大島弓子を読み返した

 先月25日に発売された藤子・F・不二雄大全集『SF・異色短編』第3巻に『倍速』が収録されています。この『倍速』を読み返したとき、ある箇所で、大島弓子先生の『ダリアの帯』を思い出しました。
 なぜ思い出したのかは後述しますが(答えを後回しにするほど大した話じゃありませんが・笑)、私は昨年の一時期大島弓子作品を集中的に読み返した時期がありまして、そのときちょっとした感想を書いたので、それを今さらながらここに載せることにします。



 大島弓子先生の作品世界は繊細です。多くの主人公たちが、周囲から浮いていたり何か欠けていたり疎外された存在だったりします。それでも彼女らは過度にジメジメ・ウツウツした方向には傾かず、悩みや苦しみや葛藤を抱えながらも、その欠けた部分や疎外された状況に対して、表向きにはあまり拘泥せず、ある種のあっけらかんとしたたたずまいを浮かべています。
 なかには、普通に生活すること、ひいては、生きることへの執着から天然で解放されているような少女がいたりもします。
 そんなふうにあっけらかんとして見えるだけに、彼女らの深いところに潜んだ痛みが伝わってきた瞬間、胸をギュッとさせられたりもします。あっけらかんとしたたたずまいが、逆に、言い知れぬ鋭さや繊細さや揺らぎを私の心の奥底に刺し込んでくることもあります。
 悲しい結末の作品もあります。でも、そこに漂うのは、悲しみとストレートには言ってしまいがたい、余韻と詩情です。

 
 大島弓子先生の作品といえば、私はまず『綿の国星』を思い浮かべます。1978年から「ララ」に掲載され、今でも名作として名高い少女マンガです。
綿の国星』の魅力の核はやはり主人公のチビ猫なんだなあ、と読み返すたびに思います。幼いチビ猫は「いずれ猫は人間に変わるんだ」「自分もいつかは人間になれる」と信じています。そして彼女は、自分を半人間だと思っており、作中では擬人化された猫として登場します。


 浪人生の時夫に拾われ、彼の家で飼われることなったチビ猫は、ゆがみのないまなざしや先入観のない感性で人間の日常や猫の世界をとらえ、対象をあるがままに受けとめて行動します。その曇りのなさ、偏見のなさ、汚れのなさに私は心を揺り動かされます。「なんと純粋なものの見方がここにはあるのだろう!」と感銘を受けるのです。
 チビ猫は、「猫」と「幼女」という二重の無垢性を有しています。その無垢性の深さゆえに、我々が見慣れた光景に対してハッとするような解釈をしたり、驚くような反応をとったりします。
 チビ猫の外見もまた無垢性に満ちています。ふわふわの髪の毛に、きらきらの瞳、頭からは猫耳はえ、ひらひらのエプロンドレスを着ています。


 そんなチビ猫が主人公なので、内容的に甘いばかりの作品かというと全くそうではありません。むしろチビ猫は、話の始まりの時点から「捨てられた猫」という運命を背負わされ、「猫は猫のまま死ぬのだ」という現実をつきつけられ、人間になりたいという夢をあっさりと打ち砕かれます。
 その後も、自分が食べているものが実はもともと生きて動いていたものだと知って拒食状態に陥ったり、人間と言葉が通じないため家を追い出されそうになったりと、かなり過酷な体験をします。
 それでいて、この作品の印象が重苦しくならないのは、何があっても無垢でかわいらしいチビ猫のキャラクターと、作中にあふれる繊細な叙情性と、大島弓子先生のふわふわとした美しい描線とが相俟って、やわらかくやさしい世界が醸成されているからです。ひとつひとつの物語の着地点が心地よさに包まれている、というのも大きな要因でしょう。


 チビ猫の無垢さに触れていると、私の心も一時的に浄化されていくような気持ちになります。「心が洗われる」とはこういうことなのか!と思えてきます。と同時に、自分の内側にある汚れた部分が浮き彫りになって、純粋なものに触れることの痛みも感じてしまいます。


綿の国星』を読んだあと外出して本物の猫を見かけると、「この猫も『綿の国星』の猫たちみたいに、人間に対していろいろなことを考えたり語り合ったりしているのかなあ」などと思えてきます。



『F式蘭丸』(1975年)は、少女マンガに心理学の領域を持ち込んだ草分け的作品だと評されています。思春期の少女が空想の美少年に依存する話です。彼女のメンタリティは、人形や物語の登場人物に話しかける幼児のものに近いです。
 現実にはいない相手と会話する女性を描いたという意味では、『ダリアの帯』(1985年)という傑作もあります。流産した妻が、それをきっかけに精神を病んでいくのですが、それは現実に適応した人たちの視点から彼女を見た場合の状態であって、彼女自身は、目に見えない色々なものと言葉を交わしていたのです。


 著しく老化が進行する少女の物語『8月に生まれる子供』(1994年)、他人の散らかった部屋を心の解放区とする少女を描いた『ロストハウス』(1994年)、支離滅裂な思考をする少女の話『草冠の姫』(1978年)なども、最近読み返した大島作品の中では心に残りました。



 ここでようやく、冒頭で触れた、藤子・F・不二雄先生の『倍速』を読み返したとき大島弓子先生の『ダリアの帯』を思い出した、という話題に入ります(笑)
『倍速』には、主人公の「倉札」という男が「公エン猥シャツ罪」とジョークを言う場面があります。倉札にとって恋敵に当たる男が、好意を寄せる女性に“公園で酔っ払って靴を脱いでワイシャツを脱いだところで警官に叱られた”といった話をしたところで、倉札がタイミングよく「公エン猥シャツ罪」と言うと、それを聞いた女性が抱腹絶倒するのです。
 そして、『ダリアの帯』には、妻のいる男性が、同じ職場の女性からワイシャツを受け取る場面があり、その光景を目撃した職場の同僚たちが次のようなことを言って冷やかします。
「公然とワイシャツのプレゼントですか」「そういうの 公然ワイシャツっつーんですよー」…。


『倍速』の「公エン猥シャツ罪」と、『ダリアの帯』の「公然ワイシャツ」というダジャレが私の頭の中で結びついた、というわけです(笑)


 ほかに大島作品と藤子作品を関連づけて語るとすれば、大島先生の『サマタイム』(1984年)は、藤子・F先生のSF短編『どことなくなんとなく』を彷彿とさせる作品です。