映画『のび太の新恐竜』感想【その1】「泣く準備はできていた」

 『のび太の新恐竜』が8月7日に公開されて2ヶ月半近くたちました。このあたりで、ネタバレありの感想をアップしようと思います。

 この映画については書きたいことがいっぱいあるので、今回は感想の第1弾です。

 

(以下、映画『のび太の新恐竜』の内容に具体的に触れています。未見の方はお気をつけください)

 

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 映画『のび太の新恐竜』を公開初日の8月7日に観た。その日はのび太の誕生日だった。

 

 『のび太の新恐竜』は、文字どおりのび太と新恐竜(キューとミュー)の物語だ。どの映画ドラえもんも「のび太の」「のび太と」というタイトルが示すとおり、のび太が物語の中心的キャラクターではあるだろうが、その中にあっても『のび太の新恐竜』は、のび太の言動、心理、活躍に強くスポットをあてた作品の一つである。

 

 そんなド真ん中ののび太活躍映画がのび太の誕生日に封切られたのだから、もうそれだけで感慨深いし、公開初日に自分が劇場へ足を運んで鑑賞できたことに少なからぬ喜びを感じている。

 

 のび太の誕生日だから、のび太を目いっぱい祝福する気持ちで映画を観た。

 その祝福感情も手伝って、意外なほど泣けた。

 号泣した場面すらある。

 新型コロナ対策で席の間が空いていたうえ、観客が少なくて周囲の目を気にしなくてよかったことも、人目もはばからず泣くのに望ましい環境だった。

 

 『のび太の新恐竜』の本来の公開予定日は3月6日だった。それが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期され、8月7日に変更された。

 公開延期……

 映画ドラえもん史上前代未聞の事態が起こってしまったのだ。

 

 新たな公開日として発表されたのが8月7日だった。

 その当日が迫るなか、新型コロナウイルス感染者の数が再び増えだす…という情況があって、再び延期になるんじゃないか……と心配になった。

 どうなってしまうんだろう……と不安にみまわれた。

 だから、

 「無事公開された!」

 という喜びと安堵は大きかった。

 

 そういう経緯があったから、『のび太の新恐竜』は「無事公開された」「封切り日に劇場で観ることができた」というそのことで、すでに私の胸に特別な感慨をもたらしてくれていた。その感慨は、当然ながら、例年の映画ドラえもんでは味わえない異例のものだ。来年以降は、延期だとかそういうことはもう味わいたくないが、今年に限っては、前もってそういう感慨が生じていたおかげで、映画本編を観る前から『のび太の新恐竜』への思い入れがずいぶん強まっていた。

 

 事前に強い思い入れを抱いたうえで映画本編を観たものだから、心の揺さぶられ方が半端ではなかった。映画を観ているあいだ、何度も何度も泣いた。号泣といってもよいくらい盛大に泣けた瞬間もあった。

  事前に抱いた思い入れによって、映画本編を観たら感動しやすい心理状態ができていたのだ。

 『号泣する準備はできていた』という小説があったと思うが、私の心は、自分で意図せぬまま号泣する準備をしていたようなものである。

 

 それに加えてもう一つ、この映画を観る前の時点で強い思い入れを抱くに至った理由がある。

 『のび太の新恐竜』にはコミック版が2種類存在する。

 「月刊コロコロコミック」で連載されたバージョン(作画:むぎわらしんたろう先生)と「ちゃお」で連載されたバージョン(作画:ときわ藍さん)の2種類だ。

 私は、映画のストーリーを新鮮に楽しみたかったから、映画に関する事前情報はあまり知りたくなかったし、コミック版は映画を観終えてからじっくり読もうと思っていた。

 

 しかし、コミック版への興味を抑えきれず、コロコロコミック版を連載1回目だけ読んでみた。

 ちゃお版はすべて読んだ。

 

 ちゃお版は、映画のストーリーでいうと恐竜時代へ出かける前までのエピソード(つまり現代の日常場面)までを描いており、すべて読んだとしても映画のストーリーの完全なネタバレにはならないのだ。

 

 そんな感じでコミック版を読んだものだから、映画の序盤のストーリーを前もって知った状態で公開を待つことになった。

 これが幸いした。

 

 ちゃお版コミックは、恐竜時代へ冒険に出かける前の、のび太ドラえもんが双子の恐竜とすごす日々を描くことに徹している。副題が「ふたごのキューとミュー」とあるとおり、キューとミューの性格や行動を丁寧に描写している。そこへ重点的にスポットをあてているのだ。

 しかも、このコミックは女子児童が読む「ちゃお」の連載作品だったから、のび太ドラえもんが少女マンガタッチに変貌する面白さもあった。ただでさえかわいいキューとミューが、少女マンガの世界観の中でいっそうピュアなかわいらしさを帯びて感じられた。

 おかげで、私の中に「キューとミューって、なんてかわいいんだろう!」という感情がむくむくと育っていった。

 

  そうやってキューとミューへの愛情を強くしていたものだから、映画館で販売開始されたキューとミューのマスコットぬいぐるみを、映画本編を観る前に買ってしまったほどだ。

 藤子・F・不二雄先生が描いた大長編ドラえもんに出てくるゲストキャラクターであれば、すでに愛着が強いので映画を観る前の時点からぬいぐるみを買いたくなっても不思議はない。だが、キューとミューは映画オリジナルのキャラクターである。藤子F先生が生み出したキャラクターではない。

 それなのに、この2匹のグッズを鑑賞前に買ってしまうほど、私はキューとミューにあらかじめ愛情を抱いていたのだ。こんなこと、初めてである。 

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 ・左の黄緑色の恐竜がキュー、ピンク色がミュー

 

 キューとミューへの愛情がすでに仕上がった状態で映画本編を観たのだから、それはもう、たまったものではない。

 卵がかえってキューとミューが誕生した瞬間、2匹が動く姿を目撃して「かわいすぎるー!」と心臓を射抜かれた。

 コミック版を読んだときは自分で想像するしかなかった鳴き声まで聴こえてきた。その声が、これまたあまりにもかわいくて生命感があふれていたものだから、「キューとミューが動いてる!鳴いてる!」と大感動してしまった。

 この時点で、ぶわっと泣かずにはいられなかった。

 

 その後の場面でも、キューとミューがそこにいるだけで心がときめいた。この2匹がスクリーンに映っている限り、いとおしい気持ち、目を離せない心情がずっと続くのだ。2匹の姿が見え続ける限り、私は心の中でこの映画に賛美を送るほかなかった。

 

 この映画は、キャラクターの動きに躍動感や芸の細かさがあって、そうしたアニメーションの本分である作画力によって観客を(少なくとも私を)グイグイ引っぱってくれた。動きのダイナミズムが快感を与えてくれたのだ。

 キューとミューの動きもすばらしくて、卵から出てきたばかりのヨチヨチ歩きから始まって、その成長過程の折々で生き物らしさが満開だった。

 生まれて少ししたらもうちょこまかと動きまわるミューのバイタリティ。卵が割れたのに外に出てこずのんきに眠っていたキューのおっとりした様子。のび太が差し出す食べ物をなかなか受けつけないキューの嫌がり方。なんでもパクっと食べてしまうミューの旺盛な食欲。どの作画もすばらしかった。

 

 キューの嘔吐は、映画序盤のショッキングシーンだった。映画ドラえもんで嘔吐をあそこまで生々しく直接的に描くとは……。のび太ならずとも本気で心配してしまいたくなる描写だった。

 

 その後、滑空できるようになったミューは、のび太の部屋をところせましと飛び移ったり駆けまわったり。その動きまわること、動きまわること。 ミューの生命力が、彼女の動きから生き生きと輝かしく伝わってきた。

 キューのほうも、成長するにつれて(滑空はできなくとも)よく動くようになっていく。その動き方、しぐさ、表情のかわいらしいことといったらもう! 彼のすべてを愛したくなる。

 

 滑空を始めたミューを見て自分も飛ぼうと椅子から飛び出したらバタッと落下して泣きそうになるキュー。それを見たのび太がすぐに駆け寄って優しい言葉をかける。

 そのシーンをはじめとして、のび太のキューへの接し方を見ていると、キューが飛べようと飛べまいと関係なくのび太はキューをキューのまま愛していることがわかる。

 しかし、のび太がキューとミューと一緒にいられる日々には、タイムリミットがあった。キューとミューが育って大きくなったら飼うのをやめて恐竜の世界へ連れて行くことになっているのだ。キューとミューの背の高さをジャングルジムの柱に刻んだりして2匹の成長を喜ぶのび太だったが、2匹の成長は、すなわち別れの日が目の前に迫ってくることでもあった。

 

 恐竜の世界は、弱肉強食の野生の世界である。キューが飛べようが飛べまいが、のび太がずっと面倒を見られるのなら問題ないだろう。だが、野生の世界でキューが生存していくには、「飛べない」ということは死活問題である。食べ物を捕るのに不利だろうし、敵に襲われたとき逃げ遅れやすいだろう。

 だからのび太は、キューに飛んでもらわなきゃ、と切に願い、飼育用ジオラマセットの中に滑り台を設置してキューを飛ばす訓練をしようとした。

 ところがキューは、一回の失敗でへこたれてしまった。のび太は「飛んでほしい」という思いが強いあまり、一回であきらめるなんて駄目じゃないか、みたいな言葉をキューにかけてしまう。

 それは(のび太本人を棚に上げた)厳しい言葉かもしれないが、キューの生存を思えば厳しい言葉の一つも出てしまうだろう。

 でも、やはりのび太はありのままのキューを愛しているから、キューが刺身のパックを開封してほしい、とおねだりしてくると、もう特訓を続ける気はなくなってしまったようだ。

 

 その後も、現代の日常世界にいるあいだ、のび太は(キューが飛べないことが常に心配だっただろうが)キューを飛ばす訓練をしようとはしなかった。(白亜紀に行ってから、あるショッキングな場面を目の当たりにして、どうにかせねば…と精神的に追い込まれたのび太がキューに厳しい特訓をすることになるけれど……)

 

 そんなのび太とキューの関係性を見ているだけでも、この映画には引き込まれるものがいっぱいあった。

 

 キューとミューの声を演じた声優さんの力も非常に大きかった。基本的に、キューは「キュー」、ミューは「ミュー」としか鳴かない。当然ながら、人間の言葉はまったく話さない。

 にもかかわらず、あの感情表現の豊かさ、繊細さ、かわいらしさである。私は、キューとミューの第一声を聴いたとたんグッと心をつかまれ、ひたすら魅了された。実力とセンスと愛嬌のある声優さんに演じてもらえて最高だった。

 

 キューとミューには、まさに生命が宿っていて、時間の経過につれて2匹が成長していくさまには常に体温がともなって感じられた。

 2匹とじゃれ合うのび太がうらやましくなるほどだった。私も、2匹の肌合いを、2匹の体温を、2匹の呼吸を、もっと近いところで感じたかった。

 

 『のび太の新恐竜』は、恐竜時代へ冒険に出かける以前の現代のシーンだけでも、私をこんなにも楽しませてくれた。冒険へ出かける前のシーンだから、この映画にとってはまだ序盤といえるだろう。その序盤でこの満足感!

 このあと恐竜時代を舞台にハラハラドキドキの冒険やいろいろなドラマや怒涛のラストなどあって、ますます楽しませてくれるし、ますます泣かせてくれるのだから、私が『のび太の新恐竜』に魅了されないわけがないのだった。

 

 劇中において、キューとミューの最後の登場場面は、のび太たちが白亜紀から現代へ帰るシーンである。のび太たちとキュー・ミューのお別れが、私にとってもキュー・ミューとのお別れだった。

 のび太が別れを告げずに去ろうとしたのに、のび太たちが去っていくことに気づいたキューとミューが飛んで追いかけてきた。その2匹の顔を見たら泣けてきた。

 このシーンでは、力強く羽ばたいて飛ぶキューの姿がじつに頼もしかった。彼はもう弱肉強食の野生の中でじゅうぶんに生きていけるし、この大量絶滅の時代を生きのびて子孫を残していくのだ、と確信できた。

 

 『のび太の新恐竜』の劇中世界においては「現代の空を飛んでいる鳥たちがキューの子孫」ということになるのだろう。それとを思うと、その途方もなく長大で尊い進化の歴史に遥かなる思いを馳せたくなる。

 私の中でフィクションと現実の境界が消え、科学的な正しさと正しくなさの境界も消失し、自宅の近所で見かける身近な野鳥たちの姿がキューと重なって感じられる瞬間まであった。

 

 キューとミューはただかわいいだけでなく(かわいいだけでもじゅうぶんだけれど)、私の心に大切なものを残してくれた。

 ありがとう、キューとミュー!

 

 ※キューとミューに感謝をこめて、食欲旺盛なミューの好物であるとともに偏食家のキューの大好物でもあるマグロの刺身を2匹にあげちゃったりもしました。

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感想は以下のエントリへ続きます。

■映画『のび太の新恐竜』感想【その2】「羽毛恐竜キューの生態に思いを馳せる」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/20/121759