A先生の心の残る児童文学『飛ぶ教室』

 先日、ドイツの作家エーリッヒ・ケストナーが1933年に発表した児童文学の名作『飛ぶ教室』を再読しました。
 
飛ぶ教室』は、藤子不二雄A先生が心に残る好きな少年少女小説のひとつとして挙げた作品です。「ケストナーの児童小説にでてくるキャラクターはとても楽しい。何度読んでもワクワクする」とおっしゃっています。
 阿川佐和子さんは、図書館でアルバイトをしているころ、子どもからどんな本を読んだらいいのか相談を受けると必ずと言ってよいほど「『飛ぶ教室』が最高におもしろいわよ」と薦めていたとか。


飛ぶ教室』というタイトルから、SFやファンタジー風味の物語かなと思わせるところもあるのですが、読んでみれば、ギムナジウム(ドイツの9年制中高等学校)とその寄宿舎を舞台に少年たちの日々を書いた作品で、空想要素はいっさいありません。(ギムナジウムを舞台にした物語というと萩尾望都先生や竹宮惠子先生の少女マンガを思い出します。先生方は『飛ぶ教室』の影響を受けておられるのでしょう)


 A先生が「何度読んでもワクワクする」と評価し、阿川さんが「最高におもしろい」と薦めていたとおり、ドキドキの場面もあれば、心あたたまる場面もあり、泣ける部分もユーモアもあって、最後まで楽しませてくれます。
 ギムナジウムに通う男の子たちの友情と、そのひとりひとりの個性や心情が明快に描かれているのがいいです。成績が学年トップで正義感のある少年、物語をつくるのが得意な少年、難しい科学の本を読むのが好きな少年。そして、勉強は苦手だけど腕っぷしが強くて食い辛抱の少年と、チビで気の小さな少年が親友同士だなんて、とても素敵な凸凹コンビだと思います。そのチビの少年が自分の臆病さを克服しようと行動する場面は、少年たちの日常を描いたこの物語においては大事件でしょう。


 登場する大人たち(正義先生、禁煙さん)の子どもに対する接し方も素敵です。子どもに媚びるのではなく、でも子どものよき理解者であり友人でもあって、子どもたちにこよなく愛されている大人。そんな大人と出会えただけでも、このギムナジムへ通う子どもたちは幸せでしょう。
 子ども同士の友情も、子どもと大人の関係も、ゆがみなくまっすぐ書かれていて、まことに清々しい。ケストナーが思い描く人間関係の理想像がここに息づいているような気がします。



飛ぶ教室』が出版された年は、ナチスが政権をとった年です。そのあたりの背景を知ると、ますます興味深いです。ナチスに抵抗していたケストナーは当局からにらまれ、著作が焚書に処されたり執筆を禁止されたりしました。ヒトラーが殺そうとしていた人物リストに入れられたこともありました。当面は子ども向けの本の出版が黙認されていたので『飛ぶ教室』を出すことができたようです。
 
 藤子A先生は「少年時代に愛読した児童文学では、やはり名作全集に入っているような物語性の強い作品が好きだった。後年、漫画家になった時に、これらの物語を愛読したことが役だっている。」と述べています。私は“男の子の社会の人間関係を丹念に描いている”という大まかな括りでケストナーの『飛ぶ教室』とA先生の『少年時代』に重なる部分を感じます。むろん『少年時代』には柏原兵三の小説『長い道』という確固とした原作があるので、『飛ぶ教室』の直接の影響から『少年時代』が描かれたわけではないのですが、A先生の読書体験の基盤のひとつに『飛ぶ教室』があると知れば、それを『少年時代』と重ねてみたくなる部分もあるのです。『飛ぶ教室』が理想的な美しい友情を描いているのに対し、『少年時代』は一筋縄ではいかない難しい友達関係を描いていて、その点では対照的ですけれど。
“子ども社会の人間関係を丹念に描いている”ということのほかに、もっと細かく具体的な部分でこんな共通性も感じます。『飛ぶ教室』にも『少年時代』にも子どものグループ同士の雪合戦シーンがあって、どちらも“雪の玉のなかに石が入れられ、その玉を当てられた子どもが出血する”というくだりがあるのです。子ども同士の雪合戦シーンというだけなら牧歌的な印象を抱けるのですが、石の入った雪玉とか出血となるとたちまちその印象が揺らぎます。この2作品では子どもたちがそれほど本気で雪合戦をやっていたのです。その雪合戦シーンを読んで、私の頭のなかで2つの作品が電撃的につながったのです。


 
飛ぶ教室』の光文社古典新訳文庫版の翻訳を手がけた丘沢静也さんは、こんなことを書いています。

ケストナーは)「感動より、月並みであることを選び、大きな言葉より、小さな言葉を選んだ。生徒全員の前で語る禁煙さんのセリフが印象的だ。「すまない、私はちょっと感動してしまった」。ケストナーは「ちょっと」の達人である。」

 私は丘沢さんのこの解説を読んで、自分の描く「SF」は「すこし・ふしぎ」の略だ、と述べていた藤子・F・不二雄先生の精神と重なるものを“ちょっと”感じました。
 
 藤子ファンとしても知られる小説家・辻村深月さんの『凍りのくじら』の主人公は、藤子F先生が「SF」を「すこし・ふしぎ」と呼んでいたことに影響を受けた女性です。自分がかかわった人物を「すこし・○○」という語法で評価することを習性としているのです。相手の性質をとらえて、「すこし・フリー」だとか「すこし・普通」だとか「すこし・不安」だとか、そんなふうに相手の個性を短い評言で示すのです。
 
 
 この「すこし」という語がとても効果的かつ魅力的な使われ方をしていると感じたのが、映画『ドラえもん のび太の大魔境』の主題歌『だからみんなで』(作詞:武田鉄矢)です。この歌詞は、きみの心の中から勇気を見つけ出してくれ、と訴えかけています。その「勇気」に「すこしの」が付くのです。「すこしの勇気」を見つけ出してくれ、というわけです。
 超人的な勇気、強固な勇気、みなぎる勇気を自分の中から見つけ出すことは困難そうだけれど、「すこしの」勇気なら自分にも見つけられるかもしれない、と思えてきます。そう思うことで、本当に勇気がわいてくるような気がするのです。
 さらにこの歌詞は、そんな「すこしの勇気」を他の誰かの「すこしの勇気」とプラスすることで「すこし」大きなものになる、と続けます。ここでも「すこし」なのです。
「すこし」という語がそこに置かれるだけで、勇気を持つのが遠く険しく絶望的に困難なことではなく、自分でもどうにか実行できそうなことだと身近に感じられ、ほのかに希望を抱けます。勇気を持て!と熱く力強く言われると気圧されてしまう弱った精神状態のときでも、この歌詞のように語りかけてくれれば心を解きほぐして自分のこととして考えられるようになるのです。
 そして、「すこし」だけのものであっても、それがいくつも合わされば何倍もの「すこし」になって、「すこし」ということが実に頼もしく大きく見えてきます。同時に、「すこし」という語が持つやさしさも感じられます。
「すこし」という語が使われることによって、私はこの歌詞の世界に「すこし」近づけたような気持ちになれるのです。



※追記
「勇気」といえば、『飛ぶ教室』の中にも「勇気」に関する素晴らしい言葉がありました。

「かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません!世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気をもったときにはじめて ―いままではしばしばまちがって考えられてきましたが― 人類の進歩というものが認められるようになるでしょう」(少年少女世界文学館『飛ぶ教室』山口四郎・訳/講談社/1987年)

 至言ですね。
 自分が勇気を持てるかどうかも大切ですが、はたして勇気を持つに値する人間なのかを問うことも重要なのだ、と教えられます。