ニール・ブロムカンプ監督の映画『チャッピー』

 ニール・ブロムカンプ監督の映画『チャッピー』を6月に劇場へ観に行きました。とても面白かったうえ、私の頭の中で藤子F作品とイメージのリンクするところがあったので、当ブログで感想を書こうと思っていたのですが、そう思っているうちに時間が経過して、ようやく今になって感想を書き留めることになりました。
(以下、映画のラストにも触れています。未見の方はご注意ください)
 
 


 私は、2010年に観たニール・ブロムカンプ監督の『第9地区』に魅惑され、この監督の新作が公開されるたびに劇場へ足を運びたい、と思うようになりました。『第9地区』の次の『エリジウム』は私の中では思いのほか無難な感じでしたが、『チャッピー』はとても魅惑的で満足感の残る作品でした。
 大まかにいえば、本作は人工知能や人間の意識の問題を盛り込んだSFアクション映画です。私はとりわけ、チャッピーの無邪気さや危うさやエゴやけなげさに心を動かされました。


 チャッピーはロボットです。ロボットですが、はじめは赤ん坊レベルの知能で、それが人間によって教育され、いろいろなことを覚えながら成長していきます。体は作られたときから大きいのに知能は赤ん坊状態。そんなちぐはぐな存在を育てていく、というところにこの映画の妙味を感じました。
 そして私は、そんな要素から藤子・F・不二雄先生のSF短編『恋人製造法』を連想しました。
『チャッピー』ではロボット、『恋人製造法』ではクローン人間、という違いはあるのですが、どちらも「体は作られたときから大きいのに知能は赤ん坊状態。そんなちぐはぐな存在を育てていく」という物語なのです。


『恋人製造法』では、中学生と思われる美少女・毛利麻理のクローンが作られるのですが、このクローン、中学生にまで成長した身体で生まれながら、知能は白紙の赤ん坊状態です。麻理のクローンを作ったのは、内男という少年。麻理のことが好きなのに気持ちを伝えられない彼は、宇宙人からクローン人間を作ることができる「インスタント・クローニング装置」をもらって、麻理のクローンを作り出したのです。作ったものの、クローンの麻理は体こそ元の麻理と同じ中学生の状態で生まれたのですが、知能は赤ん坊レベルでした。そこで内男は、クローンの麻里を養育していくことになります。せっかく憧れの美少女が自分だけのものになったのに、ガールフレンドというより親子のような関係になってしまって、内男はちょっと違和感をおぼえたりもしながら彼女の面倒を見るのでした。
(『ドラえもん』の「ジャイアンよい子だねんねしな」(てんとう虫コミックス27巻)という話でも、のび太が“クローン培養基”を使って同様の状態のクローンを作ります。ジャイアンスネ夫のクローンでした)


『チャッピー』においてチャッピーを育てるのは、柄の悪いギャングの男女です。それがパパ・ママと呼ばれるところがユニークです。チャッピーは警察官ロボットとして製造されたのですが、そこへ優秀なロボット開発者が人工知能をインストールします。そうして、知能はまだ赤ちゃん並みだけれど人間のように学習し成長していくロボットが誕生するのです。
 ところが、そのチャッピーを主に育てるのがロボット開発者ではなくギャングだったために、チャッピーは汚い言葉を使ったり犯罪に加担させられたりします。どんなに優れた人工知能をインストールされても、育てる親の素行が悪かったらロボット自身も悪くなってしまうわけです。ですがチャッピーの場合は、彼の養育にロボット開発者もかかわっており、かなり早い段階で悪いことはするなと教え込まれていました。そのためチャッピーは、悪いことをしてはいけないという思いを持ちながら、実際には悪いことをさせられてしまうことになります。チャッピーは自分の中の良心と自分がやらされる悪行とのあいだで葛藤する存在でもあるのです。(ちなみに、ロボット開発者はチャッピーから「創造主」と呼ばれていました。)


『チャッピー』のラストあたりでは、F先生の『バケルくん』の変身人形を思い出したりもしました。人間やロボットの意識が他のロボットの身体へ転送されるシーンがあったのです。
 当初は赤ん坊状態だったチャッピーですが、やがて高度な知能を持つに至り、人間の脳波をコンピューターで解析して意識(記憶・知能・人格・魂といったもの)をデータ化することに成功します。瀕死の“創造主=ロボット開発者”の意識をロボットの身体へ転送したのを皮切りに、もうすぐ壊れることがわかっている自分の意識を別のロボットへの転送、さらに、すでに死んでしまったママの意識をロボットへ転送して救出します。
 チャッピーにとって、パパもママも創造主も親のような存在です。生みの親と育ての親です。この映画は、チャッピーが親を救うことで幕を閉じるのです。(ママの意識は生前たまたまデータ化したあったので、ロボットに転送することができました)
 そのように人間の意識がロボットの身体に転送されるところが、『バケルくん』において人間の意識が変身人形に乗り移るさまとイメージが重なって感じられました。『チャッピー』でも『バケルくん』でも、意識が抜けたあとの人間は抜け殻状態になり、意識が入ってきた身体が生きて活動するようになります。身体はまるで意識の乗り物のようです。はたして、人間の意識がロボットの身体に乗り移ったとき、その存在は人間なのかロボットなのか。人権のようなものは付与されるのか。そんな問いが生まれそうです。



 ※追記
 チャッピーはロボット警官の1体として製造されたわけですが、“ロボット警官”という存在から私が連想する藤子作品といえば、『UTOPIA 最後の世界大戦』です。1953年、鶴書房から描き下ろし単行本として発表された長編SFです。これが、二人の藤子先生の著作としては最初の単行本となりました。
 その『UTOPIA 最後の世界大戦』に、ロボット警官が問題となる場面があるのです。地球国の首都ユートピアにある政府。大統領がいて、秘密警察を持っていたりします。その政府の非人間的な方策に抵抗している組織が人類同盟でした。政府の科学省がいよいよロボット警官を作ることになったとの情報が人類同盟に入ります。人類同盟は、ロボット警官の製造は人間の破滅だと考え、その製造工場を破壊しようと乗り込むのです。


 チャッピーは、ロボット警官として製造されながら、その後“創造主”から特別な人工知能をインストールされて、自分で考えたり感じたりできる人間的な頭脳を有することになりました。こうした、ロボットが自分で考えたり感じたりできるようになる…という要素が、『UTOPIA 最後の世界大戦』でも物語に大きくかかわってきます。作品タイトルにある「最後の世界大戦」とは、自分で考えることができるようになったロボットと、人間との戦争のことなのです。
 命令やプログラムに従って動くだけだったロボットが自分で考える能力を得られたのは、ある特殊な放射線の影響でした。そのアイデアは、手塚治虫先生の初期SF3部作の2作め『メトロポリス』に出てくる人造人間ミッチィが生命を得た理由に通じるものです。ミッチィの生命の源となるエネルギーは、太陽黒点が発する放射線でした。
 放射線が発せられているうちは人間的な存在であることができるのですが、その放射線が届かなくなれば自分を保てなくなる…。そこに、『メトロポリス』のミッチィと『UTOPIA 最後の世界大戦』のロボットたちとの共通性を感じるのです。
 描き下ろし単行本『メトロポリス』が刊行されたのは1949年のこと。高校生だった藤子先生はこの作品も含めた手塚治虫初期SF3部作(あとの2作品は『ロストワールド』『来るべき世界』)を読んで大きな感動と興奮にみまわれ、決定的な影響を受けています。