映画『のび太の新恐竜』感想【その3】「キューの“進化”に考えをめぐらす」  

 映画『のび太の新恐竜』に登場した羽毛恐竜キューにまだまだこだわってみます。

 (以下、映画『のび太の新恐竜』のネタバレを含んでいます。未見の方はご注意ください)

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 キューは、同種の他の個体と比べ「身体が小さく尾が短い」という顕著な身体的特徴を持っています。そういう特徴を含み持って生まれてきたのです。そして、同種の他の個体が自在に滑空できるのに、キューだけは飛べません。

 そうした特徴だけを切り取って見ると、キューは同種の他の個体より欠点を多く抱えた存在に感じられてきます。

 

 ところが、です。

 物語の終盤になって、キューは自力で自由に飛べるようになります。

 それも、滑空できるようになるのではなく、鳥のように「羽ばたいて」飛べるようになるのです。

 飛べる寸前のキューの奮闘ぶりと、キューが飛んだ瞬間の感動は非常に大きく、私がこの映画で最も泣いたくだりです。

 

 キューが飛んだとき、タイム・パトロール隊員のジルが、「これこそ進化の瞬間!」と感動をあらわにし、「かつて恐竜は滑空から羽ばたきをおぼえ、鳥への第一歩を踏み出した。その進化の瞬間をわれわれは目撃したんだ!」と解説してくれます。

 ジルの上司のナタリーも「あのぶざまな動きは羽ばたきの前兆だったということか……」と丁寧に補足してくれました。

 

 ここで前提となるのが……

「6600万年前の隕石落下で恐竜は絶滅した……とされてきたが、実は恐竜は鳥類に進化して現在も生き残って繁栄している」という、現在では正しいとされる学説です。

 6600万年前に絶滅したのは、恐竜のなかでも非鳥類型恐竜です。非鳥類型恐竜は絶滅してしまいましたが、鳥類に進化して生き残った恐竜もいるのです。「いま生きている鳥類も恐竜の一グループである」と考えるのが現在の主流の学説だそうです。

 鳥類が恐竜だなんて、われわれの世代には感覚的にピンと来づらいところもあるのですが、でも分類上、鳥類は恐竜なのです。

 

 キューの同種の恐竜たち(=ノビサウルス)は「滑空する」種ですが、キューはその種のなかから「羽ばたいて飛べる」個体に進化した存在です。その「羽ばたいて飛べる」という特徴は、キューの子どもたちに受け継がれ、さらにその子どもたちにも受け継がれ……といったふうに遺伝子によって代々継承され、やがて鳥類へと進化していくことになるのでしょう。

 キューは、非鳥類の恐竜から鳥類へと進化するプロセスにおいて大きな第一歩となる、とても重大な存在だったわけです。

 この映画の序盤に登場した恐竜博士の言葉を借りれば、キューは恐竜から鳥に進化する過程に存在した「ミッシングリンク」だったといえましょう。

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  ということで、今回は、「キューが進化した」とはどういうことか?をちょっと考えてみようと思います。

 

 キューが飛べたときナタリーが「あのぶざまな動きは羽ばたきの前兆だったということか」と言ったわけですが、ナタリーが指摘した「羽ばたきの前兆」は、たしかにこの映画の途中で見られました。

 巨大翼竜に襲われたキューが崖から飛び立ったとき、キューは落ちそうになる体をなんとか飛ばそうともがき、前肢をバタバタさせます。これは、羽ばたきを思わせる動作でした。

 その後、タイム・パトロールに取り押さえられたのび太を助けようと、キューが前肢を激しく上下にバタバタさせてタイム・パトロール隊員に突っかかっていくシーンもありました。これなど、まことに力強い羽ばたきに見えました。

 

 前肢を上下にバタバタさせる運動は、われわれ人間が簡単にやれてしまうのであまり大したことがないように思えますが、実はこの運動が可能な生物というのは鳥類を除けば限られていて、特異な動きなのだそうです。

 キューは、「前肢を上下にバタバタさせられる」という特異な骨格や筋肉を、生まれながらにして持っていたのです。そういう身体構造の持ち主だったから、生後の発育と努力が加わった結果、羽ばたいて飛べるようになりました。

 他のノビサウルスとは異なる「羽ばたいて飛ぶのに適した身体」を持って生まれてきた個体がキューなのです。

 そして、そうやって生まれてきたことが「キューの進化」であった、と私は考えます。

 

 生物の進化とは、一個体が自分の意志で一生懸命がんばって成し遂げるものではありません。進化は、成長や発達や進歩とは違うのです。

 私がこの文章を書くのに参考にしている本のうちの一冊『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』(千葉聡、講談社、2020年2月第1刷発行)の言葉を引用すれば、進化とは以下のようなものです。

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第一に、生物進化は遺伝する性質に起きる、世代を越えた変化であることだ。第二に、生物進化は性質の発達や発展の意味ではない。方向性のない変化の意味である。進化の過程では、体の一部が発達したり複雑になったりすることがあるが、その逆もある。どちらも進化だ。

 生物の進化とは、世代を超えて受け継がれる性質や情報に起きる変化のこと、そして変化の歴史のことである。生物個体に代々受け継がれる情報の単位――これが進化生物学における遺伝子の意味だ。進化には様々なプロセスが関わるが、そのうち特に重要なものが、突然変異、自然選択(自然淘汰)、そして遺伝的浮動である。

 

 というわけで、進化とは、遺伝する形質(形質とは、生物の持つ形態・生理・特徴のこと)に起きる、世代を越えた変化です。代々遺伝子で受け継がれていくのが進化なのです。

 ですから、「羽ばたいて飛べる身体」というキューの形質が、キューという一個体で途切れてしまったら、それは進化とは言いがたいでしょう。

 

 この映画では、キューが飛べたことが「恐竜から鳥への進化における偉大なる第一歩!」というニュアンスで描かれています。ですから、キューの形質は、キューの子ども、そのまた子どもへと遺伝子で継承されてだんだん数を増やし、やがてキュー的な形質を持った集団が形成されていくのでしょう。そして、その新しい集団がやがて鳥類となる、ということなのでしょう。

 

 これまで検討してきたことから結論的なことを言えば、羽ばたいて飛べるキューは「既存のノビサウルスから突然変異によって鳥寄りに進化した存在」というわけです。「進化した存在」と言い切るのが不正確なのであれば、「進化の重要なプロセスで進化の原動力でもある突然変異。その突然変異によって既存の恐竜よりも鳥類寄りに変化して生まれてきた存在」と考えられるのです。

 

 いま「突然変異」という語を使いました。「子供の科学」10月号がちょうど進化論の特集だったので、その特集から突然変異のイメージがつかめそうな言葉を引用しましょう。

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 進化は親から子に受け継がれる遺伝子に生じた突然変異によって起こります。親から子へ遺伝子が受け継がれるときは、必ず遺伝子が複製され、その際どうしてもコピーミスが生じます。この突然変異により、親と異なる特徴を持つ子が生まれ、その特徴が環境に適していれば繁殖の機会を得ることになります。その結果、突然変異によってもたらされた特徴が、生物集団に広がって新たな種類が誕生することになります。

 突然変異とは、そういうものです。

  

 先ほども書きましたが、生物の進化というのは、その生物のがんばりや意志とは関係ありません。生物が生まれたあとに「がんばって獲得した特徴」「よく使ったことで発達した部位」は遺伝しません。遺伝しないので、進化には貢献しません。あくまでも、遺伝する形質に起こるのが進化です。

 また、生物の進化は発達や進歩や上達とは別ものです。進化には、身体の一部が発達する変化もあれば、その逆の変化もあります。退化も進化の一種といえます。方向性のない変化が進化なのです。

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 この本の帯が訴えているとおりです(笑)

  

 こうして「突然変異」に関する知識を確認していくと、キューが通常のノビサウルスよりも「身体が小さく尾が短い」という特徴を持って生まれてきたのは「突然変異」だった、と推定できます。

 キューは、突然変異した個体だから、他のノビサウルスが当たり前のようにできる滑空ができず、しかし成長後に、他のノビサウルスができない「羽ばたいて飛ぶ」ことができるようになったのです。

 私はそのように考えます。

 

 そのように考えるのですが、しかし『のび太の新恐竜』は「キューの進化」に関して誤解を招きやすい描き方をしているところがあります。

  キューが羽ばたいて飛んだあの決定的瞬間に、それを目撃したジルは「これこそ、進化の瞬間!」と発言します。この言い方は、生物の研究者としてはいささか情緒的な表現だったと思うのです。(それほどまでにジルはあの決定的瞬間に感動してしまった…ということなのでしょうけど)

 ジルだけでなく映画を観ている私たちにとっても、キューの進化を華やかなビジュアルで実感して盛り上がれるのがあの場面でしょうから、あそこを決定的瞬間として描くという演出上の事情は理解できます。

 

 とはいえ、あの表現だと、「キューが生まれたあと努力して飛べるようになったことが進化なのだ!」といったふうに、観客に誤って解釈されてしまうおそれがあります。「飛べなかったキューががんばったことで飛べるようになった、その努力の成果が進化なのだ!」と誤解される可能性があるのです。

 一個体の意志やがんばりとは関係ないはずの生物進化が、一個体の意志やがんばりによって成し遂げられるものであるかのように受け取られやすいのが、キューが飛べたあの決定的瞬間のシーンなのです。

 

 キューが飛べたあの決定的瞬間については、私は「進化」というより「達成」と言ったほうがよい気がします。

 あくまでもキューは、羽ばたいて飛べる形質を持って生まれてきたから、生後の努力で飛べるようになったのです。キューの進化の内実がどこにあるのかといえば、「羽ばたいて飛べる身体的特徴を持って生まれてきたこと」です。すなわち、「突然変異したこと」が「進化(のプロセス)」なのです。

 仮に、キューが飛ぶことができたあの決定的瞬間を「生物の歴史において決定的瞬間」と言うのであれば、こう言うのが適切ではないでしょうか。

「キューが他のノビサウルスたちと違って羽ばたいて飛べる遺伝形質を持って生まれてきた個体、すなわち突然変異した個体であることが目視で観察できた決定的瞬間だ!」と。

(とはいうものの、あの感動的な盛り上がりシーンでここまで説明的なセリフを入れ込んでは、興を削いでしまいますね・笑)

 

 『のび太の新恐竜』はノンフィクションや科学啓蒙映画やハードSFではありません。ですから、かならずしも正確な科学知識を盛り込む必要はないし、科学知識が不正確だからといって責められる筋合いはないでしょう。

 私は、この映画の科学的不正確さに文句をつけているのではありません。フィクションで描かれた不正確かもしれない知識を取っ掛かりにして、できるだけ正しい知識を確認しようとしているのです。

 

 映画ドラえもんに対し、もし「藤子・F・不二雄作品らしさ」「藤子F的な映画ドラえもんらしさ」を求めるとするならば、厳密な科学的知識とは言わないまでも、小中学校の理科的な知識くらいは正しく(あるいは、もっともらしく)きちんと描いてほしい、という願望はあります。あるにはあるのですが、私が藤子Fらしさをガチで求めてしまうと、F先生の生前の作品と新しい作品とを比べるあまり、新しい作品を楽しめなくなる“比較地獄”に陥りそうで、そうなってしまうのを避けたいという気持ちがあります。

 ですから私は、現在の映画ドラえもんに対し、藤子Fらしさを強く求めることはしないようにしています。いや、今の新しい映画ドラえもんやTVアニメなどから自分なりにF先生らしさを見つけられたら、それは素直に喜びますよ。ですが、「これはF先生らしくないからダメだ!」「F先生はこんなの描かないぞ!」といきり立つのは極力避けたい、ということです。

 

 そもそも、映画ドラえもんに携わるたいていの現役クリエーターさんはF先生へのリスペクトを十分にお持ちでしょうし、F先生らしさをご自分なりに再現なさろうとしているのではないでしょうか。F作品を担当するのは、それだけでプレッシャーだとも思います。「藤子・F・不二雄らしさ」に過剰に呪縛されるあまり、才能ある現役のクリエーターさんがたのセンスや個性や想像力が過度に抑圧されてしまうのは、残念な事態です。

 ですから私は、新しく発表される映画ドラえもんやTVアニメなどに対しては「F先生のマンガを原作に使いつつ、各クリエーターさんの持ち味をそれぞれに発揮した作品」と受け止めるようにしています。そのなかでF先生へのリスペクトやF先生らしさを感じさせてもらえれば、藤子ファンの一人として素直に嬉しいですし、そういうものを感じられなくても、その作品がその作品なりに面白ければ、それをおおらかに楽しもうと思うのです。

 もちろん、なかには個人的に楽しめない作品もあるし、楽しめないものは無理に楽しもうとする必要もないと思うのです。楽しめないものを無理に楽しめるようにするのもまたオツな行為かもしれませんが。

 

 まあ、とにかく、私はフィクションで描かれた科学知識に文句をつけられるほど科学に詳しくありません。それに、マンガやアニメの魅力にはウソやデタラメを面白く描けるところもあるとも思うので、科学知識の不正確性に目くじらを立てるようなことは極力したくありません。したくない…というより、そもそも知識がないからできない…と言ったほうが穏当かもしれません(笑)

(科学に詳しくないなりに、このフィクションは科学知識を正確に描いている!と感じられたときは、それはそれで「すばらしい!」と思ったりもします)

 

  マンガやアニメは、教育的立場の人や圧力団体から「子どもの教育に悪い」「勉強の邪魔になる」「読むと(観ると)馬鹿になる」「デタラメを描いている」「子どもが間違ったことを憶えたらどうするんだ!」「子どもが真似したら危ないじゃないか」などと昔から批判されてきました。そういう批判は、現在も根強くあるのでしょう。私は、マンガやアニメが自由にデタラメを描きウソをつける媒体であり続けてほしいと願っているので、そういう批判に(落ち込んだり傷ついたりはするけれど)屈したくはないです。

 

 日々の生活のなかで“教育”によって窮屈な思いをしストレスをためている子どもたちが、つかの間でもその教育の抑圧から逃れて精神的な自由を得られる。それが、児童向けエンタメの重要な役割の一つだと思います。ですからマンガやアニメは、教育的であってもいいけれど、べつに非教育的であってもいいのです。

 教育を否定するのではありませんよ。教育は大切です。そのうえで、教育がもたらすストレスからほんのわずかな時間でも逃れ、日々の暮らしとは別の世界で楽しませてくれる……。それがエンタメのステキな役割だと思うわけです。

 

 『のび太の新恐竜』に関しては、むしろ、「進化」というトピックをキャッチーに扱ってくれたおかげで、今一度、進化について関心を抱き、関連する本の一冊や二冊でも読んでみようかな、という気にさせてくれて、実にありがたいと思っています。少なくとも私は、進化について学びなおす機会を得られたので、一個人として感謝しています。

 『のび太の新恐竜』は、エンタメとして感情面でジャバジャバと満足感を与えてくれたうえ、進化への関心を促してくれたのです。私には、この映画は教育的に作用してくれたのでした(笑)

 

 なんだか「キューの進化とはどういうことか?」という話題から逸れてしまいましたね……。

 とにかく今述べてきたように、私はフィクションにおける科学知識の不正確性を責めるようなことはしたくありませんが、それにしても『のび太の新恐竜』であらためて大胆不敵だなあと思うのは、一個体ががんばって飛べるようになった「達成」と、個体の意志やがんばりとは関係なく起きる「生物進化」とを、怒涛の展開のなかで重ね合わせ、熱い感動シーンに仕立ててしまったその演出です。

 進化に関する本を読めば、たいてい、一個体ががんばっているうちに進化が進むわけではない、といったことが書かれています。

 それなのにこの映画は、一個体ががんばっているうちに進化したかのようにも受け取れる演出を敢行しているのです。

 飛べ、飛ぶんだキュー!→キューがついに飛べた~!→よくがんばったぞキュー!→それはなんと生物の進化した瞬間でもあるんだ~!といった感じで、「熱血スポ根的なノリ」と「熱血や根性ではどうにもならない生物進化」とをシンクロさせるアクロバティックな離れ業を見せてくれます。

 

 『のび太の新恐竜』は、「一個体ががんばっているうちに進化したかのようにも受け取れる演出を敢行している」映画ではありますが、キューがただやみくもにがんばったから羽ばたいて飛べたのではない、ということを読み取れるヒントはきちんと示しています。

 キューがついに飛べたそのクライマックスシーンより前の段階で、「キューの身体が小さく尾が短いこと」をちゃんと提示していますからね。一度ならず少なくとも二度は、ビジュアルだけでなくセリフでもはっきりと指摘しています。

 キューが「通常の同種よりも明らかに身体が小さく尾が短い個体であること」(=「突然変異した個体」であることを推定できる情報)を前もってきっちり示したうえで、キューの「時間経過による成長」と「努力」を描写し、キューが「羽ばたいて飛べる」という結果を描いているのです。

 そういう視点で物語の筋道をたどれば、キューは突然変異した個体であり、その生まれつきの形質に生後の発育と訓練が加わったから羽ばたいて飛ぶことができた、ということになります。

 

 つまり、

「他の仲間は飛べるのに自分だけは飛べない、という欠点を持った個体の誕生」→「がむしゃらな努力」→「飛翔できた」のではなく、

「突然変異した個体の誕生(この時点で、飛翔できる身体構造をすでに獲得している)」→「がむしゃらな努力+時間経過による身体の成長」→「飛翔できた」のです。

 

 そういうふうにキューが飛べるまでのプロセスを読み取れば、科学的に正しい生物進化の理論と大きくは矛盾しないのではないでしょうか。一般の鳥だって、生まれてすぐには飛べず、生後の成長と訓練が必要だったりするわけですから。

  

 キューの進化について、私なりに考えをめぐらせてきました。こういうふうに考えることが正しい、と申しているのではありませんよ。私自身は、それなりに正しいんじゃないか、と勝手に思いながら書いていますが、正しいからこんなことを考えてみたのではありません。

 こういうふうに考えることでキューへの思いがますます深まっていくのが楽しいのです。楽しいからこう考え、こう考えるからますます楽しくなる、というわけです。

 

 

  ■映画『のび太の新恐竜』感想【その1】「泣く準備はできていた」        

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/19/204541

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その2】「羽毛恐竜キューの生態に思いを馳せる」 

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/20/121759

「芸術新潮」がトキワ荘特集

  10月24日に発売された「芸術新潮」11月号の特集は「トキワ荘と日本マンガの夜明け」です。

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 トキワ荘を紹介する記事いろいろ、関係者インタビュー多数、資料的なページも多々あって、質量ともに充実のトキワ荘特集です!

 

 トキワ荘時代の先生方が描いた作品たちが39ページ分再録されているのもスゴい!

 ・寺田ヒロオ『漫画つうしんぼ』『おんぼろ地蔵物語』

 ・新漫画党合作『神様からもうひとつ目をもらったら』

 ・石ノ森章太郎『墨汁一滴』

 ・赤塚不二夫『ナマちゃんのにちよう日』

  といった再録ラインナップです。

 

 高井研一郎先生秘蔵の写真とはがきが載っているページにだいぶ見入ってしまいました。手塚先生が九州まで逃避行したときの写真(『ぼくのそんごくう』代筆事件のときのもの)とか、トキワ荘時代の藤子先生、赤塚先生、石ノ森先生から届いた年賀はがきとか、じつに貴重なものを見られた!と感動しました。

 

 当ブログらしく藤子不二雄ファン目線でこの特集を見た場合でも、藤子先生のお名前が随所に出てきてうれしいです。

 トキワ荘に住んだ漫画家さん一人一人を紹介するページでは、当然F先生もⒶ先生も紹介されています。

 吉本浩二先生が絵を描いた10ページにわたる絵物語トキワ荘の青春」でも、藤子先生のエピソードがいくつも出てきます。

 「トキワ荘こぼれ話」のコーナーを読むと、『まんが道』に登場する「松葉」について書かれていたり、「なぜ「不二雄」「不二夫」?」というトピックもあったりして楽しいです。

 中条省平さんが書いた「黎明期のマンガ進化論」という文章では、手塚先生の『新宝島』を初めて見たときのⒶ先生の言葉が引用され、『ロストワールド』の新しさを指摘したⒶ先生の言葉も紹介されています。『まんが道』のもっとも感動的なエピソードのひとつとして、満賀道雄が手塚先生の『ジャングル大帝』のラストシーンを手伝う場面にも言及。さらに、藤子先生が「週刊少年サンデー」の創刊とともに『海の王子』の連載をしたこと、Ⓐ先生が『シルバークロス』を描いたことにも触れられています。

 「トキワ荘ワールドをもっと楽しむための展覧会&施設案内」では、川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム氷見市潮風ギャラリー藤子不二雄Ⓐアートコレクションの情報を掲載!

  そして、再録作品の新漫画党合作『神様からもうひとつ目をもらったら』の執筆者の一人がF先生です。

 

 というふうに、藤子的にも読みどころが随所に見つかる特集です。

 そもそも、トキワ荘の特集ですから、ほとんどの話題は(藤子先生の名は出てこなくとも)藤子先生と関連のある事象ですから、全体的に読み応えがあるのです。

クリストファー・ノーラン監督の『テネット』を観た

 クリストファー・ノーラン監督の映画『TENET テネット』を劇場で観てきました。

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 逆再生したような光景と時間どおりに進んでいる光景が一つの画面に同居する…という不可思議な映像にひたすら目を奪われました。

 “逆行と順行の共存”というアイデアを、精密に、ハイテンポに、美しく、迫力たっぷりに映像化していて、それを劇場のスクリーンで観る!という映像体験ができただけでだいぶ満足です。

 

 一つのシーンに複数の時間軸が交差して、やたらと情報量が多い映画なので、細かいところは一度観ただけでは理解が追いつきませんが、まさにその時間軸の交差が迫真的に映像化されたことがすばらしいのです。なんだあのカーチェイスは!なんだあの戦闘シーンは!と今までどんなフィクションでも観たことのない光景に驚喜しました。

 

 2度目を劇場で観ることはできなそうですが、2度、3度、4度と繰り返し観返したくなる映画でした。とくに前半パートにこめられた意味や仕掛けられた伏線がわかったうえで鑑賞すると、見えてくる世界が初見時とずいぶん違って感じられそうです。DVDなど映像ソフトで一時停止や早戻しを何度もしながらこってりと観たくなる映画でもあります。

 

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 この映画のパンフレットで、山崎貴さんが『テネット』から藤子・F・不二雄先生を想起しています。

「この作品は、僕には、まるで藤子・F・不二雄先生が描いたスパイアクションみたいに思えるんですよ。非常に「ドラえもん」的な何かを感じるんです。」

 

 SNSを見ていると、山崎さん以外にも、F作品を思い出した人は結構いらっしゃるようです。

 ネタバレになるので具体的には触れませんが、私も藤子F味を感じるところはありました。そもそも、こういう時間SFに触れるとF作品を思い出しがちな私ではありますが…。 

 

 ノーラン監督の作品だと、私は『インターステラー』からいろいろと藤子F味を感じました。どんなところでF味を感じたかは、こちらで書いています。

 ■映画『インターステラー』と藤子F作品

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/20150118

 

 共通のSF的題材を、F先生は平易に咀嚼して描こうとしたのに対し、ノーラン監督は、一度の鑑賞では理解が追いつかないくらい難解チックに描いている、という印象を私はおぼえます。

 そのうえでなお、両者とも極上のエンタメを作ろうとしている点で通じ合うものがあるような気もします。

映画『STAND BY ME ドラえもん 2』前売り鑑賞券

 映画『STAND BY ME ドラえもん 2』の前売り鑑賞券を購入しました。

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 3万名にもらえるポストカードセット(2枚入り)も無事ゲット!

 映画ドラえもんの前売り鑑賞券を買うのが遅れてオマケをもらえたなかったことがあるので、ゲットできてホッとしています。

 

  前売り鑑賞券を購入後、「ドラえもんプラプラマスコット」(全5種)のカプセル自販機を見かけたので、2回やってみました。

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 出たドラえもんはどちらも口が3‼

 

 その前日のことですが、近くのリサイクルショップでこれを見つけたので自宅にお迎えました。

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ドラえもんふにゅふにゅマスコット」(全5種)のうちの3種です♪

 指で押すと、ふにゅふにゅした感触が心地よいです。

『映画ドラえもん』の歴史をたどる【第7回】公開!

 私がたいむましんさんのサイトで連載している「『映画ドラえもん』の歴史をたどる」の【第7回】が、本日公開されました。

 

 こちらでお読みいただけます!

 https://t-machine.jp/web-bungei/68722/

 

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 皆様にお読みいただけると幸いです。

 


 以下、『映画ドラえもん』の歴史をたどる【第7回】の目次です。

 

 ・楽しめた『のび太太陽王伝説』

 ・物語の下敷きは『王子とこじき

 ・マヤ文明のイメージ

 ・藤子・F・不二雄先生が愛した『白雪姫』

 ・『太陽王伝説』そのほかのポイント

 

  よろしくお願いします!

新創刊!ふしぎコミックス‼

 久志本出版さんから、ふしぎコミックス『山奥妖怪小学校』をご恵贈いただきました。ありがとうございます!

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 久志本出版さんがこのたび起ち上げた新レーベル“ふしぎコミックス”。

 その第1弾として、10月15日にMoo.念平先生の短編集『山奥妖怪小学校』が発売されました。1984~87年に発表された6編を収録しています。

 

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  ふしぎコミックス創刊の言葉がじつに熱く、漫画への愛と希望がビシビシと伝わってきます。ふしぎコミックスというこのネーミングにも、何か無性にワクワクするものを感じます。

 地道にでも、末永く続いてほしいレーベルです。

 

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 ふしぎコミックス第2弾は、Moo.念平先生の『太陽犬ゼロ』なんですね!

 「月刊コロコロコミック」連載時にリアルタイムで楽しんだ作品でして、Moo先生と初めてお会いしたさいも『太陽犬ゼロ』が好きとお伝えした記憶があります。

 なので、この作品の刊行は個人的にも楽しみですし、多くの人に読まれてほしいなと思うのです。

 

 同封の挨拶文で「小学館学年誌が「小学一年生」を残して休刊となるなど、子どもに向けた漫画作品が減っている」という現状への危機意識が表明されています。私も、とくに幼少年にとって「漫画への入口」となる媒体が減少している、という危惧を抱いています。

 ふしぎコミックスが、子どもたちと漫画との幸せな出会いをもたらす場になるといいなあ、と願わずにはいられません。

 

 幼い子どもたちにとって「漫画への入口」となる…といえば、今は『鬼滅の刃』がその役割を力強く担っているのでしょうね。

 先日、よく行く書店で、小さな子が『鬼滅の刃』のコミックスを母親におねだりする光景を目撃しました。母親は試し読み用のコミックスを開いて「漫画ってこういうものだけど、これを読めるの?」と問いただしていました。

 おそらく、その子は漫画というものを読んだことがなかったのでしょうね。その後コミックスを買ってもらえたかどうか見届けていませんが、もし買ってもらえていたら、『鬼滅の刃』を読みたいから漫画を読む、というかたちで漫画を初体験することになったのではないでしょうか。

 そういう「漫画への入口」となる作品が爆発的に流行っているのは、漫画好きの一人として実に頼もしいことだと思います。

  ふしぎコミックスには、時流とはあまり関係のないところでも、子どもにとっての「漫画への入口」「漫画を好きになるきっかけ」「良質な漫画との出会いの場」として着実に刊行を続けていっていただきたいな、と願いを託したくなります。

 

 ふしぎコミックス創刊、おめでとうございます!!

映画『のび太の新恐竜』感想【その2】「羽毛恐竜キューの生態に思いを馳せる」

 当ブログの前のエントリで、映画『のび太の新恐竜』の感想第1弾として、次のような記事を書きました。

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その1】「泣く準備はできていた」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/19/204541

 

  私が『のび太の新恐竜』を観て非常に泣けたのはどうしてなのか…という話題でした。

 今回の記事はその続きです。

 

(以下、映画『のび太の新恐竜』の内容に具体的に触れています。ネタバレを避けたい方はご注意を)

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 映画『のび太の新恐竜』に登場したキューへ思い入れが強くて、まだ彼を思い続けたいあまり、今回はキューの生態的な面について考えをめぐらせてみました。

 

 映画『のび太の新恐竜』には、双子の恐竜キューとミューが主要なゲストキャラクターとして登場します。(上の画像の、黄緑色の恐竜がキュー、ピンク色がミューです)

 この映画の魅力の多くは、キューとミューの魅力じゃないか!と言ってしまいたくなるくらい、私はキューとミューに惚れ込んでいます。

 

 『のび太の新恐竜』のストーリーを観れば、「この映画の主人公はのび太とキューだ!」と思えてきます。何人ものキャラクターが登場し、それぞれに存在感を発揮しているなか、とくに中心をつらぬいているのは、のび太とキューの物語だと感じるのです。

 

 そこで、キューというこの恐竜について、私なりに考察というか、感じたこと、考えたことを書こうと思います。

 

 キューは恐竜です。

 では、なんという種類の恐竜なのか?

 

 宇宙完全大百科にも載っていない新種の恐竜でした。

 のび太が発見した新恐竜なのです。

 そんなこともあって、この映画は『のび太の新恐竜』なのです。

 

 のび太はキューとミューに「ノビサウルス」と命名します。

 最終的にどんな学名に決まったのか映画を観るだけではわかりませんが、発見者ののび太を尊重して、ここではキューとミューの種名を「ノビサウルス」と呼びましょう。

 

 ノビサウルスは、後肢で2足歩行し、身体の表面に羽毛がはえています。とくに前肢と尾の羽毛が豊かに見えます。大人になったときの全長は、のび太たちよりは大きそうですが、人間とそんなにサイズが変わらないから大型恐竜ではありません。

 オスであるキューは黄緑色、メスのミューはピンク色をしています。

 

 食性はどうでしょうか。

 ミューはのび太が与えた食べ物を次々と食べていきました。ソーセージ、キャベツ、バナナ、魚の缶詰、みかん、プリン、せんべい……。なんでもパクッと旺盛においしそうに食べるので雑食性のようです。

 ところがキューは、ミューと比べるとかなりの偏食家で、それらの食品のどれも受け付けませんでした。

 のび太が与えてキューが最初に食べたのは、マグロの刺身でした。マグロの刺身は、キューにとってもミューにとっても好物のようです。

 その後、ミューが魚を捕って食べるシーンがありますし、キューも魚を食べていたので、「ノビサウルスは雑食性だが主に魚食である」と解釈できます。

 

 生まれて間もなくして、ミューは飛べるようになります。前肢に豊かな羽毛があるので、それが翼の役割をして滑空できるのです。

 つまり、ノビサウルスは滑空できる羽毛恐竜というわけです。

 「滑空できる」というのは、ノビサウルスの大きな生態的特徴です。

 

 ノビサウルスは本来、白亜紀後期の日本(当時の日本は大陸の一部)に棲息していたようです。映画の後半、白亜紀が舞台となるシークエンスで、キューとミュー以外のノビサウルスが発見されます。野生のノビサウルスです。

 それを見ると、ノビサウルスは群れで生活しています。大陸で暮らしていたようですが、変わり者の弱者として崖のふちまで追いやられ、そこから滑空して島(その正体は巨大化した飼育用ジオラマセット)にわたり、のび太らが発見したときにはその島で巣を形成し、集団で生活していました。

 その島には、たくさんのノビサウルスたちが飛び交っており、ミューはすぐに仲間に入っていきました。

 

 ところが、一方のキューは飛べません。

 のび太の部屋で飼われていたとき、ミューが滑空を始めたのを見てキューも真似して飛ぼうとしました。しかし、すぐにバタンと落下……。

 その後、のび太が滑り台を使ってキューを飛ばす訓練を試みますが、キューはすぐ地面に落下して、一回のトライであきらめてしまいました。

 

 この時点で考えられるのは、

・ノビサウルスは本来飛べない種なのに、ミューだけが飛べる。

 あるいは、

・ノビサウルスは本来飛べる種なのに、キューは飛べない。

 という可能性です。

 

 作中ののび太たちは最初から後者だと思い、その思いを疑いませんでした。そして、この映画内の世界における正解も後者でした。

 ノビサウルスは滑空できる羽毛恐竜なのだけれど、キューだけは、なぜか飛べない個体だったわけです。

 飛べないことが大きなドラマを織りなすことになります。

 

 そして、キューにはミューと比べて顕著な身体的特徴がありました。

 キューは体が小さくて、尾が短いのです。

 キューとミューは同じ種であるどころか、同じ卵から同時に誕生しました。双子です。

 それなのに、はっきりとした差異が見られたのです。

 

 物語が進むと、先述のとおり、白亜紀の世界でノビサウルスの群れが発見されます。ノビサウルスは自在に滑空していました。

 その光景を見たのび太が、仲間のところへ合流するようキューを促すと、キューはノビサウルスの群れへ歩み寄っていきます。

 ところが、ここでショッキングな事件が起きます。

 ノビサウルスのうちの一頭が、近づいてくるキューを睨みつけ、前肢の爪でキューの顔をいきなり引っかいたのです。

 キューは仲間であるはずの群れから、暴力的な形で拒絶されたのです。

 

 キューの「飛べない」という特徴は、ノビサウルスの群れに受け入れられない特徴だったのです。

 成熟した人間社会ならば、「それも一つの個性だよね」「そのままでいいんだよ」とキュー的な存在を包容できるはずですが(差別やいじめの標的になったりするのもまた人間社会ですが…)、ノビサウルスは弱肉強食の野生のなかを生きています。

 飛べないキューは、飛べないままでは仲間に入れてもらえないし、餌を捕るのにも不利だろうし、敵に襲われたとき逃げ遅れるリスクも高い……。そのままではいられない宿命を負っているのです。

 

 ですから、この「キューが引っかかれる」事件を眼前で目撃したのび太は、鬼特訓に走ります。

 特訓するといっても、のび太にはノビサウルスを飛行させるノウハウなどありませんから、その特訓はやみくもなものになりました。

 そんな調子で特訓を続けていると、キューがその場から去ってしまいます。のび太は落ち込み、反省し、その後キューと再会したとき謝罪します。

 のび太は、キューに特訓をほどこすことをやめ、のび太は逆上がり、キューは飛ぶことができるようお互いにがんばろうと約束します。

 これは、結果的に良い方針転換でした。のび太はキューに対して「ミューや他のみんなと腕の動かし方が違う!」などど指導していました。つまり、ミューや他の同種たちをお手本にして滑空せよ!と指導していたのです。

 しかし、キューはその方法では飛べません。キューの身体構造は、羽ばたいて飛ぶのに適しているからです。ミューと同じ飛び方をしていては、いつまでたっても飛べません。のび太の指導を聞いていたら、ずっと飛べないのです。

 

 むろん、のび太はキューがどうしたら飛べるかなんてわかりませんから、他のノビサウルスの飛び方をお手本にしてキューを指導するのはやむをえないことでした。のび太を責められません。のび太は一生懸命だっただけです。

 ですから、のび太がキューを指導するのをやめて、キューと対等の立場で自分は逆上がりができるよう、キューは飛べるよう、お互いにがんばろう!というスタンスに変えたのは、正解だったのです。

 キューは自主的に飛ぶ練習をくりかえし、そのうち腕を上下にバタバタさせる運動を見せるようになって、ついに羽ばたいて飛べるようになります。

 

 そうして、クライマックス!

 キューは自力で羽ばたいて飛べるようになります。

 飛べる寸前のキューのがんばりと、キューが飛んだ瞬間の感動は大きく、私がこの映画で最も泣いたくだりです。

 4回観て、4回とも泣けたのがこのシーンでした。

 

 キュー、ありがとう!