「のび太の地底国」放送

 本日5月27日の『わさドラ』は、Aパート・Bパート両方使って「のび太の地底国」を放送した。こうしたパターンは、4月29日の「どくさいスイッチ」以来であり、次には、7月1日の「天井うらの宇宙戦争」が待ち受けている。先週5月20日放送の「ハロー宇宙人」も、原作のボリュームからいって、この形態でやったほうがよかったような気がする。



●「のび太の地底国」
 冒頭でのび太は「あれのない国へ行きたい」とわめき出す。「あれ」とは、のび太が通う学校のことだ。算数のテストで0点をとって先生に叱られたのび太は、学校さえなければ先生にもママにも叱られないから、学校のない国へ行きたい、と身勝手な主張をする。
 ドラえもんが「子どもは学校で勉強しなくちゃいけないと日本の法律で決められている」と諭すと、のび太は「日本は嫌な国だ」とさらにわがままを言う。気晴らしに空地へ遊びにいけば、空地一面に工事用の資材が置かれ、子どもたちが遊ぶスペースは残されていない。そこで『わさドラ』初登場の出木杉が、「日本が狭すぎるんだよ」とこぼす。
 のび太の「日本は嫌な国だ」とか、出木杉の「日本が狭すぎるんだよ」という台詞によって、現に自分らが暮らす国に対する彼らの不満が示されている。その不満の描写が、もっとよい国に住みたいという彼らの願望を暗示し、あとになって夢のような地底国を手に入れた彼らの喜びを、いっそう引き立てることになる。


 帰宅したのび太は、0点の答案用紙をママに見つからない場所に隠したいと訴える。そこでドラえもんは、四次元ポケットから「どこでもホール」を取り出した。
「どこでもホール」は、地面の中に自然にできた穴を探しあて、その穴と今自分がいる地面とをつなぐ道具だ。のび太がたまたま探しあてた穴は、単なる穴ぼこではなく、どこかの国の地底に広がる大洞窟だった。0点の答案を隠そうというのび太の日常的な行為が、遠い外国の大洞窟という非日常に直結してしまうところが、『ドラえもん』らしくておもしろい。


 のび太ドラえもんは、たまたま発見したその大洞窟を利用して、〝子どもの子どもによる子どものための国〟をつくろうと考える。手始めに「ミニブルドーザー」や「光りごけ」といった秘密道具を使って、人間の住める環境を整えはじめ、そのうえで、新しい国の国民を選ぶ作業に入った。
 結局、いつもの仲間に出木杉を加えた6人が地底国の国民に選ばれた。6人が揃って地底の洞窟に降り立つと、そこには美しく整地された広大な空間が広がっていた。原作では、この広さを表現するため、「ひろびろ〜」という描き文字の擬態語を使っている。そのあからさまで、ある意味安直な擬態語が上半分のスペースを占めていて、その下方に6人のキャラクターが極小サイズで描かれているコマは、「広い」という感覚を手短にわかりやすく伝えてくれる。とともに、「ひろびろ〜」という描き文字からは、妙なおかしみが漂っている。
 それが今日のアニメでは、ジャイアンスネ夫が整地された洞窟内を思いきり走り、息を切らしてのび太らのもとに戻ってくるという行動描写を入れることで、「ひろびろ〜」とした様子を表現していた。マンガでは描き文字で示していた広さの感覚を、アニメではキャラクターの行動で表現していて、こうしたところにそれぞれの表現形式の特性が生かされていると感じた。


 自然の洞窟を加工した広大な空間のなかに、のび太ら6人は都市を建設しようとする。原作では、「ちゃんとした都市計画をつくらなきゃ」という出木杉の提案に従って、整然と区画された都市が順調にできあがっていくのだが、今日のアニメでは、そうなる前に、各人がてんでバラバラに建物や道路をつくり騒動を起こす。そのあたりのところが意外におもしろかった。
 しずかちゃんが下手なバイオリンを弾いたり、のび太がでたらめに道路を敷いたり、ドラえもんが自分の家を建てたと思ったら、ジャイアンがつくった音楽ホールがその上に乗っかってきて、さらにそこへ骨川スネ夫記念博物館も乗っかってくるという大道具ドタバタがあったり、と愉快なシーンが連続したのだ。
 そうしてできあがった無計画な都市を、ドラえもんが竜巻で一掃してしまう、というのも印象的な場面だった。神が洪水を起こして人類の文明を洗い流してしまう神話の一場面や、ハリウッド映画のスペクタクル・シーンを少し思い出したが、もちろん今日のシーンはそこまで大規模でシリアスなものではなく、つくりそこねた実物大の箱庭がざざざっと一掃されてくという感触だった。


 そんな騒動のあと、出木杉の指揮のもと、ようやく美しい都市が完成する。そこで国民による議会が開かれると、のび太が自らの首相就任と「のび太国」の建国を宣言。のび太は皆に万歳を求めるのだが、そのときの皆の気のない万歳には思わずクスリとさせられた。
 4月29日に放送された「どくさいスイッチ」で証明されたように、のび太が強大な権力を握ればろくなことにならない。案の定、国の平和を乱す者を取り締まるための道具「ロボ警官」を悪用し、好き勝手な政治を始めるのだった。優等生の出木杉に宿題を見せてくれと要求したり、物持ちのスネ夫におもちゃを提供するよう迫ったり、自分以外の国民に労働を強制したり、とやりたい放題で、首相である当人は何をやっているかといえば、昼寝ばかりというのび太らしい体たらくだ。
 この辺の展開は原作と同じだが、のび太が自分の銅像を建立するというのはアニメオリジナルだ。その銅像は、金ピカで巨大で、悪趣味といえば悪趣味な造形物だった。この巨大銅像の登場で、のび太の独裁者ぶりがよけいに強調されることになった。


 のび太首相がつくりあげた国は、ロボ警官が国民を統制・監視する警察国家だった。のび太の巨大銅像が見おろす街の中を、ロボ警官やパトカーが行き来するシーンは、そこが警察国家であることを如実に表している。このシーンも原作になく、のび太の悪政は、原作よりもアニメのほうがひどいものに感じられた。
 最終的には、国民によるクーデターが起こり、のび太はあえなく失脚。それに合わせたように、のび太独裁政権の象徴である金ピカ巨大銅像が倒壊、その衝撃によって、地底国そのものがすべて壊滅するというカタストロフィを迎える。原作ではこの壊滅の原因が、ドラえもんの台詞から「地震」だとはっきり読みとれるが、アニメではそのへんが曖昧にされている。
 地上に戻ったのび太は、せっかく洞窟に隠した0点の答案が結局ママに見つかり、さんざんお説教をされる。0点の答案を隠すところから始まった地底国家建設の物語が、0点の答案がママに見つかって叱られるという日常に帰ったのだ。



 さて、このあたりからアニメというよりは、藤子・F・不二雄先生が描いた原作の情報・解説になる。
のび太の地底国」の原作は、「小学五年生」昭和55年2月号が初出で、「てんとう虫コミックス」26巻、「コロコロ文庫」0点・家出編などに収録されている。


のび太の地底国」のように地底世界を舞台した話は、『ドラえもん』をはじめ、他の藤子・F作品でも結構見られる。
のび太の地底国」は、のび太が0点の答案を隠すため「どこでもホール」で洞窟を発見するところから話が広がっていくが、これと同じ発端でさらに大きな冒険物語に発展していくのが、大長編ドラえもんのび太と竜の騎士』(「コロコロコミック」昭和61年11月号〜昭和62年3月号)である。「のび太の地底国」は、『のび太と竜の騎士』のモデルになった短編なのだ。
 別の大長編ドラえもんのび太の創世日記』(「コロコロコミック」平成6年9月号〜平成7年3月号)には、「常世の国」という地底世界が登場するが、この「常世の国」について藤子・F先生はこんなことを述べている。

『浦島伝説』なんて民話にしても、地方によって少しずつ違う『浦島伝説』が伝わっているんですけど、中には常世の国が地底にあったとする話もあるわけですよ。で、地底に行ったら長者屋敷があって、金持ちになって帰ってくるとか、数えあげればきりがないくらい、世界中に似たような話があると思うんです。
(「藤子・F・不二雄の異説クラブ」(小学館/平成元年12月1日初版第1刷発行))

常世の国」とは、私たちに耳馴染みのある言葉でいえば、「竜宮城」のことなのだろう。


 藤子・F先生は、地底に文明があるとか地底に街を作るとか、そういった地底世界へ空想の翼を広げるのが好きな作家だった。
 我々が暮らす地球の内側に大きな空洞が存在していて、そこで高度な文明が形成されている、という考えは、一般的に「地底空洞説」と呼ばれる。その規模が大きくなり、地球全体にわたって空洞が広がっている、という考えになると、「地球空洞説」などと言われたりする。「のび太の地底国」は、のび太が0点の答案を隠そうとして地底の洞窟を発見するという発端から、「地底空洞説」のほうへ進み、『のび太と竜の騎士』は、「地球空洞説」へと話を膨らませていったわけである。
 藤子・F先生が、こうした「地底空洞説」なるものに初めて出会ったのは、フランスのSF作家ジュール・ヴェルヌの小説『地底探検』においてだったという。藤子・F先生がまだ子どもの頃の話だ。
 昭和23年に刊行された手塚治虫先生の『地底国の怪人』も、藤子・F先生の地底世界への興味を大いに触発したにちがいない。この『地底国の怪人』は、マンガで本格的なSFが描けるんだ、マンガで悲劇を描いてもいいんだ、とマンガというメディアが孕む限りない可能性を藤子・F先生に意識させた最初期の作品である。


のび太の地底国」には、「光りごけ」という秘密道具が出てくる。「光りごけ」は、暗い洞窟のなかにまいておくと岩に付着して増殖し、あたり一面を日光のように照らす性質をもっている。
 私は、「光りごけ」と聞くと、武田泰淳の短編小説『ひかりごけ』を連想してしまう。武田泰淳の『ひかりごけ』は、人肉食を主題にした、独特の構成の小説であるが、その序盤は、北海道の標津から羅臼あたりの情景を丹念に描写した紀行小説のようで、少しすると、「マッカウシ洞窟」のなかで「私」が本物の「ひかりごけ」を初めて見るシーンが出てくる。その「ひかりごけ」の描写が印象的なのでここで引用したい。

自分が何気なく見つめた場所で、次から次へと、ごく一部分だけ、金緑の高貴な絨毯があらわれるのです。光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言ったほうがよいでしょう。光りかがやくのではなく、光りしずまる。光を外に撒きちらすのではなく、光を内部へ吸いこもうとしているようです。

ドラえもん』の「光りごけ」は、日光のように一帯を照らし出す積極的な光を放つが、こちらの「ひかりごけ」は、かすかで控えめで、光りしずまると表現されるような内気な光り方をしているようだ。




●ミニシアター

「ボールに乗って」
初出:「小学一年生」昭和47年11月号
単行本:「てんとう虫コミックス」14巻などに収録

 前回、前々回と、「よいこ」掲載の単行本未収録作品が登場したが、今回は「てんとう虫コミックス」に収録された、ファンにはお馴染みの作品のアニメ化だった。
 この作品、ミニシアターでいつか放送されるだろうと楽しみにしていたので、今日の放送を観て「おお、来た来た」と心の中で叫んでしまった。