『俺と俺と俺』

koikesan2006-06-09

5月19日の日記で、ジャイアンの「俺の物は俺の物 お前の物も俺の物」というセリフについて書いた。自分の所有物は当然ながら自分の所有物であるとの前提を念押ししたうえで、相手の所有物までもが自分の所有物であると一方的に宣告してしまうこの自己中心的かつ帝国主義的な所有権の主張は、まさにジャイアニズムを象徴する論理である。この場合の「お前の物も俺の物」とは、その物を相手の所有物であると認めたうえでそれが同時に自分の所有物でもあるとして共有の権利を主張するものなのか、あるいは、相手の所有権を剥奪して自分だけの所有物にすることを主張するものなのか、主にその2通りの受けとり方ができるが、どちらにせよ、ジャイアンにそう主張されてしまった以上、その物の実質的な所有者がジャイアンに限定されてしまう危険性が著しく高まるわけだ。



 ここで話が飛躍するが、この「俺の物は俺の物 お前の物も俺の物」なる語法を、藤子・F・不二雄先生のSF短編『俺と俺と俺』の状況に強引にはめこんで考えを展開してみたい。『俺と俺と俺』は、主人公の〝俺〟が、外見から記憶まで自分とそっくりなもう一人の〝俺〟と遭遇する短編作品である。そのタイトルのとおり、都合3人の〝俺〟が登場するが、ここでは便宜的に、ストーリーの冒頭部から描かれる〝俺が2人〟という状況で考えてみると、この作品世界における俺と俺の関係では、「俺は俺 お前も俺」という図式が成立することになる。
 そんな、俺が俺であると同時にお前でもあるという条件下で、一方の俺が、もう一方の俺に「俺の物は俺の物 お前の物も俺の物」とジャイアニズム的な主張した場合、その主張は、「俺は俺 お前も俺」という条件がある以上、論理的には「俺の物は俺の物 俺の物も俺の物」というトートロジー(同語反復)でしかなくなってしまう。同じことを繰り返し言っているだけになってしまうのだ。



 しかし、実際的な感覚としては、一方の俺ともう一方の俺は、別個に活動できる単独の肉体と意識を有していて、互いに物を共有したりどちらかが独占したり、相手から奪ったり相手に譲ったりという種々の行為が可能だろうから、物の所有権という観点で見れば、〝俺と俺〟は〝他人と自分〟という彼我関係を取り結べることになるだろう。
 それでも、このような、相手が自分のほぼ完全なるコピーであるという特殊な状況に直面すれば、相手と自分の境界線が混濁して、通常のようなと他人と自分の関係を築くのは困難になり、この相手は、家族や親友といった近しい他人以上に、他人事ではない存在になるだろう。「自分とは何か」「自分が自分であるとはどういうことか」という根本的なアイデンティティの問題に懊悩することにもなりかねない。そのうえ、現実の生活でいろいろと不都合も発生するだろうし、この事実が世間に発覚した場合、奇異の目にさらされたり、具体的な迫害を受ける可能性もある。もう一人の自分の出現は、何かと悲観的な要素を含んでいそうだ。
 もちろんそうした悲観的な見方ばかりでなく、『俺と俺と俺』の主人公・黒田弘のように、事態を前向きに受け入れて新しい人生を満喫しようと楽天的な考え方もできるだろう。そうなれば、もう一人の自分の出現は、歓迎すべき夢のような出来事にもなりうる。



 生命倫理のうえで人間のクローンを誕生させるのはタブーとなっているが、もし現在の生命科学の技術レベルで自分のクローンを作っても、それがただちに自分とそっくりなコピー人間になるわけではない。年齢的なギャップが生じるため当然外見が違ってくるし、生まれてからの体験も頭の中の記憶内容も異なるのだから、同じ遺伝子組成を持った人間どうしでありながら、「俺は俺 お前も俺」と言えるほどの同一性は感じられないだろう。『俺と俺と俺』で描かれたような状況は、今のところSFなど虚構の世界でのみ起こりうるものなのだ。



 SF短編『俺と俺と俺』は、今はなき、男を創る男を燃やすビジュアルマガジン「GORO」昭和51年7月8日号(小学館)で〝特別読み切りコミック〟として発表された、16ページの作品だ。「GORO」で発表された藤子マンガは、これのみであるが、本作は、「藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版3」「小学館文庫 藤子・F・不二雄異色短編集3」など各種単行本に収録されているので容易に読むことができる。単行本収録にさいしてのF先生による描き換え・描き足しも少なめで、主人公が地面を掘り返す場面のある13ページ目のみにそれが見られる。F先生がその場面にこだわりがあって手を入れたというわけではなく、初出の該当ページの左端に「FMレコパル」という雑誌の広告が掲載されていたため、単行本収録にあたりその広告スペースを埋める必要があったのだ。


「GORO」昭和51年7月8日号が発売された当時、私は小学2年生だったので、「GORO」なんていう青年向けのビジュアル雑誌を読んでいるわけもなく、ずっとあとになって藤子作品目当てで購入したわけだが、いろいろな記事を読んでいると、自分の子ども時代の記憶が続々と蘇ってきて楽しい。
 写真ではわかりにくいが、表紙を当時のグラビアアイドルであるアグネス・ラムが飾っていて、表紙をめくると彼女のピンナップも折り込まれている。同じ時代にアグネス・チャンがアイドル歌手をやっていて、子ども心に2人のアグネスはどんな関係なんだろうと疑問を抱いたこともあった。アントニオ猪木VSモハメッド・アリの異種格闘技戦を前にしたモノクログラビア記事では、15ラウンドに区切られた採点表が用意され、読者がそこに点数を書き込むことでジャッジ気分にひたれる趣向になっている。私は小学生の頃からプロレスが好きで、とくにアントニオ猪木に肩入れしていたが、残念ながら、この世紀の一戦をテレビ観戦した記憶はない。
「国産スポーツ車新車比較試乗研究」なる記事では、いすゞ117クーペセリカ2000GT、ギャランシグマ、フェアレディZ2/2など、子どもの頃カッコいいなあと思って眺めていた国産車がカラーで大きく紹介されており、実に懐かしい。近所に、117ナンバーのいすゞ117クーペに乗っている人がいたのを思い出す。