『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』感想

 3月1日(金)から公開中の『映画ドラえもん のび太の地球交響楽(ちきゅうシンフォニー)』を、現時点で3回鑑賞しました。

 しばらくは感想を慎もうと思っていたのですが、公開が始まってほぼ1ヵ月たちましたし、ここでネタバレ全開の感想を記します。文章量多めです。

 

 

(以下、『のび太の地球交響楽』の感想をネタバレ全開で書いています。未見の方はご注意ください)

 

 

●『のび太の地球交響楽』は、映画ドラえもんシリーズの歴史に新たな個性を刻む作品だった。なんと音楽音楽した映画だろう! 楽しい音楽会に参加してきたようなウキウキ気分が、映画を観終えてからも胸に残響した。

 音楽テーマに徹したことで、映画ドラえもんシリーズとしては異彩を放っていた。『のび太のひみつ道具博物館』と肩を並べるほど映画ドラえもんとしては異例なたぐいの作品になったと思う。少なくとも、私の中ではそう位置づけられた。

 ある意味、実験的で、チャレンジングで、野心的な作品である。

 

●1回目の鑑賞後、今井一暁監督のインタビューを読んだ。「半分コンサートのような映画」をイメージしたとか。「いわゆる起承転結がある映画とは違って、半分はストーリーを楽しんでもらい、もう半分はコンサートを聴いてもらうような」ともおっしゃっている。

 私は1回目の鑑賞直後「なんだか楽しい演奏会に参加した気分だな」と感じたから、そのあと今井監督のこの発言を読んで、私は監督の意図どおりの楽しみ方をしたんだなと得心した。監督はじめ制作者のみなさまの手のひらの上て踊らされたとも言える。手のひらの上でまんまと踊らされる心地よさよ!

 

●「半分はストーリー、半分はコンサート」と言っても、ストーリーがおろそかにされているわけではない。藤子・F・不二雄先生が初期の大長編ドラえもんシリーズで確立した(と私が考える)フォーマットを素直に踏襲した映画であることは確かなのだ。日常から始まった物語が、異世界の種族や何らかの異変と遭遇し、やがて異世界へ移動、その異世界の危機や問題を解決すべく努力したり戦ったりする。ひみつ道具の意外な作用なりみんなで力を合わせたり何なりがあって、最後に勝利をおさめ、異世界の種族と別れて日常に戻る。そういう大きなストーリーの中で伏線回収の妙味も感じられる。

のび太の地球交響楽』も、そんな大長編ドラえもんシリーズの初期型フォーマットを素直に踏襲している。型を崩していない。基本を無視していない。

 原点のフォーマット、基本の構成を踏襲したうえで、その枠内に音楽を大量に盛り込んでいるから異彩を放って見えるのだ。音楽ありきで制作されたから異色に感じられるのである。

 そうした、音楽と物語の配合割合の偏り方が、『のび太の地球交響楽』を映画ドラえもんシリーズの新しい変種に感じさせるのだろう。

 

●映画の序盤で、縁側で演歌を歌う高齢者、子守歌で赤ちゃんあやす母親、自転車に乗って口笛を吹く男性などが描写された。日常生活に当たり前のように溶け込んだ、生活音に準ずるような音楽がそこにあった。

 配信を聴いたりライブに参戦したり楽器を演奏したりカラオケへ行ったり、特にそういうことをしなくても音楽はわれわれの日常に息づいたものなのだと感じさせてくれる、素敵な描写である。

 音楽が失われた世界では、そんな日常に息づいた音楽も失われる。音楽が失われた世界はイライラ、ギスギスが蔓延する。音楽の大切さ・必要性が浮かび上がる。

 

●音楽の“楽しさ”を表現することにまっすぐ力を注いだ映画だと感じた。音楽とは書いて字のごとく“音”を“楽しむ”ものなんだとひたすら実感できる。そんな映画だった。ここまで音楽テーマを徹底する方向へ舵を切ったのは、大胆で潔い決断だったと思う。

 この映画を観て音楽の楽しさを感じ続けるうちに、その楽しさが感動へと膨らみ、ときには目に涙がにじんできた。前作のような“泣かせよう”という演出はあまり目立たなかったが、正直、私は演奏シーンに入るたびに泣けてしまった。特に1回目の鑑賞時はそうだった。

 映画を観ていて初めに涙がにじんだのは、ミッカがのび太と出会って歌声を披露するシーンだ。初めてミッカの歌声を聴いたとき、ジワッと目に涙が浮かんだ。なんて心に響く歌声だろうと感じた。

“ジワッと”のレベル以上に泣けたのは、河原の演奏会シーンだ。リコーダーを奏でるのび太たちいつものメンバーと、歌い踊るミッカと、ムードもりあげ楽団&おもちゃの楽団を率いるドラえもん。手放しで楽しさがあふれまくるこのシーンに、私は本格的に感動し、涙を誘われた。これは日常空間にふと立ち現れた祝祭だ!と多幸感にひたった。

 河原の演奏会を隠れて見ていたチャペックがのび太たちをヴィルトゥオーゾと認めた(思い込んだ)のも無理はない。そのくらい、この演奏シーンには私も心を動かされた。なんだこの楽しそうな演奏は!と感嘆がやまなかった。チャペックがのび太たちを音楽の達人としてファーレの殿堂に招いたその気持ち・その判断に大いに賛同したくなった。

のび太の地球交響楽』前半で最高潮だと感じたシーンは、紛れもなくそこだった。

 

●映画の後半は、演奏シーンが続出。まさに“音を楽しむ”世界がそこにあった。演奏シーンになるたびに心を揺さぶられた。涙腺を刺激された。

 映画の序盤〜中盤あたり(特に中盤)の物語展開がどことなくテンポ不足でなんとなく単調に感じられる部分があった(一種の中だるみ現象で、そこで退屈する観客が出てきそうだった)のに対し、終盤はブワーッと盛り上がりに盛り上がっていった。その盛り上がりの足固めのために序盤〜中盤があったのだ!(でも、もう少しテンポのある展開にしてもよかったのでは…、もう少し尺をギュッとできるところはしたほうがよかったのでは…と思わないでもない)

 

●ファーレの殿堂の“街”が目覚めていくシーン。そこに満ちたフェスティバル感は出色だった。のび太たちと惑星ムシーカのロボットたちのセッションがあちこちで自然発生的に行なわれ、街が楽しい音楽で彩られていく。なんて楽しいんだ、なんて賑やかなんだ。

 そこにメロディーガスのネタまでぶち込まれるのだから魅惑されずにはいられない(笑)原作『ドラえもん』の中でも私にとって屈指の音楽系ひみつ道具がこれなのだから。

 

●音楽が奏でられるとき、発生する音を可視化するような図形(立方体、四面体、球体、曲線など)が描かれた。音の動き、音の流れが目に見える。音の楽しさを、耳に届く音に加えて視覚的にも味わわせてくれる、おもしろい試みだった。

 

●ここまで音楽の楽しさを目いっぱい味わわせてもらったうえで、あらためてオープニングで掲げられた映画タイトルを振り返ると、『のび太の地球交響楽』の「楽」の文字だけ色が変化したことに大きな意味を見いだしたくなった。映画タイトルを「交響曲」じゃなく「交響楽」としたのは、まさにこの「楽」の要素をプッシュして表現したかったからではないか。音楽の“楽しさ”を描くことを主題としたかったからではないか。

 と、そんなふうに思えてきて胸が熱くなった。

 

●音楽の“楽しさ”だけじゃない。音楽の“力”も描いていた。音楽の力を信じている映画だった。

 恐ろしい敵・ノイズと戦うときに武力らしい武力を使わない(少し空気砲が出てきたけれど役に立たなくてすぐ放棄された)ところに、特に“音楽の力を信じるスタンス”を感じた。

 音楽は精神のエネルギーであるとともに、電気やガスのような化学的・物理的エネルギーでもあり、襲い来る敵をはねのける防衛力でもあるのだった。

 音楽の楽しさと音楽の力に満ち満ちたこの映画は、音楽は身近で偉大だ!と思わせてくれる。

 

●悲しむタキレンさんを元気づけようとする演奏シーンは、音楽が持つ力の性質を物語ってくれた。明るく元気な演奏が必ずしも相手を元気づけるとは限らない。落ち込んだ相手をますます落ち込ませてしまうかもしれない。聴かせる相手の気持ちに寄り添った曲を奏でることが大切なのだと。

 こういう、音楽の機微みたいなことを描くシーンが中盤あたりに入れられたことで、この映画の音楽テーマがじわりと奥行きを増した。  

 音楽の機微といえば“ミッカが他の人と共に歌う喜びを知る”という要素にも、そういう機微を感じた。長い眠りから目覚めたとき他に人間がおらず、一人で歌っていたミッカ。のび太たちと出会ったことで、他の人と共に歌うこと、みんなと音楽することの楽しさを知っていく。一人で歌っても音楽は楽しいものだけれど、みんなと歌い踊り演奏すればもっともっと楽しくなる。もっともっと喜びが膨らむ。そんな、音楽のありようが表現されていた。

 また、壊れたドラえもんを治すため空き地でのび太たちが演奏するシーンでは、音がケンカしては良い音楽にならない、各々のパートを担いつつ音を合わせること、調和させることが大切だということを伝えてくれた。

 音楽がもつ繊細さ、豊かさ、趣深さを、そうしたシーンが描き出している。

 私はそれを“音楽の機微”と受けとめ堪能した。

 

●タキレンさんのシーンは、お墓のエピソードも印象的だった。チャペックが伝えていなかった真実がミッカに明かされる……。のび太の服をギュッと握るミッカ。真実を知って悲しみにくれるかに思えたミッカがすぐさま平気な素振りを見せるが、“服をギュッ”があったから、それは強がりなんだろうと察せられた。

 お墓のシーンはこの映画で最もしんみりするところ。だけど、タキレンさんが登場した瞬間は「タキレンって・笑」とちょっと笑ってしまった。

 

●クライマックス。迫りくる強敵ノイズを追い払うため、のび太らが正装して演奏会の舞台に立とうとするシーンは、1回目の鑑賞時もっとも心が高揚したところだ。完全復活したファーレの殿堂。ノイズの胞子が死滅し、のび太らが正装でステージに立ち、そこで演奏される曲が「地球交響楽(地球シンフォニー)」と発表される。

 おおおー!のび太たちの晴れ舞台だ!映画のタイトルが回収された!そして物語がついに大団円に向けて仕上げにかかってきた!これで危機が救われるんだ!

 と、ちょろいことに私はそう思ってしまったのである。

 ところが、この演奏会が始まったからといって、すんなりめでたしめでたしと大団円には至らなかった。ノイズは手強かった。作劇上、このまますんなり終わらせられないものね。もうひと盛り上がり必要なのだ。

 

●というわけでノイズは「地球交響楽」の大演奏会にすんなりとは屈せず、ファーレの殿堂に侵入して破壊行為を始めてしまう。

 宇宙空間に放り出されるのび太。そこから映画が無音になる。それまで音楽があふれて賑やかだった映画がいきなり無音になったのだ。 

 その落差たるや!

 音の世界に底なしの穴があいたような感覚。音の喪失。のび太と一緒にこちらも宇宙空間に放り出されたような……と言ってはオーバーかもしれないが、なんだかそういう感じ。寂しさ、不安、絶望感……。気の遠くなるような感覚。

 だから、音が回復したときの安堵感は大きかった。音が戻った、それは希望の回復でもあった。

 

●しばらく続いた無音状態。こんなにも音が恋しくなるとは……。

 無音状態から音が戻り、宇宙に音楽が響きわたりだす。

 地球から多様な音楽が発せられる。各国で野菜を刻む音、戦場で兵士が吹くハーモニカ、歌姫ミーナのコンサート……。グローバル規模の音楽が一丸となって宇宙へ響いてくる。ファーレの殿堂にいるみんなも、ふたたび「地球交響楽」を奏でている。 

 なんというスケール感だろう!

 今度こそ本当にラストとなるその大演奏会に、私は胸を踊らせ、酔いしれた。(「夢をかなえてドラえもん」のメロディーも聴こえてきたな)

 

●最終的にノイズを打ち破り、ファーレの殿堂と地球を救うことになった力は、もちろん音楽だった。みんなの渾身の演奏だった。

 そんな「世界を救う演奏」「宇宙にも響きわたる演奏」をやれる環境を獲得できたのは、ひみつ道具の連鎖的玉突きによる偶然の現象のおかげだ。玉突きの結果、時空間チェンジャーの意図せぬ作動で宇宙に音楽が響くようになり、その大規模な音楽がノイズを撃退し、ひいては世界を救うことになったのである。

 そして、そもそもそういう偶然が生じたのは、のび太がこうなるとは思わず書いた日記の文章のおかげだった。のび太が、それがあらかじめ日記とは知らず普通の日記帳だと思って書きつけた日記の文章「今日わみんなでおふろに入った。たのしかった」が期せずして世界を救うことになったのだ。しかも、のび太が日記のネタを風呂にしたのは、日記を書いている最中たまたま階下から、お風呂に入りなさい〜とママの声が聞こえたからなのだ。

 さらに言えば、そのときのび太の机の上にあらかじめ日記があったのもまた、意図的なものではなかった。ドラえもんが放り出したあらかじめ日記をママがたまたま拾って(それをのび太が放ったらかしにした普通の日記帳だと思って)のび太の部屋に戻したからである。

 なんということだろう!そんなふうに、いくつもの偶然の重なりで/登場人物たちが意図しないことの連鎖で、地球を救う道筋が整えられていったのだ。

 それは、話の展開を強引な偶然に頼って押し進めるご都合主義とは違う。偶然に偶然を掛け合わせそこにまた偶然を練り込んでいく。その脚本の絶妙さに私は唸らされた。

 今回の映画は、音楽ありきの作劇だったので、脚本作りにも通常とは異なる手順や工夫が必要だったのではと推察する。それを思うと、このレベルの脚本ができあがったのは敬服に値する。

 

野比家の風呂場にポッカリ浮かぶ地球。なかなかシュールな光景だ。その光景こそが「パパが風呂場を覗きに行った」シーンの伏線回収にもなって、一つ一つのパズルがきれいにハマっていく感覚を味わえた。

 この意外な真相……、すなわち「野比家の風呂場の中に地球とその周辺がまるごと置かれた」というそのことは、映画のタイトル『のび太の地球交響楽』の意味をいっそう強めることになった。

 チャペックが作った曲のタイトルが「地球交響楽(地球シンフォニー)」と発表されたとき「映画のタイトルがここで回収された!」と痛快な感覚を授けられ、それによって映画のタイトルの意味が強化された。そういう強化があったうえで、風呂場という音がよく響く空間内に地球がまるごと置かれ地球ぐるみで音楽が奏でられる状態が描かれたものだから、「タイトル回収ばかりか、完璧に“地球交響楽”状態そのものが出現しているじゃないか!」と驚きや高揚感を誘発される。これによって、映画タイトル『のび太の地球交響楽』の意味がますます強度を増し、「タイトルはこれでなければならなかったのだ!」という思いに駆られるのだ。

 

●アバン(オープニング映像の前の冒頭シーン)に湖を泳ぐ白鳥の群れが出てきた。オープニング映像でも白鳥が飛び続けた。音楽をテーマにした映画でなぜこんなに白鳥がフィーチャーされるのか?と少し疑問に感じた。もしかして「白鳥の湖」がキー曲となるのかしら?なんて思った瞬間もあったが、音楽の授業のシーンで服部先生が世界最古の楽器とされる「白鳥の骨製のフルート」を紹介するくだりがあって、「おお、白鳥がここにつながった!」と腑に落ちた。

 オープニング映像では楽器の歴史がイメージ映像のように表現され、その歴史をナビゲートするかのごとく白鳥が飛んでいた。なぜ白鳥なのか?それは白鳥(の骨製フルート)が楽器の源流だからなのだ!

 映画の後半になって、この白鳥の骨製フルートが物語に関わってくる。「世界最古の楽器はこんな経緯で誕生した!」「地球の音楽のルーツは実は惑星ムシーカのファーレとつながっていた!」といった由来譚が語られることにもなる。

 今回の映画において白鳥はじつにシンボリックな鳥であり、その骨で作られたフルートは物語の鍵を握るアイテムなのだった。

 

●そんなふうに、『のび太の地球交響楽』は音楽の起源に思いを馳せたくなる映画だった。むろん、この映画で描かれた音楽の起源はフィクションである。「世界最古の管楽器は白鳥の骨のフルート」という知識をもとに創作された、この映画の中でのみ通じる音楽の起源なのだ。

 しかし私は、そういうフィクションをきっかけに、音楽のルーツ、音楽の起源、音楽の始まりに思いを馳せたくなった。特に何か調べようとしたわけではないが、そういうタイミングで、たまたま音楽家坂本龍一さんと生物学者福岡伸一さんの対談番組が再放送されて視聴してみたら、福岡さんがこんな発言をした。

「生物学的には音楽の起源って、たとえば鳥の求愛行動みたいに鳴くことによってコミュニケーションする。それが歌になり音楽になったっていうふうに語られることが多いんです」

 福岡さんは、音楽の起源に「鳥の求愛行動」「鳴くことによるコミュニケーション」があるという通説を紹介したのだ。

 それを聞いた私は、『のび太の地球交響楽』に「オス猫がメス猫に歌うような鳴き声で求愛するシーン」があったことを思い出した。この映画は、そんなところでも“音楽のルーツ”を暗に示すメタファーのような描写を入れ込んでいたのか!

 

 ただし、福岡さんはその通説を紹介したあと、「私は必ずしもそうじゃないんじゃないかと思うんですよ」と述べ、ご自分の見解を披露した。

「この自然物に囲まれている私たちの中では、絶えず音を発してるものがあるじゃないか。それは、われわれの生命体ですよね。心臓は一定のリズムで打っているし、呼吸も一定のリズムで吐いたり吸ったりしているし、脳波だって40ヘルツぐらいで振動しているし。生命は生きていくうえで絶え間なく音を、音楽を発してるわけですよね。でもロゴスによって切り取られたこの世界では、われわれの生命体自身も生きているということを忘れがちになってしまう。だから外部に音楽を作って、内部の生命と共振するような、生きているっていうことを思い出させる装置として、音楽というものが生み出されたんじゃないかなって思うんです」

 福岡さんのこの見解を聞いて、音楽の起源にいっそう思いを寄せたくなった。なんと美しく、なんと胸に響く音楽の起源だろう! 音楽はこんなにもわれわれが生きることと密接に結びついていたのか!

 

●福岡さんの発言に「野鳥」が出てきたついでに言うと、『のび太の地球交響楽』には白鳥のほかに種類を特定できる野鳥がいくつか登場している。カルガモ、シラサギ(くちばしが黄色だったのでダイサギチュウサギと思う)、シジュウカラ、スズメといった野鳥を確認できた。夕方のシーンでカラスの声が聞こえたりもした。白鳥はたぶんオオハクチョウだろう。

 

●地球の音楽の起源(管楽器の誕生)に惑星ムシーカの笛が影響を及ぼしていた、という真相が明かされたわけだが、それだけにとどまらない、ムシーカ人による地球人類史へのただならぬ影響も感じた。地球のクロマニヨン人の男性と惑星ムシーカの女性が結婚して子孫をずっと残していったのだから、4万年後の現在、その遺伝子を受け継いだ人が相当数地球に広がっていることになりそうだ。なんと現在の地球人(特にヨーロッパの人)には惑星ムシーカの血が入っている人が大勢いるのだ!?

 

●20個のドラ焼きが積み上げられたドラ焼きタワーが壮観だった。この序盤シーンでドラ焼きのこととなると欲望丸出しになるドラえもんの有様が印象深く描かれたことが、のちのシーンに活きてくる。

 のちのシーンとは、ママから「またドラ焼きいただいたわよー」と聞いたドラえもんがあらかじめ日記を放り出して壁と天井を駆け抜けていくシーンのことだ。あらかじめ日記は大事なものなのに、ドラえもんはそれをいちばんよくわかっているはずなのに、ママからドラ焼きと聞いたとたん我を忘れてあらかじめ日記を放り出してしまう。そうなってしまうほど、ドラえもんはドラ焼きに弱いのだということが、序盤のドラ焼きタワーのシーンできっちり示されているわけだ。

 ドラえもんが放り出したあらかじめ日記を、その後ママが拾ってのび太の部屋へ持っていき、そのあらかじめ日記にのび太が世界を救うことになる文章を書くことになるのだから、ドラえもんがあらかじめ日記を放り出すシーンはささやかだけれど重要な意味を持ってくる。ドラえもんがドラ焼きに目がないからこそあらかじめ日記は放り出され、放り出されたおかげでママを経由してのび太のもとに来ることになったのだ。

 思えば、のび太があらかじめ日記に書いた文章のせいでノイズを地球に呼び寄せてしまって世界が危機を迎え、のび太があらかじめ日記に書いた文章のおかげでノイズが撃退され世界は救われたことになる。言ってしまえば、ノイズとの戦いはのび太×あらかじめ日記によるマッチポンプ事件だったわけだ。

 

のび太はリコーダーが下手で、どうしても外れた音を出してしまう。ジャイアンスネ夫は、その音を「のび太の“の”の音だ」とからかう。のび太は、リコーダーをうまく吹けないことで音楽に対する苦手意識にとらわれる。だからのび太は、あらかじめ日記に「今日わ音楽がなかった。たのしかった」と書いて、次の音楽の授業がなくなるようにした。

 この日記の文が、のび太の意図から範囲を広げ、音楽の授業どころか音楽全体をなくす事態を招く。

 のび太は自分が書いた日記のせいで地球の音楽をなくしてしまったと知っても、それでいいんじゃないと言い、その後音楽のある世界に戻ってからも、音楽がないままでよかったと思う瞬間がある。ファーレとは音楽のことだと知ったときののび太は、気が引けていた。楽器の演奏は他のみんなより常に上達が遅れた。

 のび太の音楽コンプレックスが入念に描かれていくのだ。

 そんなのび太が、ストーリーが進むにつれ自分もリコーダーを頑張りたい、音楽って楽しいと思うようになっていく。その意味でこの映画は「音楽をめぐるのび太の成長譚」としてよくできた作品でもある。

 終盤、ファーレの殿堂のメインスイッチのラストワンを押したのが、のび太のリコーダーの“の”の音だったというのは、まことに熱い展開だ。外れた音、笑われた音、バカにされた音、のび太に音楽コンプレックスを植えつけた音が、ここに来て重要な役立ちを果たすのである。“の”の音の価値の大逆転劇だ。

 しかも、その“の”の音が発せられるタイミングが絶妙だった。ノイズの胞子に襲われかけたミッカをのび太が守ろうとするタイミングだったのだ。今回の映画の中で「カッコいいのび太」が見られる随一のシーンだろう。

 のび太のリコーダーはしだいに上達していくが、映画本編の最後のシーンとなる「秋の演奏会」のときですら彼は“の”の音を出し続けることになる。

 でも、最後に発せられた“の”の音は、この映画の序盤で発せられた“の”の音と同じ音でありながら、異なる意味を帯びている。“の”の音の価値は映画の中でマイナスからプラスへと上昇していった。

 序盤で、のび太が“の”の音を出してクラスメイトに笑われたとき、音楽担当の服部先生がその音を「個性的な演奏」という言い回しで評したことも心に残った。その個性的な演奏が実はムシーカの縦笛の欠けた1音と同じもので、ファーレの殿堂のメインスイッチの最後の一つを押せることになり、さらには世界を救うことになるのだと思うと、服部先生がこの時点で“の”の音をポジティブに評価した(否定しなかった)のは、さすが音楽の先生だ!と拍手をおくりたくなる。

 “の”の音を聴いたモーツェルが「懐かしい音」と言ったところも印象的。

 

●ミッカがのび太を呼ぶときの呼び方が、

【のほほんめがね→のび太のび太お兄ちゃん】

 と変化する。

のび太の地球交響楽』は音楽をめぐるのび太の成長譚だと先述したが、本作はミッカとのび太の関係の変化・成長を描いた映画でもある。その変化を端的に示すものとして、ミッカによるのび太の呼称がある。

 

●雨がやんだ朝、野比家の前の電線に水滴が残っていた。

 ミッカとのび太が初めて会ってミッカが歌声を披露したとき、川面に夕日が映っていた。

 そういうこまやかな詩情を感じさせる風景が心に残った。

 

●みんなが夜の学校の音楽室に集まるシーンは、学校の怪談的なムードを漂わせていた。誰もいない音楽室でピアノを弾くと肖像画のベートーベンが笑いだす、という都市伝説が語られたりして。

 音楽準備室の扉が異世界への入口となった。ここが日常世界と異世界をつなぐ境界領域。

 みんなは音楽準備室にできた亜空間のようなところへさっさと飛び込んでいく。ここで異世界への突入をためらう役回りがスネ夫だ。ファーレの殿堂の入口の音楽アスレチックみたいな場所でも、そこへ踏み込むのをためらう役回りはスネ夫だった。みんながためらいなく未知の領域へ踏み込む中、いやこんなの普通は怖いだろうと感じる観客の感性に寄り添う役回りと言えそうだ。

 

スネ夫ジャイアンにいらんことをよく言った。だからジャイアンにぶちのめされた。 

 くずれた顔でインパクトを残す“変顔”賞を与えるなら、今回の映画ではスネ夫だろう。エンディングの止め絵で描かれたジャイアンリサイタル中のスネ夫の顔もすごかった(笑)

 

●冒険のハラハラドキドキ感は、映画ドラえもんとしては比較的抑えめだった印象だ。今回の映画においては、音楽の楽しさが、音楽の力が絶大だった。音楽をぞんぶんに楽しめたのだから、もうそれでいいとすら思えるくらい。

 

●ミーナの出番は思ったよりだいぶ少なかった。声を担当した芳根京子さんが宣伝イベントや事前情報記事などによく出ていたのでメインのゲストキャラクターかと思っていた。フタを開けたらメインのゲストキャラクターは、圧倒的にミッカだった。

 ミーナは有名芸能人(この場合は芳根京子さん)を起用するために設定されたゲストキャラクター……と(本当はどうだかわからないけれど)そう思えてしまうところはあった。

 ミーナはおばあさんから譲り受けた惑星ムシーカの縦笛を所有していた。この笛、4万年前の祖先(=ミッカの双子の妹)が持っていたもの。クロマニヨン人の時代だ。そんなはるか大昔の物が、先祖代々ひとつの家系に受け継がれて今も子孫に保管されている、なんてことはありえないのではないかしら。もしかするとこの映画で起きた最大の奇跡かもしれない(笑)

 クライマックスのミーナのコンサートシーンには高揚感をおぼえた。

 

●ミッカが熱心に読んでいた絵本の内容が現実化する。その展開も伏線回収のおもしろさに通じるものがあった。ミッカの絵本が予言の書のような役割を担ったのだ。

 ミッカの部屋に複数の絵本が散乱していた。ミッカの「まだ本を片付けられないくらいの幼さ」や「ミッカのちょっとがさつな性格」を感じさせる景色だ。と同時に、他に人間の仲間がいないミッカにとって絵本を読むことが孤独を埋める手段になっていたのだな、とも思わせる。(もちろんチャペックがいてくれたことは、ミッカにとってさぞかし心強かったことだろう)

 

●本筋と関係ないところで目を奪われたのは、ドラえもんの洗髪シーン。正確に言えば洗“髪”はしていないから、頭磨きということになろうか。シャンプーハットをかぶって一生懸命ゴシゴシと頭を洗ってるんだからたまらない😄 みんなに見られるのを狙ってるの?と言いたくなるキューティーなふるまいだった。

 シャンプーするドラえもんのひげに泡が引っかかっているのも、ささやかなチャームポイント。

 

●映画本編の上映が始まる前の宣伝映像の中に、「ヤマハ音楽教室」と『のび太の地球交響楽』がコラボしていることを伝えるものがあった。その後、映画本編の中で「ママハ音楽教室」という電柱広告を見つけてニヤリ。コラボ中の企業のパロディをやったわけね(笑)

 さらに、ミッカが地球の街を楽しむシーンでアイスクリームを食べていて、そういえば『のび太の地球交響楽』はサーティワンアイスクリームともコラボしてるよなと。ミッカのアイスクリームシーンはサーティワンへのちょっとしたはからい? 映画鑑賞後、私はまんまとサーティワンへ行ってコラボ商品を注文したのだった(笑)

 

●これまで『のび太の地球交響楽』を3回観たが、観るたびにミッカの歌声に魅了されていく。ミッカが歌うと涙腺を刺激される。映画オリジナル作品でこんなにもゲストキャラクターに心引かれるのは、私にしては珍しい気がする。

 ミッカの声の平野莉亜菜さんは、本作が芸能デビュー作のようだけど、本当に好演だったな。彼女がミッカ役でよかった。

 

●ミッカの決めセリフ「ピピッと響いた」は、ピノコの「アッチョンブリケ」へのオマージュ?

 でもないか…

 

●ミッカが宇宙人と判明するシーン。のび太たちに「宇宙人」と言われたミッカが「私から見たらあなたたちが宇宙人よ」と切り返す。

 大長編『のび太の宇宙小戦争』でのび太&ドラえもんがパピと初対面するシーンを思い出した。

のび太「じゃ、じゃー宇宙人?」

・パピ「きみたちから見ればそうなるね」

 

 合わせて『のび太と竜の騎士』で兜を脱いだバンホーの素顔を初めて見たシーンも脳裏をよぎった。

ドラえもんたち「ああびっくりした。なんだか人間ばなれして見えたもんで」

・バンホー「失礼だなあ。ぼくから見ればきみたちこそ人間ばなれして見えるんだぞ」

 

 このような、地球人側の視点が示された直後すぐさま異世界人側が切り返すやりとりを『のび太の地球交響楽』でも観られて、「藤子Fチックだな」とちょっぴり琴線に触れた。こういう、さらっとした視点の相対化、好きなのだ。

 

●この映画では、途中でドラえもんが壊れる。『雲の王国』や『ブリキの迷宮』を意識した表現?ととっさに感じた。

 あの壊れ方の症状、目の表情、触られて「エッチ」と反応するところなど、特に『雲の王国』のほうを意識しているのだろう。

 どうあれ、壊れたドラえもんの姿を見るのは切ない。あんまり見たくない。

 みんなの頑張りでドラえもんが治ったとき、その治ったドラえもんの姿が映し出される前にドラえもんが拍手する音が聴こえてきた。その音が聴こえてきた時点ではなんの音かわからない(予想はできる)が、その直後ドラえもんが拍手する姿が映って、「おお!これはドラえもんがみんなに拍手を送る音なんだ」とはっきりする。その瞬間、ペタリハンドによるこの単純な拍手音がじつに素敵な音楽に感じられた。

 この拍手音は、弾力がある物体が軽く当たり合っているような音質で、音楽があふれるこの映画においてはいたって素朴でちょっとした音ではあるが、ドラえもんが治った喜びと相俟って心を動かされた。

 

●お遊び的な藤子Fネタで私が自力で気づけたのは以下のとおり。

のび太のクラスメイトに、あばら谷くん、多目くん、ムス子さん、にくめないやつ、クラスで1番エッチなやつ、といった子がいた。

・ラジオ番組で曲をリクエストしたリスナーのラジオネームがフニャコフニャ夫だった。

 以上は『ドラえもん』ネタ。

・『ドラえもん』以外の藤子Fネタでは、映画の終盤、野比家の冷蔵庫にモンガーのマグネットがくっつけてあるのが見えた。

 

●ノイズの胞子の質感はブヨヨンみたいだな。ブヨヨンをタコ型にして不気味化させた感じ、と言うとブヨヨンが気を悪くしそうだけど。

 

●「一つの星の文明を支えるレベルでエネルギーを生み出す鉱石」という意味で、この映画に出てきたファーレ鉱石は『のび太の宇宙開拓史』のガルタイトを連想させるものがあった。

 

●「耳で鳩ぽっぽを吹いてやる」は、「鼻でスパゲッティ食べてみせる」(てんコミ10巻「のび太の恐竜」)や「目でピーナッツをかむ」(てんコミ2巻「オオカミ一家」)系統の、できもしない約束(笑) 「鼻でスパゲッティ…」「目でピーナッツ…」ほどのインパクトは感じないけれど。

 

●毎年恒例、最後に流れる来年の映画ドラえもん予告映像。

 予告映像を制作したスタッフさんの名を見ると、来年は寺本幸代監督のようだ。嬉しいじゃありませんか!

 予告映像を観た第一印象は、ビジュアル的に『のび太と夢幻三剣士』っぽいなと。特にドラえもんのコスチュームなんてそれっぽいのだけれど、でも『夢幻三剣士』であればドラえもんが頭に被るモノに星や月の模様があるはずなのだ。それに対し今回の予告映像だとそういう模様は見当たらない。また、ドラえもんが手に持っている細長いモノが、『夢幻三剣士』だと箒なのに対し、予告映像では杖だった。

 予告映像ではお絵かきのシーンがあったりコウモリが飛んだりもして、そこも『夢幻三剣士』とは違う。

 だから、来年はリメイクではなく、魔法ファンタジー的な・絵に描いたものが本物化する的な映画オリジナル作品になるのでは、と予想する。

 どうあれ楽しみだ。

 

※『のび太の地球交響楽』を現時点で3回観ていますが、今回の感想は、主に1回目の鑑賞直後に書きとめたメモをもとに記しました。最初の鑑賞時の感動を言葉にとどめたかったからです。

 この映画を3回も観たのに、記憶力の減退でどんどん内容を忘れていってしまいます。それゆえ、自分用の備忘録として感想を書いた面もあって、必要以上にくどく書き記したところがあります。その点、どうかご理解願います。

 

 

●最後に感想のまとめを…。

 

 今日わドラえもんのえいがをみた。たのしかった。