藤子不二雄以外で読んだ本②

 昨日に続き、〝藤子不二雄〟以外で読んだ本について書く。


 貫井徳郎『慟哭』『修羅の終わり』我孫子武丸『8の殺人』『0の殺人』『メビウスの殺人』歌野晶午『長い家の殺人』『動く家の殺人』といった、ミステーリー作家3人の初期作品を立て続けに読んでみた。どれも〝本格ミステリー〟に分類できる作品だろう。


 貫井徳郎氏の作品は、本格ミステリーでありながら、本格ミステリーらしからぬ重厚かつ写実的な文体で物語が綴られていく。まるでリアリズムを基調とした社会派サスペンスのような趣きだが、最後まで作品を読み進めれば驚愕の本格ミステリー的仕掛けが待ち受けていて、「ああ、やっぱりこれは本格ミステリーに属する作品なのだ」と納得させられる。
 社会の深層を抉るリアリズムこそが、貫井作品全体をつらぬく基本的な作風かと思って、上記2作に続いて、『プリズム』『迷宮遡行』『神のふたつの貌』といった作品を読み進めていくと、もっと軽妙な文体の作品もあったりと様々で、貫井氏が1作ごとに作風を変えていく作家だということに気づかされる。
 先般、私は、貫井氏にEメールで〝ファンレター〟らしきものを送ったのだが、貫井氏から「私はいろいろな作風に挑戦をする小説家です。次はどんな話なのかと楽しみにしていただけたら大変嬉しいです。これからもどんどん新たな領域を拓いていくつもりです」との返事をいただいた。貫井作品における1作ごとの作風の変化は、極めて意識的なものであるようだ。


 この作家を特集したムック本「貫井徳郎症候群」(宝島社/2004年12月2日発行)では、貫井氏と作家の瀬名秀明氏の対談が巻頭を飾っていて、そのなかで、以前より藤子ファンであることをあちこちで公言している瀬名氏が「藤子さんのアシスタントになるのが夢だったんです。漫画家にはなりたくなかった」と語っていたり、貫井氏が「『ドラえもん』はかなりの巻が揃ってます。ただ買える漫画と買えない漫画ってあるでしょ。藤子不二雄さんは買えても永井豪さんは買えなかった」と発言していたりして、藤子ファン的にも少しは楽しめた。



 我孫子武丸歌野晶午両氏は、綾辻行人法月綸太郎と同じく、島田荘司に発掘されてデビューした作家だ。彼らの出現は、〝新本格〟と称される大きなムーブメントへと発展した。
 藤子ファンである私が〝我孫子武丸〟といって真っ先に思い出すのが、雑誌「鳩よ!」1998年7月号に載った彼の文章だ。その文題は「『ドラえもん』が嫌いな理由」。


 1962年生まれの我孫子氏は、藤子不二雄といえば『オバQ』であり『パーマン』であり『ウメ星デンカ』であり、近年のアニメ化作品『キテレツ大百科』も好きだが、『ドラえもん』だけは勘弁してほしい、という。
 その理由として、我孫子氏はこのように書いている。

 一番の原因は、のび太だ。あのキャラクターに耐えられない。あのマンガに人気があるということは、あそこまで馬鹿でしかも成長しないキャラクターに対しみんなは感情移入できているということなのだろうか? 
 自分ではなんにもできないくせに自意識とスケベ心だけは強くて、やってはいけないと言われたことをやらずにはおれず、いつも最後はドラえもんに尻ぬぐいをさせる。こういうストーリーこそ、青少年に有害な影響を及ぼすのではないかと真剣に思ったものだ。

 
さらに我孫子氏はこうも言う。

 よくよく考えてみると、むしろ悪いのはのび太よりもドラえもんではないかという気もしてきた。のび太に学習能力がなく、毎度毎度同じ過ちを繰り返すことくらい、二、三本見れば幼稚園児にだって分かることだ。のび太に、誤って使うと大変なことになるようなアイテムを渡すべきではないし、もし渡したとしても目を話すべきではない。その程度のことも学習せず、毎度毎度新しいアイテムを見せびらかすドラえもんこそ諸悪の根源ではないか?

 我孫子氏が『ドラえもん』を嫌う理由を読むと、江川達也の『ドラえもん』有害論やそのほか凡百の有名人・有識者たちが繰り返した『ドラえもん』批判とたいして変わりなく、それだけ取ってみれば、我孫子氏のこの文章は平凡に尽きるわけだが、このあと、『ドラえもん』人気を我孫子氏なりに分析するくだりがあって、そちらのほうには見るべきものがあった。


 我孫子氏は、『ドラえもん』がウケる秘密は、ドラえもんによる《あからさまな禁止》と、のび太による《違反》という構造にあるのではないか、と書いている。この構造は、多くの童話に見られるパターンの踏襲であり、そうした童話における黄金パターンの反復利用を可能にしたシステムこそが、ドラえもんのび太のコンビなのではないか、というのだ。
 本来は1話限りで完結し「めでたし、めでたし」で終わる童話の構造を反復利用可能にした作品が『ドラえもん』である、という見方は、「なるほど」と思わせる部分があり、その点で彼の文を一読した甲斐があった。



藤子不二雄〟以外の本について書いても、結局は〝藤子不二雄〟の話題になってしまったようだ。