藤子・F・不二雄先生のSF短編『旅人還る』

 公式サイト「ドラえもんチャンネル」が、STAY HOME特別企画「まんが無料配信」を実施中です。3月13日(金)午前10時から3月17日(水)午前10時までは、以下の3作品が配信されています。

 配信期間:3/13(金)AM10時~3/17(水)AM10時

・「しあわせな人魚姫」(てんとう虫コミックスドラえもん」19巻より)

・「大あばれ人魚姫」(てんとう虫コミックス「新オバケのQ太郎」3巻より)

・「旅人還る」(藤子・F・不二雄SF短編集Perfect版7巻より)

 https://dora-world.com/contents/1766

 

 『ドラえもん』の「しあわせな人魚姫」と『オバケのQ太郎』の「大あばれ人魚姫」は、どちらも童話『人魚姫』を題材としたギャグエピソードです。そんな2作を同時配信するとは心憎いではないですか。

 

 「大あばれ人魚姫」は、みんなで劇の稽古をするうちに滅茶苦茶になっていくお話です。その意味で、『オバケのQ太郎』の「ぼくが主役だ」や『ドラえもん』の「なぜか劇がメチャクチャに」と合わせて読むとますます面白そうです。

 

 そして、この配信企画で毎回恒例となっているSF短編枠は、

 『旅人還る』(初出:1981年)

 がチョイスされました!

 はるかなる宇宙を舞台にした大傑作短編です。

 「藤子・F・不二雄版『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968年公開)」と言いたくなる趣がありますし、『インターステラ―』(クリストファー・ノーラン監督、2014年公開)を観たときは『旅人還る』と重なる要素を感じずにはいられませんでした。

 『2001年…』や『インター…』は莫大な予算をかけて制作された長編映画ですが、そういう映画で感じる気の遠くなる壮大な宇宙旅行の感覚をわずか30ページの短編マンガで味わわせてくれるのが『旅人還る』です。

 大いなる宇宙の、果てしなくはるか遠い地点へ連れて行ってくれるのです。

 

 『旅人還る』を読み返すたびに、“空しい”という感情の底知れなさに打ちのめされます。途方もなく壮大なスケールの時間経過と移動距離のなかで募っていく、この作品だからこその“空しさ”です。

 そのうえで、絶対的な虚無とも言える“空しさ”に支配されながら、それでもなお心身のどこか残存する望郷の念に胸を突かれます。「二百億年たまりにたまった涙」に気が遠くなりながらも心を揺さぶられます。

 “”を表現した見開きシーンを目にした衝撃は、本作を初めて読んだときから忘れられません。圧倒的な“無”の存在感でした。

 

 なぜ人類は未踏の領域へ冒険に出るべきなのか。そのことを熱く語る演説シーンに触れると、妙に説得力を感じ、心を駆り立てられるところがあります。(心を駆り立てられても、私はああした冒険には出ませんが・笑)

 この演説に出てくる「フダラク計画」なるプロジェクト名は、「補陀落渡海」が由来です。「補陀落渡海」は不帰を前提とする船出ですから、不帰を前提とする宇宙旅行を「フダラク計画」とするなんて、じつに見事なネーミングだと思います。

 

 『旅人還る』の見事なネーミングといえば、乗組員ひとりだけの宇宙船内で唯一の友となるメインコンピュータを「チクバ」と名づけたのもすばらしいです。「チクバ」というのは、もちろん「竹馬の友」が由来です。

 竹馬の友とは「幼いころからの友/幼なじみ」の意味ですが、主人公の宇宙船員とチクバが出会ったのは、宇宙船員が大人になってからのことです。両者は幼いころから友達だったわけではありません。しがたって、地球上での常識的な時間軸においては主人公とチクバは「竹馬の友」とは言いがたいのです。

 ところが、『旅人還る』で描かれる何百億年という長大な時間スケールを思えば、主人公は何百億年という彼の人生の最初期中の最初期にチクバと出会って友になったことになります。

 両者が出会った時期は、おそらく宇宙船が地球から宇宙へ旅立つ少し前のタイミングだったでしょう。その時点で主人公が何才だったか作中で具体的には示されませんが、ルックスを見る限りまだ若い青年ですから、少し高めに見積もって、彼の年齢を仮に30才としましょう。

 何百億年とすごした人生の時間において30才のころというのは、幼年期も幼年期、それどころかまだ赤ちゃんの年齢だったと言ってもよいくらいです。

 そんな幼齢のころに出会ったチクバは「竹馬の友」と言うに相応しい存在なのです。

 (ちなみに、チクバのモデルは映画『2001年宇宙の旅』に出てくるHAL 9000でしょう)

 

 『旅人還る』で注目したい点は他にもいろいろとあり、たとえば次のようなところにも私は興味を惹かれます。

  主人公の宇宙船員はひとつの恒星系を通り過ぎるごとにコールドスリープに入り、彼が眠っている間にも時間が奔流のように過ぎ去っていきます。宇宙船はどんどん光速に近づき、地球上の時間と宇宙船内の時間とのギャップはどんどん広がります。無数の恒星系を通り過ぎ、地球型惑星も数知れず見つかったのに、文明はありませんでした。そうした年月のなかで主人公の精神に退屈や空しさがはびこってきます。

 やがて宇宙船は、すべての星が不可視の領域に入ります。

 そうした起伏のない無機質な時間が延々と続く状態を、主人公は「のっぺらぼうの時の流れ……」と言い表しました。

 

 この「のっぺらぼうの…」という時間感覚の表現、藤子・F・不二雄先生は別のところでも使っています。

 たとえば、『未来の想い出』のなかに「ノッペラボーの毎日」という言い回しが出てくるのです。

 藤子不二雄の自叙伝『二人で少年漫画ばかり描いてきた』では、藤子F先生ご自身の生活がほぼ同じ状況の繰り返しだったことについて「ノッペラボーのひとつながり」と記されています。

 

 それらの表現をもう少し詳しく紹介しましょう。

 『未来の想い出』では、主人公の漫画家・納戸理人が内心のセリフとしてこう発します。大洪水のように仕事が押し寄せて締切に追われまくる日々なかで吐き出された言葉です。

 

日曜も祭日も昼も夜もないノッペラボーの毎日が‥‥ 轟轟と音を立てて流れていった‥‥‥‥

 

 納戸理人は藤子F先生の自画像そっくりのルックスをしており、先生の分身的キャラクターとしての性質を色濃く持っています。納戸が発するセリフには、藤子F先生ご自身の内面吐露と思えるものがいくつもあります。この「ノッペラボーの毎日」というくだりも、そうした内面吐露のひとつと思えなくもありません。

 

 また、『二人で少年漫画ばかり描いてきた』では、藤子F先生ご自身の毎日の過ごし方が具体的に記述されたあと、次のように書かれます。

 

若干の波はあっても、ほぼ同じ状況の繰返しです。昨日も一昨日も、一カ月前も一年前も、いや、昭和二十九前夏の上京の日以来、今日までが僕の意識の中では、ノッペラボーのひとつながりです

 

 ここで書かれた文章はフィクションではありません。“藤子不二雄”の自叙伝のなかで藤子F先生が担当したパートですから、先生が本当におこなったことや思ったことが記されています。ノンフィクションなのです。

 つまり、「昭和二十九前夏の上京の日以来、今日までが僕の意識の中では、ノッペラボーのひとつながりです」というのは、藤子F先生個人の生活実感にほかなりません。

 

 「ノッペラボー(のっぺらぼう)の…」という表現には、藤子F先生が長年のあいだ漫画家生活をおくるなかで感じてきた実感覚が率直に込められているのでしょう。

 起伏や変化が感じられずのっぺりとした日々が繰り返されるような時間の感覚…。そういう感覚を言い表そうとするとき、藤子F先生は「ノッペラボー(のっぺらぼう)」という語彙を使うと感覚的にしっくりと来たのではないでしょうか。

 

 そういうわけで、『旅人還る』で主人公の宇宙船員が言った「のっぺらぼうの時の流れ……」なるセリフは、藤子F先生が生活のなかで実際に感じてきた“ノッペラボー”感覚“が投影されたものと考えられるのです。

 はるかなる宇宙の旅の途中で宇宙船員に生じた時間の感覚を、藤子F先生はご自分が日々のなかで感じてきた時間の感覚と重ね合わせて表現したのです。

 それを念頭に置いて『旅人還る』のこのシーンをあらためて読んでみるのも、なかなか味わい深いのではないでしょうか。

 

【追記】『懐古の客』にも「平々凡々のっぺらぼうの毎日だもんな」というセリフがあります。