る中、藤子A先生がしのだ氏に仕事を任せて5日間のスキーツアーに参加してしまったからである。
 ツアーに参加したのは若い女性との出会いが目当てだった、と先生は皆を笑わせた。


 
 藤子A先生は、この講座の中で、固有名詞を度忘れするたびに私のほうを見て「何だったっけ?」を尋ねてきた。そうやって藤子A先生に頼ってもらえるのはファンとして光栄の極みだが、反面、ちゃんと答えないと大変だとひどくプレッシャーがかかった。「カウント・ベイシー」「散華」「京都」「バガボンド」など、藤子A先生の仕事に直接関係のある事柄や私の知っているマンガについてはすぐに答えることができたが、あるマンガ家の作品名を尋ねられたさい、タイトルをすぐに思い出せなくて、おろおろしながら隣の人に訊いたりして、結局誤った作品名を藤子A先生に教えてしまった。藤子A先生、申し訳ありませんでした(汗)


 講座を終えると、藤子A先生はこれから大阪へ向かうということで、待たせてあったタクシーに飛び乗った。いつもこの講座に同行しているマネージャーさんのほか、今回は藤子A先生の奥様も一緒に来ていた。


 藤子A先生を見送ったあとは、大垣駅前の通りにある居酒屋で飲み会となった。
 昨年もおつきあいいただいた長谷邦夫氏を中心に、総勢11人でお酒と会話を楽しんだ。これまで3年連続で一緒にお酒を飲んできたしのだ氏は、まだ仕事が残っているのと、翌日の健康診断に備えて、飲み会には参加できないということだった。


 飲み会の席で複数のマンガマニア長谷邦夫氏を囲めば、おのずと話題はマンガ業界・マンガ作品の濃い部分へと進んでいく。酒の席だからこその話もあって、ここでそれらに触れるのもどうかと思うが、問題のないところで藤子先生にまつわる話題をまずは紹介したい。


●長谷氏は、藤本(藤子・F・不二雄)先生が第1回藤子不二雄賞の授賞式でとうとうとスピーチしているのを見て、「藤本さんもちゃんと人前で喋れるんだ」と驚いたという。それまで「藤子不二雄」の片方である安孫子先生を前に立てることで陰に隠れがちだった藤本先生も、この頃から、人前やマスメディアに顔を出し、よく話をするようになったようだ。


藤子スタジオ、フジオ・プロ、つのだプロが市川ビルの同じフロアにあった時代、赤塚氏をはじめとしたフジオ・プロの面々が銀玉鉄砲で撃ち合いをして遊んでいたら、一人黙々と仕事をしていた藤本先生が「うるさい!」と怒鳴ったというエピソードはファンの間でよく知られているが、長谷氏もこのとき銀玉鉄砲で遊んでいた面々の一人だったそうだ。めったに声を荒げることのない藤本先生に叱られた赤塚氏はシュンとしたが、場所を仕事場から自宅へ移し、そこで再び銀玉鉄砲遊びに興じたという。


 
 長谷氏は、若かりし頃より、東日本漫画研究会のメンバーとして石ノ森章太郎氏や赤塚不二夫氏と親交があったし、藤子A先生の『まんが道』でも少し描かれているように、トキワ荘へ遊びに行くこともしばしばあったという。そんな長谷氏に、ひとつ質問をぶつけてみた。
 石ノ森章太郎氏の自伝『章説・トキワ荘・春』(スコラ/1981年発行)にこんなくだりがある。

姉が上京した。
笑わないでネ。と、ある夜、隣に寝ていた姉が話し出した。
××さんが好きなの。トキワ荘の、仲間の一人だった。
冗談じゃないヨ。病気なんだから。
弟が冷たく言った。病気を癒すのがまず……というつもりだった。
姉が泣き出した。

 石ノ森氏のお姉さんが好意を寄せていた××さんとは誰なのか、私は前から気になっていた。そこで今回、当時の石ノ森氏や他のトキワ荘仲間をよく知っている長谷氏から何かヒントを得られればと思い、この件について質問してみたのだ。
 すると、ヒントどころか、長谷氏はかなり断定的に「それは○○さんだと思う」と答えたのである。その名を聞いた一同からは感嘆の声があがった。



竹熊健太郎氏夏目房之介氏伊藤剛氏など、「ブログ」おけるマンガ研究者・評論家の活躍も話題にのぼった。長谷氏自身もブログを開設している。
 つい最近マンガ研究家の宮本大人氏がブログを始めたという話から、手塚治虫先生がマンガに映画的手法や斬新なコマわり、ディズニー調の画風などを取り入れた現代ストーリーマンガのパイオニアと言われて久しいが、実は手塚先生以前に、映画的手法なり斬新なコマわりなりを導入したマンガ家が存在していたという話題へ進んでいった。そうした事実が指摘されることに対して、手塚治虫こそが現代マンガの創始者でありパイオニアであり神様であると考えている人々からどんな反発があるか、といったことでちょっと議論になったりもした。


 そのほか、長谷氏が「まんが№1」や「日刊アスカ」の仕事に携わったさいのおもしろ苦労エピソードをご本人の口から聴けたのは貴重な体験だった。「まんが№1」には、藤子A先生も『大殺陣』『大決闘』『大悪漢』といった映画のパロディマンガを描いている。
 帰りの電車が気になる人が出始めたため、午後10時より前に飲み会はお開きになった。




 藤子不二雄A先生の公開講座およびその後の飲み会については、長谷邦夫氏もブログでとりあげている。
 http://d.hatena.ne.jp/nagatani/20050601