『地獄変』

 先月の末ごろインフルエンザにかかってしまいました。20年以上発症していなかったので、ほんとうに久しぶりのインフルエンザ体験でした。


 発熱がピークに達している最中はつらくて何もできませんでしたが、薬の作用で熱が下降状態に入ったとき(平熱までは戻っていないものの)退屈しのぎに本でも読みたくなりました。せっかくなので、身体が病的に熱を帯びたこの状態で読むからこそ特異な効果を得られそうな本を読みたい、と思いました。
 かといって、あれこれ本を探索する余裕はなく、結局、寝床の近くに積んであった本の中から芥川龍之介の『地獄変』を手に取りました。この小説には、牛車の中の女が生きたまま焼き殺される炎熱シーンがあります。それが発熱でモウロウとした私の意識とどこかしらシンクロするのではないか…と少しだけ期待したのでした。
 
 牛車もろとも若い女が焼き殺される場面は、まことにおぞましいです。そんなふうに生身の女が焼き殺される事態の発生を願ったのは、絵師の良秀です。良秀は高名で優れた絵師でしたが、性格が気難しく意地悪で、他人から敬遠されるタイプでした。そんな良秀でも自分の娘だけはたいそうかわいがっており、非常に子煩悩な父親でありました。
 良秀は大殿様に依頼されて地獄変(地獄で苦しめられる亡者たちの様子を表現した絵)を描くことになるのですが、自分で実際に観たものでなければ良い絵が描けないといいます。燃えさかる牛車の中で悶え苦しむ艶やかな女の絵を描きたいのでその光景を実際に観たい、と良秀は大殿様にお願いに上がります。大殿様は、良秀が望む光景を見せてやろう、と約束。そこで大殿様が牛車に乗せる女として選んだのが、良秀のかわいがっている娘だったのです。
 火をかけられて悶え苦しむ我が娘を前にして衝撃を受けた良秀は、恐れと悲しみと驚きの表情を浮かべるのですが、それでも娘を助け出すことはせず、しばらくすると恍惚とした喜びの表情に変わり、燃え上がる牛車と苦悶する娘の姿を目に焼き付け、やがて地獄の絵を完成させるのでした。
 娘が焼き殺されるシーンはそれ自体がたしかにおぞましいのですが、そんな事態をつくり出してしまった良秀と大殿様の心理や言動から、私はさらに鬼気迫るおぞましさを感じます。自分の娘が眼前で焼かれているのに助け出さず絵を完成させることを優先した良秀の態度は、批評家などのあいだで「作品のためには一切の妥協を許さない芸術至上主義のありよう」と評されることが多く、それはそれで適切な評価だとは思うのですが、生きたまま焼き殺されてしまった娘の立場を思えば、私は良秀からも大殿様からも狂気じみた独善性を感じ取らずにはいられません。いったいこの2人は何をやってるんだ…と呆れるようなムカつきのような感情をおぼえるのです。



地獄変』の作中では、そんなひどいことをやってしまった良秀と大殿様に対し、彼らを悪く言う巷の声が挙がるわけですが、完成した良秀の絵は、そんな巷の声を黙らせてしまうほど強烈な力を持っていました。それほどの力を持った絵とはいったいどんなに凄いものなのだろう、と私もこの目で確認したくなってきました。さっき良秀や大殿様のむごたらしい所業にムカつきを感じたばかりなのに、そんな良秀や大殿様の所業の結果できあがったおぞましい絵に心誘われてしまう自分に、少々後ろめたさを感じたりもしました。



 そんな感じで、インフルエンザによる発熱のなか芥川の『地獄変』を読みました。そうすると、『エスパー魔美』の「リアリズム殺人事件の巻」も続けて読みたくなりました。「リアリズム殺人事件」は『地獄変』を題材とした話なのです。
 その作中で高畑さんが芥川の『地獄変』がどんな物語なのかを見事に要約し、魔美に語っています。私は「リアリズム殺人事件」を読むずいぶん以前から『地獄変』を読んでいたのですが、この高畑さんの要約に触れて「『地獄変』ってそんな話だったんだ!」と感嘆してしまいました。あらためて、作品の内容がピンと来るような気がしたのです。それほどまでに高畑さんの要約は的確で見事で、わかりやすく響いてくるものでした。
「リアリズム殺人事件」には、『地獄変』を徹底したリアリズムの手法で映画化しようとする竜王寺監督が登場します。この監督もまた、芥川の小説の中で良秀や大殿様が行なったことと同じことを実行しようとします。生身の女性を牛車とともに焼き殺し、それを撮影することで自分の映画のリアリズムを獲得しようとしたのです。
 このショッキングな事件に接した魔美は、事件の解決後、画家であるパパにこう尋ねます。
「たとえばジャンヌ・ダルクの火刑を描くとしたら……モデルに火をつけてみたほうが、いい絵をかけると思う?」
 パパは答えます。
「なにをバカなことを!! モデルは素材にすぎん。それからイマジネーションをふくらませていくのが画家の仕事じゃないか!!」
 魔美はこの言葉を竜王寺監督に聞かせてあげたいと思います。これこそ本当の芸術家のありかただと感じたからです。私も、胸のつかえが下りたような気持ちになりました。
 このパパの考え方は、藤子・F・不二雄先生ご自身の芸術観が表明されたものではないかと思えます。F先生の作品にはF先生の分身的なキャラクターがいろいろと登場する(大まかに言えば、F作品のどのキャラクターも少しはF先生の分身的性質を持っている)わけですが、魔美のパパである佐倉十朗氏は、その発言やたたずまい、絵を描く人物であること、娘を持った父親であることなどから、F先生の分身的キャラクターとしての濃度が高いと自然に感じられます。パパの言動が、こちらが特に意識せずとも、F先生ご自身の言動のように心にスッと入り込んでくるのです。