「TV Bros.」12月号コミックアワード特集号

 10月23日に発売された「TV Bros.」12月号コミックアワード特集号を購入しました。

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 片桐仁さんがトキワ荘マンガミュージアムを訪れてレポートするカラー記事(6ページ分)が載っています。その片桐さんが描いた「笑ゥドラジャックボン009」というトキワ荘オリジナルキャラクターも見逃せません(笑)

 

 この号で発表されたブロスコミックアワード2020大賞作品は『マイ・ブロークン・マリコ』でした。おめでとうございます!

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 私もこの作品を今年の初めごろに読んで、胸に押し寄せる凄まじい感情の波立ちを感じました。

「自分にはこの人しかいない」と思っていた無二の友を自殺によって失った主人公が、その友の遺骨を親から奪って旅に出る……。奔流のように吐き出される感情と美しくもダイナミックな身体性とが一体となって描かれる人物表現が圧巻です。

 その亡くなった友というのは、子どものころから家庭で虐待を受け続け、自然な自己肯定感をもてず、心のバランスを欠いていた女性で、主人公のセリフを借りれば「めんどくせー女」です。そんな友を掛け替えのない存在と思い続けてきた主人公が抱く友への痛切で深い思いが、喫煙・飲酒シーンや涙・鼻水・涎・汗などの描写をともなって怒涛のように剥き出されていきます。

 鼻水とか涎の描写だなんて何だか汚らしそうですが、そういう描写もひっくるめて美しさを感じます。

犬の日に…

 本日(11月1日)は、ワン・ワン・ワンということで「犬の日」だそうです。

 そんな日に足を運んだリサイクルショップで彼を見かけてしまって、ぜひ家に迎え入れたい!という強い衝動にかられました。

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 ラナの獅子丸ソフビフィギュアなんだワン! 

  家にお迎えしたからには、ちくわを買ってこなくっちゃ‼

 

てんとう虫コミックス・アニメ版『映画 STAND BY ME ドラえもん』発売

 10月30日、てんとう虫コミックス・アニメ版『映画 STAND BY ME ドラえもん』が発売されました。

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 小説版も発売されたようですが、まずはこちらだけ購入♪

『STAND BY ME ドラえもん』のフィルムコミックスって出てなかったんだな…と公開当時(2014年)はそのことを気にとめてすらいなかったのでものですから、今になって認識しました(笑)

ドラえもん置き時計をリサイクルショップで購入

 近くのリサイクルショップで100円で売ってました!

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のび太の恐竜2006』公開当時の「一番くじ」の賞品だった置き時計です♪

 「動作OK」と記されていて100円(+税)だったので、とてもお得な気分でお買い物ができました(笑)

映画『のび太の新恐竜』感想【その3】「キューの“進化”に考えをめぐらす」  

 映画『のび太の新恐竜』に登場した羽毛恐竜キューにまだまだこだわってみます。

 (以下、映画『のび太の新恐竜』のネタバレを含んでいます。未見の方はご注意ください)

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 キューは、同種の他の個体と比べ「身体が小さく尾が短い」という顕著な身体的特徴を持っています。そういう特徴を含み持って生まれてきたのです。そして、同種の他の個体が自在に滑空できるのに、キューだけは飛べません。

 そうした特徴だけを切り取って見ると、キューは同種の他の個体より欠点を多く抱えた存在に感じられてきます。

 

 ところが、です。

 物語の終盤になって、キューは自力で自由に飛べるようになります。

 それも、滑空できるようになるのではなく、鳥のように「羽ばたいて」飛べるようになるのです。

 飛べる寸前のキューの奮闘ぶりと、キューが飛んだ瞬間の感動は非常に大きく、私がこの映画で最も泣いたくだりです。

 

 キューが飛んだとき、タイム・パトロール隊員のジルが、「これこそ進化の瞬間!」と感動をあらわにし、「かつて恐竜は滑空から羽ばたきをおぼえ、鳥への第一歩を踏み出した。その進化の瞬間をわれわれは目撃したんだ!」と解説してくれます。

 ジルの上司のナタリーも「あのぶざまな動きは羽ばたきの前兆だったということか……」と丁寧に補足してくれました。

 

 ここで前提となるのが……

「6600万年前の隕石落下で恐竜は絶滅した……とされてきたが、実は恐竜は鳥類に進化して現在も生き残って繁栄している」という、現在では正しいとされる学説です。

 6600万年前に絶滅したのは、恐竜のなかでも非鳥類型恐竜です。非鳥類型恐竜は絶滅してしまいましたが、鳥類に進化して生き残った恐竜もいるのです。「いま生きている鳥類も恐竜の一グループである」と考えるのが現在の主流の学説だそうです。

 鳥類が恐竜だなんて、われわれの世代には感覚的にピンと来づらいところもあるのですが、でも分類上、鳥類は恐竜なのです。

 

 キューの同種の恐竜たち(=ノビサウルス)は「滑空する」種ですが、キューはその種のなかから「羽ばたいて飛べる」個体に進化した存在です。その「羽ばたいて飛べる」という特徴は、キューの子どもたちに受け継がれ、さらにその子どもたちにも受け継がれ……といったふうに遺伝子によって代々継承され、やがて鳥類へと進化していくことになるのでしょう。

 キューは、非鳥類の恐竜から鳥類へと進化するプロセスにおいて大きな第一歩となる、とても重大な存在だったわけです。

 この映画の序盤に登場した恐竜博士の言葉を借りれば、キューは恐竜から鳥に進化する過程に存在した「ミッシングリンク」だったといえましょう。

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  ということで、今回は、「キューが進化した」とはどういうことか?をちょっと考えてみようと思います。

 

 キューが飛べたときナタリーが「あのぶざまな動きは羽ばたきの前兆だったということか」と言ったわけですが、ナタリーが指摘した「羽ばたきの前兆」は、たしかにこの映画の途中で見られました。

 巨大翼竜に襲われたキューが崖から飛び立ったとき、キューは落ちそうになる体をなんとか飛ばそうともがき、前肢をバタバタさせます。これは、羽ばたきを思わせる動作でした。

 その後、タイム・パトロールに取り押さえられたのび太を助けようと、キューが前肢を激しく上下にバタバタさせてタイム・パトロール隊員に突っかかっていくシーンもありました。これなど、まことに力強い羽ばたきに見えました。

 

 前肢を上下にバタバタさせる運動は、われわれ人間が簡単にやれてしまうのであまり大したことがないように思えますが、実はこの運動が可能な生物というのは鳥類を除けば限られていて、特異な動きなのだそうです。

 キューは、「前肢を上下にバタバタさせられる」という特異な骨格や筋肉を、生まれながらにして持っていたのです。そういう身体構造の持ち主だったから、生後の発育と努力が加わった結果、羽ばたいて飛べるようになりました。

 他のノビサウルスとは異なる「羽ばたいて飛ぶのに適した身体」を持って生まれてきた個体がキューなのです。

 そして、そうやって生まれてきたことが「キューの進化」であった、と私は考えます。

 

 生物の進化とは、一個体が自分の意志で一生懸命がんばって成し遂げるものではありません。進化は、成長や発達や進歩とは違うのです。

 私がこの文章を書くのに参考にしている本のうちの一冊『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』(千葉聡、講談社、2020年2月第1刷発行)の言葉を引用すれば、進化とは以下のようなものです。

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第一に、生物進化は遺伝する性質に起きる、世代を越えた変化であることだ。第二に、生物進化は性質の発達や発展の意味ではない。方向性のない変化の意味である。進化の過程では、体の一部が発達したり複雑になったりすることがあるが、その逆もある。どちらも進化だ。

 生物の進化とは、世代を超えて受け継がれる性質や情報に起きる変化のこと、そして変化の歴史のことである。生物個体に代々受け継がれる情報の単位――これが進化生物学における遺伝子の意味だ。進化には様々なプロセスが関わるが、そのうち特に重要なものが、突然変異、自然選択(自然淘汰)、そして遺伝的浮動である。

 

 というわけで、進化とは、遺伝する形質(形質とは、生物の持つ形態・生理・特徴のこと)に起きる、世代を越えた変化です。代々遺伝子で受け継がれていくのが進化なのです。

 ですから、「羽ばたいて飛べる身体」というキューの形質が、キューという一個体で途切れてしまったら、それは進化とは言いがたいでしょう。

 

 この映画では、キューが飛べたことが「恐竜から鳥への進化における偉大なる第一歩!」というニュアンスで描かれています。ですから、キューの形質は、キューの子ども、そのまた子どもへと遺伝子で継承されてだんだん数を増やし、やがてキュー的な形質を持った集団が形成されていくのでしょう。そして、その新しい集団がやがて鳥類となる、ということなのでしょう。

 

 これまで検討してきたことから結論的なことを言えば、羽ばたいて飛べるキューは「既存のノビサウルスから突然変異によって鳥寄りに進化した存在」というわけです。「進化した存在」と言い切るのが不正確なのであれば、「進化の重要なプロセスで進化の原動力でもある突然変異。その突然変異によって既存の恐竜よりも鳥類寄りに変化して生まれてきた存在」と考えられるのです。

 

 いま「突然変異」という語を使いました。「子供の科学」10月号がちょうど進化論の特集だったので、その特集から突然変異のイメージがつかめそうな言葉を引用しましょう。

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 進化は親から子に受け継がれる遺伝子に生じた突然変異によって起こります。親から子へ遺伝子が受け継がれるときは、必ず遺伝子が複製され、その際どうしてもコピーミスが生じます。この突然変異により、親と異なる特徴を持つ子が生まれ、その特徴が環境に適していれば繁殖の機会を得ることになります。その結果、突然変異によってもたらされた特徴が、生物集団に広がって新たな種類が誕生することになります。

 突然変異とは、そういうものです。

  

 先ほども書きましたが、生物の進化というのは、その生物のがんばりや意志とは関係ありません。生物が生まれたあとに「がんばって獲得した特徴」「よく使ったことで発達した部位」は遺伝しません。遺伝しないので、進化には貢献しません。あくまでも、遺伝する形質に起こるのが進化です。

 また、生物の進化は発達や進歩や上達とは別ものです。進化には、身体の一部が発達する変化もあれば、その逆の変化もあります。退化も進化の一種といえます。方向性のない変化が進化なのです。

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 この本の帯が訴えているとおりです(笑)

  

 こうして「突然変異」に関する知識を確認していくと、キューが通常のノビサウルスよりも「身体が小さく尾が短い」という特徴を持って生まれてきたのは「突然変異」だった、と推定できます。

 キューは、突然変異した個体だから、他のノビサウルスが当たり前のようにできる滑空ができず、しかし成長後に、他のノビサウルスができない「羽ばたいて飛ぶ」ことができるようになったのです。

 私はそのように考えます。

 

 そのように考えるのですが、しかし『のび太の新恐竜』は「キューの進化」に関して誤解を招きやすい描き方をしているところがあります。

  キューが羽ばたいて飛んだあの決定的瞬間に、それを目撃したジルは「これこそ、進化の瞬間!」と発言します。この言い方は、生物の研究者としてはいささか情緒的な表現だったと思うのです。(それほどまでにジルはあの決定的瞬間に感動してしまった…ということなのでしょうけど)

 ジルだけでなく映画を観ている私たちにとっても、キューの進化を華やかなビジュアルで実感して盛り上がれるのがあの場面でしょうから、あそこを決定的瞬間として描くという演出上の事情は理解できます。

 

 とはいえ、あの表現だと、「キューが生まれたあと努力して飛べるようになったことが進化なのだ!」といったふうに、観客に誤って解釈されてしまうおそれがあります。「飛べなかったキューががんばったことで飛べるようになった、その努力の成果が進化なのだ!」と誤解される可能性があるのです。

 一個体の意志やがんばりとは関係ないはずの生物進化が、一個体の意志やがんばりによって成し遂げられるものであるかのように受け取られやすいのが、キューが飛べたあの決定的瞬間のシーンなのです。

 

 キューが飛べたあの決定的瞬間については、私は「進化」というより「達成」と言ったほうがよい気がします。

 あくまでもキューは、羽ばたいて飛べる形質を持って生まれてきたから、生後の努力で飛べるようになったのです。キューの進化の内実がどこにあるのかといえば、「羽ばたいて飛べる身体的特徴を持って生まれてきたこと」です。すなわち、「突然変異したこと」が「進化(のプロセス)」なのです。

 仮に、キューが飛ぶことができたあの決定的瞬間を「生物の歴史において決定的瞬間」と言うのであれば、こう言うのが適切ではないでしょうか。

「キューが他のノビサウルスたちと違って羽ばたいて飛べる遺伝形質を持って生まれてきた個体、すなわち突然変異した個体であることが目視で観察できた決定的瞬間だ!」と。

(とはいうものの、あの感動的な盛り上がりシーンでここまで説明的なセリフを入れ込んでは、興を削いでしまいますね・笑)

 

 『のび太の新恐竜』はノンフィクションや科学啓蒙映画やハードSFではありません。ですから、かならずしも正確な科学知識を盛り込む必要はないし、科学知識が不正確だからといって責められる筋合いはないでしょう。

 私は、この映画の科学的不正確さに文句をつけているのではありません。フィクションで描かれた不正確かもしれない知識を取っ掛かりにして、できるだけ正しい知識を確認しようとしているのです。

 

 映画ドラえもんに対し、もし「藤子・F・不二雄作品らしさ」「藤子F的な映画ドラえもんらしさ」を求めるとするならば、厳密な科学的知識とは言わないまでも、小中学校の理科的な知識くらいは正しく(あるいは、もっともらしく)きちんと描いてほしい、という願望はあります。あるにはあるのですが、私が藤子Fらしさをガチで求めてしまうと、F先生の生前の作品と新しい作品とを比べるあまり、新しい作品を楽しめなくなる“比較地獄”に陥りそうで、そうなってしまうのを避けたいという気持ちがあります。

 ですから私は、現在の映画ドラえもんに対し、藤子Fらしさを強く求めることはしないようにしています。いや、今の新しい映画ドラえもんやTVアニメなどから自分なりにF先生らしさを見つけられたら、それは素直に喜びますよ。ですが、「これはF先生らしくないからダメだ!」「F先生はこんなの描かないぞ!」といきり立つのは極力避けたい、ということです。

 

 そもそも、映画ドラえもんに携わるたいていの現役クリエーターさんはF先生へのリスペクトを十分にお持ちでしょうし、F先生らしさをご自分なりに再現なさろうとしているのではないでしょうか。F作品を担当するのは、それだけでプレッシャーだとも思います。「藤子・F・不二雄らしさ」に過剰に呪縛されるあまり、才能ある現役のクリエーターさんがたのセンスや個性や想像力が過度に抑圧されてしまうのは、残念な事態です。

 ですから私は、新しく発表される映画ドラえもんやTVアニメなどに対しては「F先生のマンガを原作に使いつつ、各クリエーターさんの持ち味をそれぞれに発揮した作品」と受け止めるようにしています。そのなかでF先生へのリスペクトやF先生らしさを感じさせてもらえれば、藤子ファンの一人として素直に嬉しいですし、そういうものを感じられなくても、その作品がその作品なりに面白ければ、それをおおらかに楽しもうと思うのです。

 もちろん、なかには個人的に楽しめない作品もあるし、楽しめないものは無理に楽しもうとする必要もないと思うのです。楽しめないものを無理に楽しめるようにするのもまたオツな行為かもしれませんが。

 

 まあ、とにかく、私はフィクションで描かれた科学知識に文句をつけられるほど科学に詳しくありません。それに、マンガやアニメの魅力にはウソやデタラメを面白く描けるところもあるとも思うので、科学知識の不正確性に目くじらを立てるようなことは極力したくありません。したくない…というより、そもそも知識がないからできない…と言ったほうが穏当かもしれません(笑)

(科学に詳しくないなりに、このフィクションは科学知識を正確に描いている!と感じられたときは、それはそれで「すばらしい!」と思ったりもします)

 

  マンガやアニメは、教育的立場の人や圧力団体から「子どもの教育に悪い」「勉強の邪魔になる」「読むと(観ると)馬鹿になる」「デタラメを描いている」「子どもが間違ったことを憶えたらどうするんだ!」「子どもが真似したら危ないじゃないか」などと昔から批判されてきました。そういう批判は、現在も根強くあるのでしょう。私は、マンガやアニメが自由にデタラメを描きウソをつける媒体であり続けてほしいと願っているので、そういう批判に(落ち込んだり傷ついたりはするけれど)屈したくはないです。

 

 日々の生活のなかで“教育”によって窮屈な思いをしストレスをためている子どもたちが、つかの間でもその教育の抑圧から逃れて精神的な自由を得られる。それが、児童向けエンタメの重要な役割の一つだと思います。ですからマンガやアニメは、教育的であってもいいけれど、べつに非教育的であってもいいのです。

 教育を否定するのではありませんよ。教育は大切です。そのうえで、教育がもたらすストレスからほんのわずかな時間でも逃れ、日々の暮らしとは別の世界で楽しませてくれる……。それがエンタメのステキな役割だと思うわけです。

 

 『のび太の新恐竜』に関しては、むしろ、「進化」というトピックをキャッチーに扱ってくれたおかげで、今一度、進化について関心を抱き、関連する本の一冊や二冊でも読んでみようかな、という気にさせてくれて、実にありがたいと思っています。少なくとも私は、進化について学びなおす機会を得られたので、一個人として感謝しています。

 『のび太の新恐竜』は、エンタメとして感情面でジャバジャバと満足感を与えてくれたうえ、進化への関心を促してくれたのです。私には、この映画は教育的に作用してくれたのでした(笑)

 

 なんだか「キューの進化とはどういうことか?」という話題から逸れてしまいましたね……。

 とにかく今述べてきたように、私はフィクションにおける科学知識の不正確性を責めるようなことはしたくありませんが、それにしても『のび太の新恐竜』であらためて大胆不敵だなあと思うのは、一個体ががんばって飛べるようになった「達成」と、個体の意志やがんばりとは関係なく起きる「生物進化」とを、怒涛の展開のなかで重ね合わせ、熱い感動シーンに仕立ててしまったその演出です。

 進化に関する本を読めば、たいてい、一個体ががんばっているうちに進化が進むわけではない、といったことが書かれています。

 それなのにこの映画は、一個体ががんばっているうちに進化したかのようにも受け取れる演出を敢行しているのです。

 飛べ、飛ぶんだキュー!→キューがついに飛べた~!→よくがんばったぞキュー!→それはなんと生物の進化した瞬間でもあるんだ~!といった感じで、「熱血スポ根的なノリ」と「熱血や根性ではどうにもならない生物進化」とをシンクロさせるアクロバティックな離れ業を見せてくれます。

 

 『のび太の新恐竜』は、「一個体ががんばっているうちに進化したかのようにも受け取れる演出を敢行している」映画ではありますが、キューがただやみくもにがんばったから羽ばたいて飛べたのではない、ということを読み取れるヒントはきちんと示しています。

 キューがついに飛べたそのクライマックスシーンより前の段階で、「キューの身体が小さく尾が短いこと」をちゃんと提示していますからね。一度ならず少なくとも二度は、ビジュアルだけでなくセリフでもはっきりと指摘しています。

 キューが「通常の同種よりも明らかに身体が小さく尾が短い個体であること」(=「突然変異した個体」であることを推定できる情報)を前もってきっちり示したうえで、キューの「時間経過による成長」と「努力」を描写し、キューが「羽ばたいて飛べる」という結果を描いているのです。

 そういう視点で物語の筋道をたどれば、キューは突然変異した個体であり、その生まれつきの形質に生後の発育と訓練が加わったから羽ばたいて飛ぶことができた、ということになります。

 

 つまり、

「他の仲間は飛べるのに自分だけは飛べない、という欠点を持った個体の誕生」→「がむしゃらな努力」→「飛翔できた」のではなく、

「突然変異した個体の誕生(この時点で、飛翔できる身体構造をすでに獲得している)」→「がむしゃらな努力+時間経過による身体の成長」→「飛翔できた」のです。

 

 そういうふうにキューが飛べるまでのプロセスを読み取れば、科学的に正しい生物進化の理論と大きくは矛盾しないのではないでしょうか。一般の鳥だって、生まれてすぐには飛べず、生後の成長と訓練が必要だったりするわけですから。

  

 キューの進化について、私なりに考えをめぐらせてきました。こういうふうに考えることが正しい、と申しているのではありませんよ。私自身は、それなりに正しいんじゃないか、と勝手に思いながら書いていますが、正しいからこんなことを考えてみたのではありません。

 こういうふうに考えることでキューへの思いがますます深まっていくのが楽しいのです。楽しいからこう考え、こう考えるからますます楽しくなる、というわけです。

 

 

  ■映画『のび太の新恐竜』感想【その1】「泣く準備はできていた」        

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/19/204541

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その2】「羽毛恐竜キューの生態に思いを馳せる」 

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/20/121759

「芸術新潮」がトキワ荘特集

  10月24日に発売された「芸術新潮」11月号の特集は「トキワ荘と日本マンガの夜明け」です。

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 トキワ荘を紹介する記事いろいろ、関係者インタビュー多数、資料的なページも多々あって、質量ともに充実のトキワ荘特集です!

 

 トキワ荘時代の先生方が描いた作品たちが39ページ分再録されているのもスゴい!

 ・寺田ヒロオ『漫画つうしんぼ』『おんぼろ地蔵物語』

 ・新漫画党合作『神様からもうひとつ目をもらったら』

 ・石ノ森章太郎『墨汁一滴』

 ・赤塚不二夫『ナマちゃんのにちよう日』

  といった再録ラインナップです。

 

 高井研一郎先生秘蔵の写真とはがきが載っているページにだいぶ見入ってしまいました。手塚先生が九州まで逃避行したときの写真(『ぼくのそんごくう』代筆事件のときのもの)とか、トキワ荘時代の藤子先生、赤塚先生、石ノ森先生から届いた年賀はがきとか、じつに貴重なものを見られた!と感動しました。

 

 当ブログらしく藤子不二雄ファン目線でこの特集を見た場合でも、藤子先生のお名前が随所に出てきてうれしいです。

 トキワ荘に住んだ漫画家さん一人一人を紹介するページでは、当然F先生もⒶ先生も紹介されています。

 吉本浩二先生が絵を描いた10ページにわたる絵物語トキワ荘の青春」でも、藤子先生のエピソードがいくつも出てきます。

 「トキワ荘こぼれ話」のコーナーを読むと、『まんが道』に登場する「松葉」について書かれていたり、「なぜ「不二雄」「不二夫」?」というトピックもあったりして楽しいです。

 中条省平さんが書いた「黎明期のマンガ進化論」という文章では、手塚先生の『新宝島』を初めて見たときのⒶ先生の言葉が引用され、『ロストワールド』の新しさを指摘したⒶ先生の言葉も紹介されています。『まんが道』のもっとも感動的なエピソードのひとつとして、満賀道雄が手塚先生の『ジャングル大帝』のラストシーンを手伝う場面にも言及。さらに、藤子先生が「週刊少年サンデー」の創刊とともに『海の王子』の連載をしたこと、Ⓐ先生が『シルバークロス』を描いたことにも触れられています。

 「トキワ荘ワールドをもっと楽しむための展覧会&施設案内」では、川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム氷見市潮風ギャラリー藤子不二雄Ⓐアートコレクションの情報を掲載!

  そして、再録作品の新漫画党合作『神様からもうひとつ目をもらったら』の執筆者の一人がF先生です。

 

 というふうに、藤子的にも読みどころが随所に見つかる特集です。

 そもそも、トキワ荘の特集ですから、ほとんどの話題は(藤子先生の名は出てこなくとも)藤子先生と関連のある事象ですから、全体的に読み応えがあるのです。

クリストファー・ノーラン監督の『テネット』を観た

 クリストファー・ノーラン監督の映画『TENET テネット』を劇場で観てきました。

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 逆再生したような光景と時間どおりに進んでいる光景が一つの画面に同居する…という不可思議な映像にひたすら目を奪われました。

 “逆行と順行の共存”というアイデアを、精密に、ハイテンポに、美しく、迫力たっぷりに映像化していて、それを劇場のスクリーンで観る!という映像体験ができただけでだいぶ満足です。

 

 一つのシーンに複数の時間軸が交差して、やたらと情報量が多い映画なので、細かいところは一度観ただけでは理解が追いつきませんが、まさにその時間軸の交差が迫真的に映像化されたことがすばらしいのです。なんだあのカーチェイスは!なんだあの戦闘シーンは!と今までどんなフィクションでも観たことのない光景に驚喜しました。

 

 2度目を劇場で観ることはできなそうですが、2度、3度、4度と繰り返し観返したくなる映画でした。とくに前半パートにこめられた意味や仕掛けられた伏線がわかったうえで鑑賞すると、見えてくる世界が初見時とずいぶん違って感じられそうです。DVDなど映像ソフトで一時停止や早戻しを何度もしながらこってりと観たくなる映画でもあります。

 

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 この映画のパンフレットで、山崎貴さんが『テネット』から藤子・F・不二雄先生を想起しています。

「この作品は、僕には、まるで藤子・F・不二雄先生が描いたスパイアクションみたいに思えるんですよ。非常に「ドラえもん」的な何かを感じるんです。」

 

 SNSを見ていると、山崎さん以外にも、F作品を思い出した人は結構いらっしゃるようです。

 ネタバレになるので具体的には触れませんが、私も藤子F味を感じるところはありました。そもそも、こういう時間SFに触れるとF作品を思い出しがちな私ではありますが…。 

 

 ノーラン監督の作品だと、私は『インターステラー』からいろいろと藤子F味を感じました。どんなところでF味を感じたかは、こちらで書いています。

 ■映画『インターステラー』と藤子F作品

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/20150118

 

 共通のSF的題材を、F先生は平易に咀嚼して描こうとしたのに対し、ノーラン監督は、一度の鑑賞では理解が追いつかないくらい難解チックに描いている、という印象を私はおぼえます。

 そのうえでなお、両者とも極上のエンタメを作ろうとしている点で通じ合うものがあるような気もします。