謹賀新年

 謹賀新年
 
 新年になってすでに3日目ですが、みなさま今年もよろしくお願いします。
 幸多き年でありますように。


 正月を舞台にした藤子マンガはいろいろとあります。ドラえもんのび太の家に初めてやってきた日が元日ですしね。
 そんななか今年の正月に読み返したのが、SF短編『宇宙(そら)からのおとし玉』です。この作品は、新年の3日目から物語が始まるので、ちょうどその日に読んで気分を出してみたのです(笑)ここに登場するラジコンマニアのおじさんは禿頭でちょび髭ですが、F先生の自画像的キャラクターです。そのおじさんの年齢が49歳…。私が今年誕生日を迎えたときの年齢と同じだったりします…。
 『宇宙からのおとし玉』に、好きな女の子が別の男とキスする瞬間を目撃した主人公の少年が大きなショックを受けてその場を駆け出すシーンがあります。それが私のなかでは、Ⓐ先生の『まんが道』で満賀道雄が霧野涼子さんのキスシーンを目撃するくだりと重なります。満賀もショックを受けてその場を駆け出すのです。
 前日の2日(月)には『ドラえもん』の「ぐ〜たらお正月セット」も読みました。元旦の話なので1日(日)に読めたらもっとよかったのですが、タイミングを逸しました。私もぐうたら気分で正月をすごしているので、誰にも煩わされず布団のなかでウツラウツラと過ごしたいと思いつつ「しかし、一方では人なみに正月らしいことしたいな、とも思うんだ」などとわがままなことを訴えるのび太にちょっと共感しました(笑)


 以下、藤子作品と関係のない話になりますが、私はこうして正月を過ごしました…ってことで記します。
 初詣は、犬山成田山でした。わが家の恒例です。
 
 
 
 長めの石段をのぼって本堂を参拝。その高さから眺望できる濃尾平野犬山城の景色がすばらしいです。
 
 
 ・濃尾平野を見渡す。

 
 
 ・国宝・犬山城


 
 ・おみくじは「吉」でした。


 それにしても、新年を迎えることによる“祓い清め”の効能はとてもありがたいです。昨年一年間にたまった煤(モノもココロも)を払い、新たに清い身で出発できる……ような気持ちを授けてくれます。天体の運行をもとに「1年」というまとまりを決め、その1年が経過するたびに新年を迎えられることにしたのは、人類の偉大なる発明だと思います。定期的に心機一転の大規模なタイミングが到来することの恩恵は絶大です。
 現在は年齢を“満年齢”で数えるのが一般的ですが、“数え年”が一般的だった時代、正月というのはみんなでいっせいに歳を取る日であり、それが正月の持つ大きな意味でした。神さま(年神様、歳徳神)をお迎えして年齢を一つ授けてもらえるのが正月だったのです。自分も家族も友人も近所の人もみ〜んなまとめて一つ歳を取るのですから、それはもうおめでたいわけです。(冥途に一歩近づくのでめでたくもない、ととらえることもできますが・笑)
 現代社会では正月における歳取りの意味は失われましたし、正月らしい特別な過ごし方というのも年々薄らいで(変化して)いるのですが、それでも祓い清めの効能は大きいですから、今後も正月を盛大に心からお祝いする習慣は大切にされていくのでしょう。
 数え年にまつわる話で印象的なのは、そこで数えられているのは“たましい”であるという考え方です。赤ん坊にもたましいがあるのだから、生まれた時点で1歳と数える。そして、元日を迎えるたびに年齢が一つ増えるわけですが、それは、たましいの数が増えることを意味するのだそうです。新年を迎えるたびに神さまから年玉としてたましいを授けられるのです。
 民俗学者の新谷尚紀さんが書いていたことですが、満年齢が時間の長さを基準に数える年齢であるとすれば、数え年はたましいの数を基にした年齢です。そうやって対比的に見ると、満年齢が物理的な時間の長さと直結していて合理的な尺度であるのに対し、数え年にはなんとなく霊性のような、詩情のようなものを感じます。
 身も蓋もなくいえば、数え年が「1」から始まるのはゼロの概念の有無とか普及度とも関係してそうですし、旧暦(太陰太陽暦)の社会では数え年のほうがなにかと便利だった、ということもあるでしょう。ですが、民俗学的な見方をすると、数え年が情緒的な魅力を湛えているように感じられ、ほんのりといとおしくなってくるのです。
 とはいえ、数え年を復権せよ!なんて言い出すつもりは毛頭ありません。生まれたときから満年齢が当たり前だった身としては、ふだんの生活のなかで数え年といわれても感覚的にはいまいちピンとこないのです(笑)厄年などもほぼ気にせず今日まで来てしまいましたし…。


 などということも少しは考えつつ、新年をすごしております。