ドラえもん50周年記念モニュメント「ドラえもん みらいのとびら」

●第26回手塚治虫文化賞

https://koikesan.hatenablog.com/entry/2022/12/25/212137

 

●念願のトキワ荘マンガミュージアム初訪問

https://koikesan.hatenablog.com/entry/2022/12/28/145655

 今回は当ブログの上掲の記事からの続きとなります。

 

 6月のことです。

 東京滞在中にぐうたら感謝の日(6/2)を迎え、朝起きて渋谷の宮下公園へ足を運びました。

 

 この特徴的な建物の屋上に宮下公園があります。

 私が宮下公園へ出かけた理由は、ドラえもん50周年記念モニュメント「ドラえもん みらいのとびら」があるからです。

 

 屋上までエレベーターでのぼり公園に入ると……

 しだいにお目当てのモニュメントが見えてきました。

 

 これが、ドラえもん50周年記念モニュメント「ドラえもん みらいのとびら」の全景です。

 昨年(2021年)の藤子・F・不二雄先生のお誕生日(12/1)にお披露目されたモニュメントで、高さ3.921m、直径約5.8mの大きさがあります。

 

 このモニュメントの実物をまだ見たことがなかったので純粋に見に行きたかった、という思いもありますが、ぐうたら感謝の日を選んでここへ足を運んだのは……

 モニュメントの一員、のび太くんが、ぐうたら感謝の日に非常に相応しいポーズを取ってくれているからです。

 ご覧ください! このお見事な昼寝っぷりを!!

 なにしろのび太くんはぐうたら感謝の日の制定者ですものね♪

 いろいろな藤子・F・不二雄キャラクターたちが元気に躍動するなか、わが道をつらぬき昼寝を続けるのび太くんに最大級の敬意を捧げました(笑)

 

 

 

 全体的に躍動感あふれるモニュメントですが、ブービーにマントを踏まれたパーマン1号の動きに特に視線を奪われました。この体勢も表情も見ていて飽きません。さまざまな角度から眺めたくなりました。

 

 荒っぽい性格のウマタケを楽し気に乗りこなすコロ助の颯爽感もステキでした。

 

 もちろん、ほかのFキャラたちも魅力的。

 

 個人的に記念すべき特別なぐうたら感謝の日となりました。

念願のトキワ荘マンガミュージアム初訪問

 今年6月2日(木)、第26回手塚治虫文化賞の贈呈式・記念トークイベントに参加するため、コロナ禍になってから初めて東京へ遠征しました。その件は当ブログ12月25日の記事でレポートしています。

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2022/12/25/212137

 

 その手塚治虫文化賞イベントの前日(6/1)に東京入りして、トキワ荘マンガミュージアムへ足を運びました。

 

 トキワ荘マンガミュージアムがオープンしたのは2020年7月7日。私はこのミュージアムができると知ったときからぜひオープン日に駆けつけたいという思いでいましたが、コロナのため遠征しづらい状況で、ぜんぜん行けないまま2022年に突入してしまいました。

 

 そんなトキワ荘マンガミュージアムへ念願かなってようやく行けたのが、今年の6月1日だったのです。オープンから2年近く経って、ついに訪問できたわけです。初訪問まで意想外に長くかかってしまいました。行けないでいる期間が長かったぶん、感慨もひとしおでした。

 

 椎名町駅で電車をおりて街を歩くと、トキワ荘マンガミュージアムへ向かうための案内があちこちに!

 こういう看板すら私の興奮を誘うものでした。自分がいま歩いていくこの先に、復元されたトキワ荘が待ち受けているんだ!と、いやがうえにも期待感が高まってきたのです。

 

 着きました!

 トキワ荘マンガミュージアムの建つ南長崎花咲公園に到着したのです。

 

 

 そして、それはそこにありました!!

 ついに、ついに復元されたトキワ荘の実物をこの目におさめることができました!

 あの伝説のトキワ荘が目の前に建ってるんですよ!! 

 『まんが道』で読んだ「満賀道雄の前に、あのトキワ荘があった!!」というナレーションの「満賀道雄」の部分が私の名に勝手に変換されて脳内に感動的に響き渡りました。

 

 しばらく立ち止まって感動にひたったあと、ゆっくり歩きながら建物の外観をじっくり見てまわりました。

 

 細かいパーツや汚れ・錆など、よくぞここまで忠実にこだわってトキワ荘を再現してくださったものです!

 

 トキワ荘の玄関を出てすぐの場所にあった落合電話局の電話ボックスも再現されています!

 

 外観を見まわり終えてすぐ館内に入場したかったのですが、その前に腹ごしらえ。

 松葉でラーメンを食べてチューダーを飲んでンマーイ!

 

 松葉の店内に金子志津枝さんの直筆色紙が飾られていました。

 

 

 松葉でお腹を満たしてついに館内へ入場です。

 満賀道雄才野茂が初めてトキワ荘へ入っていくシーンを頭のなかでなぞりながら玄関をくぐり、ギシギシと音が鳴る仕掛けがほどこされた階段で2階へ。ああ、いま私はトキワ荘の階段をのぼってるんだ!と感慨にひたりながら、1段1段踏んでいきました。

 

 

 階段をのぼりきったところで正面に便所、その横に共同炊事場を確認。トイレも炊事場も細部まで作り込まれていて見惚れます。

 とくに共同炊事場の風景にはずいぶん見惚れました。これだけゴチャゴチャと物が置いてあると、隅々まで細部を確認したい衝動にかられます。

 この風景を見て真っ先に思い出したのは、満賀と才野が自分らで味噌汁をつくろうとしたら鍋も味噌も用意してなくてただ笑うしかなかったシーンです。隣室の桐島(姉)さんが助けてくれたあのシーンです。

 

 それから左を向くと廊下がのびています。廊下を挟んだ両側に各部屋が並ぶ光景が、感銘とともに目に飛び込んできました。

 

 各先生がたの4畳半のお部屋にじっさいに入れたり間近で見られたりするなんて、じつにしあわせな体験です。先生がたが当時この空間で感じていた風景、質感、サイズ感をいま自分も味わえているんだ!と喜びが込み上げてきました。

 

 館内で豊島区の担当課長さまやトキワ荘マンガミュージアムのマネージャーさまとご挨拶させていただくこととなり、あたふた、おろおろしてしまう瞬間もありましたが、トキワ荘マンガミュージアム初訪問は大いなる感動に満たされたのでした。

 

 その後、トキワ荘マンガミュージアムの隣のブックカフェ「ふるいちトキワ荘通り店」へ。

 この店の大家の小出幹雄さんさんが出迎えてくださり、心地よい時間を送れました。

 トキワ荘の漫画家さんのグッズがいっぱい売っており、藤子不二雄Ⓐ先生の本やグッズが目立っていました。

 

 トキワ荘通りお休み処に寄ったら紫雲荘の大家・大山さんと久々にお会いできました。

 大山さんは子どものころよくトキワ荘へ遊びに行っておられます。トキワ荘の漫画家さんのお一人(おそらく藤子・F・不二雄先生)に野良猫のノミ取りをしてもらったエピソードなどを聞かせてくださいました。

 

 この日、私のトキワ荘マンガミュージアム初訪問に付き合ってくださったのは、トキワ荘最後の住人の挿絵画家むかいさすけさん、『「たま」という船に乗っていた』の漫画家・原田高夕己さん、いつも映画ドラえもん同時視聴会の雑談会をご一緒しているフリーライター・とりかさんでした。

 お付き合いくださった皆様やお会いした皆様のおかげで、じつに楽しく充実したトキワ荘マンガミュージアム初訪問となりました。開館から2年近く経っての初訪問がますます思い出深いものとなりました。

 ありがとうございます。

(私がかぶっているベレー帽は原田さんが貸してくれたものです)

『のび太と空の理想郷』前売券購入

 きのう、名古屋の劇場で『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』の前売券を購入。

 前売プレゼントの「大冒険!!パイロットドラ」も無事ゲットしました! 

 

 同じ日の夜、「大冒険!!パイロットドラ」を連れて韓国レストランで友人と忘年会♪

しのだひでお先生逝去

 今年10月のことです。

 漫画家・しのだひでお(篠田ひでお)先生が8月20日、82歳で永眠されたことが公表されました。

 

 ■「日本海新聞」2022年10月26日付

 https://www.nnn.co.jp/news/221026/20221026042.html

 

 しのだ先生には個人的にたくさんの薫陶を受け、たいへんお世話になりました。イベントをご一緒したり共にお酒を飲んだり。旅館で宿泊をご一緒したときは、夜を徹して語り合う勢いで深夜まで面白いお話を聞かせてくださいました。東京のご自宅へ遊びに行かせていただいたこともあります。

 

 しのだ先生との思い出をひとつひとつ振り返るたびに、先生が他界されたことが悲しくて寂しくて、やりきれない気持ちになります。

 そして、深い感謝の念がわいてきます。どれだけ感謝してもしきれない思いです。

 

 ああ、しのだ先生……。トキワ荘時代からの親友だった藤子不二雄Ⓐ先生と一刻も早く再会したくなって、慌ててあちらの世界へ旅立ってしまわれたのでしょうか……。

藤子不二雄Ⓐ先生としのだひでお先生(2018年12月20日、帝国ホテル孔雀の間で開催された「手塚治虫生誕90周年記念会」にて)

 

 しのだ先生は藤子Ⓐ先生のことを「アビコちゃん」と呼んでいました。少し先輩にあたる藤子Ⓐ先生をそう呼ぶわけを、しのだ先生から直接うかがったことがあります。「あの当時(トキワ荘時代、スタジオゼロ時代)の仲間たちはなんでも言い合える友達だから、みずくさいことは嫌なんだよ」

 友情を大切にされていた熱血漢のしのだ先生らしい、率直なお言葉に胸を打たれました。

 

 しのだ先生が永眠された事実は、メディアで報道される前にご親族からお知らせいただいておりました。ご葬儀は8月25日に近親者で行われたそうです。

 その事実を知った時点ではまだメディアでまったく公表されておらず、自分の胸の内でしのだ先生を悼む日々を送ってきました。

 10月26日になってようやく、しのだ先生の故郷の新聞「日本海新聞」で報道され、公にされたのでした。

 

 しのだ先生が残したたくさんのお仕事のなかで私が最も思い出深く感じるのは、「月刊コロコロコミック」で連載された『藤子不二雄のまんが入門』です。しのだ先生は、そのコーナーで何年ものあいだ塾頭を務められたのです。読者からマンガの投稿を募集し、塾頭が入選作や佳作を選び講評・指導するコーナーでした。

 『藤子不二雄のまんが入門』は「コロコロコミック」創刊号から連載が始まっていますが、当初の指導役はしのだ先生ではなく、方倉陽二先生が担当していました。その後1979年5月号(No.13)よりしのだ先生が塾頭を引き継ぎ、同コーナーの連載終了まで続けられました。熱心で熱血で、厳しさとあたたかさのある塾頭でした。

 このコーナー史上個人的に最高に嬉しかったのは、私の投稿作がしのだ先生に選ばれ、入選作として「月刊コロコロコミック」誌面に掲載されたことです。

 

・『藤子不二雄のまんが入門』に入選して送られてきた記念メダルとドラえもんバッジ

 

 入選を知った瞬間も、入選記念メダルが届いたときも、無上の喜びを感じました。記念メダルには自分の名前が刻印されており、かけがえのないご褒美だと感じました。

 入選のほか佳作でページの欄外に名前だけ載せてもらったことも2~3回あったはずですが、入選はこの1度だけでした。(佳作の場合は、景品としてドラえもんバッジが送られてきました)

 

 私が『藤子不二雄のまんが入門』で入選した頃合は、たしか1980年代中盤のこと。時が流れ21世紀に入って、ありがたいことにしのだ先生と実際にお会いでき、交流させていただくことになりました。そのさい「じつは、しのだ先生に私の投稿作を選んでいただいたことがあるんですよ!」とお伝えすることができたのは、いま振り返ってもとても僥倖でした。

 

・入選記念メダル郵送用の箱が保管してあったので、30年近くの時の経て、その箱に塾頭から祝福のお言葉(&ドラえもんのイラスト)を書いていただいたのも大切な思い出。記念メダルとともに箱も貴重な宝物になりました。

 

 私よりもう少し上の世代の方ですと、すぐ上の画像のような、しのだ先生が月刊少年誌や学年誌などに連載したオリジナルのマンガ(あるいは、原作付きのマンガ)を愛読した人も多いかと思います。

 それに対し私がリアルタイム体験したしのだ先生は……

・『ドラえもん』をはじめとした藤子作品の代筆・代作者

・『ドラえもん』をはじめとした藤子作品を使った企画記事・百科本の作成者

学年誌などのカット執筆者

・『藤子不二雄のまんが入門』の塾頭

・学習マンガの描き手

 といったイメージがとても強いです。

 幼少のころは、そういったしのだ先生の数々のお仕事に接し、親しんできました。「しのだひでお」の名を意識しないまま触れていた作品も多々あります。大人になってから「あのイラスト、しのだ先生だったのか!」「このマンガもしのだ先生!!」と気づくことがままありました。

 

 そんなわけで、しのだ先生は藤子先生のお仕事を手伝ったり補ったりしている……という印象が強いのですが、しのだ先生の漫画家生活の出発点は「手塚治虫先生の最初の専属アシスタント4人衆の1人」というところからでした。

 1958年、鳥取県から上京したしのだ先生は、手塚先生が退出されたあとの雑司が谷並木ハウスに入居します。手塚先生はご自身が並木ハウスの部屋で使っていた机や敷金をそのまま置いていってくださったそうです。それは、手塚先生が退出されたあとのトキワ荘14号室へ入居した藤子先生のため手塚先生が机と敷金を残していかれた有名な逸話とぴったり重なります。

 1959年ごろまで手塚先生のアシスタントを務めたしのだ先生は、それから独立して漫画家デビューを果たしました。

 

・手塚先生からしのだ先生に贈られたサイン入り単行本。

 

 しのだ先生は、手塚先生のアシスタントだった時分からトキワ荘へ遊びに行っておられたそうです。初めてのトキワ荘訪問は、しのだ先生のご記憶では1958年4月ごろでした。

 トキワ荘の住人たちは手塚先生に憧れて漫画家を志した者が多く、そのおかげで手塚先生のもとで働くしのだ先生とすぐに意気投合することに。各先生の部屋を訪ねたなか、藤子不二雄Ⓐ先生のお部屋にいることが最も多く、赤塚先生のマンガ執筆のお手伝いをしたこともあるそうです。「しのだ先生が赤塚先生のアシスタント第1号だったりして(笑)」といったお話を、しのだ先生と交わした記憶がよみがえります。

 

・『トキワ荘マンガミュージアム 物語のはじまり』(平凡社)。この表紙写真は、しのだ先生が1958年トキワ荘へ遊びに行ったときのもの。向かって一番右がしのだ先生です。

 

 トキワ荘に住んでいた先生がたがすべてトキワ荘を出たあとも、みなさんの交遊は続きました。なかでも、しのだ先生が最も親しく長くつき合うことになったのが藤子不二雄Ⓐ先生です。

 お2人はマンガのつながりだけではなく、藤子Ⓐ先生の自伝的マンガ『愛…しりそめし頃に…』で描かれているように草野球仲間でもありました。しのだ先生がある人物の誘いで東京ポロリーズという草野球チームに入ったら、すでに藤子Ⓐ先生がチームの一員だったのです。そのことが、お2人の交遊がその後もずっと続く決定的なものになりました。

 『愛…しりそめし頃に… 』第10集に収録された「エラーズ対ポロリーズ」の回に、草野球の試合後の打ち上げで満賀道雄(≒藤子Ⓐ先生)としのだ先生が初対面するシーンがあります。

ビッグコミックススペシャル『愛…しりそめし頃に…』第10集(小学館、2011年3月3日初版第1刷発行)所収「エラーズ対ポロリーズ」(初出「ビッグコミックオリジナル増刊」2009年11月12日号)より引用

 

 このマンガの作中では、草野球の試合後に2人が初めて対面したことになっています。しかし、いま述べたように、2人の初対面はそれより前、昭和33年4月ごろしのだ先生がトキワ荘を初訪問したときでした。

 

 2人の藤子先生は、トキワ荘を退出したあと川崎市生田に建てた新居へ引っ越しました。お2人の自宅は仲よく隣り合って建てられましたが、そのご自宅とは別に、マンガを執筆するための仕事場を下北沢のアパートの一室にかまえました。

 しのだ先生は、藤子先生の仕事場が下北沢にあったころから「手が空いていたら手伝いにきてよ」と安孫子先生に頼まれ、よく手伝いに行っていたといいます。

 

 1965年、藤子先生が仕事場を新宿十二社の市川ビルに移し、66年に藤子スタジオを設立してからも、しのだ先生は藤子先生の仕事場に通いました。通うどころか、しのだ先生専用の机までありました。

 しのだ先生は、藤子先生にとって親しい友人であり、頼もしい助っ人でもあったのです。しのだ先生は“藤子スタジオの鬼軍曹”との異名をとったとかとらなかったとか……そんなまことしやかな噂も聞こえてくるほどです。

 

 そのような経緯があったため、「しのだ先生は藤子スタジオに所属して藤子先生のアシスタントをしていた」という説が語られることがしばしばあります。その件について私は直接うかがったことがあります。

 しのだ先生はこうおっしゃいました。

「僕が藤子スタジオでアシスタントをやっていたと言う人もいるが、それは違う。アビコちゃんに『席が空いているから手伝いにきて』と頼まれたので、友人として手伝いに行ってただけなんだ。僕は(藤子不二雄の弟子ではなく)手塚治虫先生の弟子だから」

「通い始めたころの市川ビルには、藤子不二雄だけじゃなく、赤塚、つのだ、長谷、古谷、高井、北見といった魅力的な人たちが集まっていたので、誘われれば行かない手はないんだよ」

 

 しのだ先生は、藤子マンガの代筆・代作のお仕事を多くなさっていますが、なかには「藤子不二雄」と「しのだひでお」のお名前が並列的にクレジットされた仕事もあります。藤子先生がネームや一部キャラクターのペン入れまでやって、その他のキャラクター・背景などをしのだ先生が作画するパターンです。いわゆる“合作”です。

 そうやって描かれた作品のタイトルを以下に3つ挙げてみます。

 

・『ドタバ太対イカレ太最大の決闘』(「冒険王」1965年8月号付録)

・『ぼくんちのタコくん』(「希望の友」1966年新年号~67年2月号)

・『ドラQパーマン』(「月刊コロコロコミック」1979年8月号)

 

 たとえば、アニメ化もされた『ドラQパーマン』は、藤子・F・不二雄先生が描いたネームをもとにしのだ先生が作画を担当しています。しのだ先生から『ドラQパーマン』の制作工程をうかがったことがあります。

 まず藤子F先生が原稿用紙に鉛筆でネーム(コマ割り、人物の配置、だいたいの構図)を描き、そのネーム原稿がしのだ先生に渡されます。しのだ先生は、藤子F先生の描いたネームに基づいて鉛筆で下描きをし、それからペン入れをおこなったということです。

 キャラクターのペン入れに関しては、藤子F先生のラフなキャラ配置・構図をもとに、しのだ先生が鉛筆できっちり下描きして、その下描きをペンでなぞるかたちで執筆したとか。しのだ先生の師である手塚先生の下描きは、おおまかなラフ画であることが多いのですが、しのだ先生はきっちり下描きをしないとダメなタイプだとおっしゃっていました。

 

しのだひでお先生に描いていただいた『ドラQパーマン』の直筆色紙。これも宝物です。

 

・『ドラQパーマン』の扉ページ(「月刊コロコロコミック」1979年8月号、541ページより)

 

 この『ドラQパーマン』掲載号の前月に載った予告では「仮題」とされていました。

・『ドラQパーマン』予告ページ(「月刊コロコロコミック」1979年7月号より)

 

 大人気の3キャラクターが作品を越境して夢の競演を果たすということで、とりえあえず3キャラの名前を単純に並べて『ドラQパーマン』と仮題をつけ、翌月号の本番では正式なタイトルに変えようかな、という思いがあったのでしょうね。しかし結局、そのままのタイトルで作品が発表されることになりました。

 この予告を見た時点では、しのだ先生が作画を担当するとはまるで予想できませんでした。

 

 『ドラQパーマン』は、1980年4月8日放送の特番『春だ! 一番ドラえもん祭り』内でアニメ化もされています。

 時を経て、マンガの『ドラQパーマン』は藤子・F・不二雄大全集ドラえもん』 20巻(2012年発行)に収録されました。

 

 藤子F先生のマンガ『べラボー』(「まんが王」1968年7月号~69年11月号)もまた、そういうパターンのお仕事(藤子先生との合作的な作品)だったと言ってよいでしょう。

 藤子F先生がベラボー、一郎、パパ、ママのペン入れまでやって、その他のキャラクターや仕上げをしのだ先生が担当しています。しのだ先生が担当したキャラクターについては、デザインや名前をしのだ先生が考えました。

 

・11年前に高円寺駅前の店でしのだ先生に『ベラボー』のガキ大将キャラクター“デカ山”を描いていただいたことがあります。

 

 『ウメ星デンカ』の虫コミックス版やてんとう虫コミックス旧版などに収録された最終回「別れはつらいよ」もまた同様の合作パターンです。藤子F先生がネームまでやってしのだ先生が下描きとペン入れをしているのです。藤子F先生があまりに忙しかったため、しのだ先生に代筆の役割がまわってきたそうです。

 

 『ぼくんちのタコくん』『ドラQパーマン』『ベラボー』といった藤子先生との合作パターンのほかに、しのだ先生が全面的に代作した藤子不二雄原作のマンガ・イラスト・カット(特にドラえもん関係)が無数に存在しています。誰も全体像を把握できないくらい、ほんとうに数多くあります。

 たとえば、カルビードラえもんスナックのおまけカードもしのだひでお先生のお仕事です。

 しのだひでお先生の描くドラえもんは、一目見て即座にわかるくらいしのだ先生の個性が全開です。しのだタッチが充満しています。藤子タッチに似せようとはしていないように見えます。

 そんな“藤子タッチに寄せる気のなさ”について、しのだ先生に訊いてみたことがあります。不躾な質問に対し、しのだ先生はこう答えてくださいました。

「当時は仕事量があまりに多くて、いちいち藤子先生のタッチに似ているか気にかける暇がなかったし、あまり絵柄を藤子先生に似せようとすると絵がぎこちなくなって活き活きとしたものが失われる。そういう理由から、自己流の絵柄でドラえもんなどの藤子キャラを描いていたんだ」

 

 また、しのだ先生はあるインタビューでこんなことを述べておいででした。

 僕は『ドラえもん』や『オバQ』を使った仕事が多かったんで、その中で自分をどこまで出せるかっていうのに力を入れていましたよ。だから、編集者が「藤本先生はこんなふうに描かない」って言ってもね。それはやっぱり「しのだひでおドラえもん」になってなきゃいけないわけだから、そういうところで、けっこういろいろ激論したりして(笑)。でも、そういうのが楽しかったし、大事なことだったと思うんですよね。ただ原稿頼まれて、描いて渡して、みたいな感じじゃなかったんですよ、「コロコロ」は。

(「リラックス」2003年4月号より)

 代作とはいえ、自分が描くからには自分の魂を、熱を、技量を全力で注いで描きたい、というしのだ先生のプロ作家意識がうかがえます。だからこそ、しのだタッチのドラえもんもまた当時の子どもたちに大いに親しまれ愛されたのだと思います。

 

 この話をしていると、しのだ先生がマンガ執筆を担当した『ドラえもんの発明教室』の単行本(てんとう虫コミックス全2巻、1985年、小学館)巻末の「著者プロフィール」欄に書かれていることも思い出します。

昭和14年11月15日、鳥取県に生まれる。

昭和33年、手塚治虫先生の弟子となる。

昭和34年ごろ、少女まんが(タイトルはわすれた)で、独立。スタート。

以後、カット・まんがイラスト専門仕事師となり、現在にいたる。

 ここにある「カット・まんがイラスト専門仕事師」という表現に、しのだ先生の、まさに「仕事師」としての矜持が感じられるのです。

 

 

 少し話が戻りますが、私は先ほど『愛…しりそめし頃に…』にしのだ先生が登場すると書きました。つまり、しのだ先生は藤子Ⓐマンガの登場人物でもあるわけです。

 藤子Ⓐマンガのなかで最もしのだ先生の出演シーンが多いのは、おそらく『わが名はモグロ…喪黒福造』(「ビッグコミック」2003年10月25日号)という読切作品でしょう。藤子Ⓐ先生のブラックユーモア短編の嚆矢『黒イせぇるすまん』(「ビッグコミック」1968年11月号)のメイキング・マンガです。

 藤子Ⓐ先生(当時は「藤子不二雄」名義)が『黒イせぇるすまん』を執筆するときの助っ人として、しのだひでお先生が登場するのです。

 『黒イせぇるすまん』に焼肉屋のシーンがあります。『わが名はモグロ…喪黒福造』には描かれていませんが、しのだ先生によると、『黒イせぇるすまん』執筆中に藤子Ⓐ先生としのだ先生は実際に新宿の焼肉屋へ行ったのだそうです。偏食家の藤子Ⓐ先生は肉と魚が苦手で、そのときも焼肉を食べられなかったのですが、『黒イせぇるすまん』で焼肉屋のシーンを描くのでリアリティを出そうと頑張って焼肉屋へ出かけられたのでしょうか。あるいは、その焼肉屋へ行った体験が作品に反映されたのでしょうか。

 しのだ先生は、藤子Ⓐ先生が『わが名はモグロ…喪黒福造』を執筆するさいも協力を頼まれたそうです。1968年の『黒イせぇるすまん』執筆当時しのだ先生が付けていた日記をひもとき、そのころどんなことがあったのかを藤子Ⓐ先生に教える役割を担ったのです。

 

 私は、しのだ先生と飲ませていただいたとき、しのだ先生が藤子Ⓐ先生と遊んだり飲みに行ったりしたエピソードをいろいろとうかがいました。藤子Ⓐ先生が飲み屋でどんなご様子だったのか、親友同士ならではの率直な描写で教えてくださったりもしました。お2人の仲のよさがひしひしと伝わってきました。

 そうしたエピソードのうち、きわめて個人的な次元で非常に感動した話があります。

 しのだ先生から「この前、アビコちゃんと食事してねえ。そのとき、『稲垣くんは番組に出ずっぱりだったねえ』『ビビる大木もビビってたねえ』なんて話になったよ」とうかがったのです。藤子Ⓐ先生ご夫妻としのだ先生ご夫妻がてんぷら屋で食事をされたとき、そんな話題が出たのだそうです。しのだ先生の言う「番組」とは、2011年にNHKで放送された藤子先生デビュー60周年記念番組『まんが道をゆけ!』のことです。この番組に私はビビる大木さんと出演したのです。

 私がいない場所で藤子Ⓐ・しのだ両先生が私のことを話題にあげてくださったなんて、あまりにも光栄すぎて尋常じゃないほど胸がジーンとしました。涙と鼻血が同時に出そうなくらい昇天気分になりました。

 

 藤子不二雄Ⓐ先生の長年の相棒だった藤子・F・不二雄先生は、藤子Ⓐ先生とは反対に、めったにお酒を飲みに行かなかい方でした。が、しのだ先生は一度だけ藤子F先生、藤子Ⓐ先生とバーへ入ったことがあるそうです。しのだ先生が藤子F先生と飲んだのはそれが唯一。藤子F先生は水割りか何かをちびりと飲んだだけですぐ寝落ちしてしまわれたのでした。

 その話を聞くと、『愛…しりそめし頃に…』の一場面を思い出します。トキワ荘の仲間たちでチューダーを飲もうというとき、ほかのみんなはサイダー4/5:焼酎1/5の割合で混ぜているのに、才野茂(≒藤子F先生)1人だけ焼酎ひとったらし…というくだりがあるのです。お酒が苦手だった藤子F先生らしいエピソードです。

 

 

 まだまだ語りたいことがありますが、キリがなくなりそうなので、ここでしのだ先生との思い出の写真を少しだけアップします。

・2013年8月、しのだひでお先生と私のツーショット

 

・2017年12月、しのだひでお先生のご自宅へ遊びに行かせていただいたときの1枚

 

・しのだ先生のお部屋の書棚に拙著が並んでいるを見つけて感激しました

 

・2018年6月、心から楽しそうなしのだ先生と鈴木伸一先生

 

 

 思い出と感謝の念は尽きませんが、本日のエントリの最後に、しのだひでお先生のご著書のなかから、いま自宅ですぐに手にとれる本をアップします。

・「こどもマンガ学校」(1967年、現代芸術社):2人の藤子不二雄先生が表紙を描きおろし、中身(指導と絵)をしのだひでお先生が全面的に担当した本です。

 

・「学研まんが 地球のひみつ」(1973年、学研):小学校の図書室で読めるコミックスといえば『はだしのゲン』くらいしかなかった時代、学研のひみつシリーズは図書室に堂々と並んでいました。シリーズの執筆陣にいろいろな漫画家さんが名を連ねるなか、しのだ先生が執筆した巻の一つがこの「地球のひみつ」です。

 

・『ドラえもんの発明教室』(1985年、小学館):私より少し下の世代の方だと、しのだ先生の本といえはこれ!という人も多いのではないでしょうか。

 

・「小学五年生」1984年4月号の付録「デラックス人生ゲーム」:これは本じゃありませんが、本の付録ということで。

 

 

 しのだひでお先生、長いあいだ本当にありがとうございました。

 ご冥福をお祈りします。

池田憲章さん逝去

 今月9日のことです。

 特撮・アニメなど多岐にわたるジャンルで評論活動をされてきた池田憲章さんが10月17日に亡くなられていた……と関係者の方が公表されました。享年67才。まだお若いのに……。

 

 池田憲章さんのお仕事は本当に多岐にわたっているのですが、私はやはり藤子ファンの立場から池田さんを悼みたいと思います。

 

 私は池田さんにたいへんお世話になった、という気持ちを抱いています。

 というのも、1980年代藤子アニメブームの時代、各メディアにおいて藤子作品を真っ当かつ好意的に論じてくださった数少ない人物の一人が池田さんだったからです。中高生にもなって藤子アニメを観ているなんて幼稚だ!と有無を言わせず断定されてしまったあの時代、池田さんが藤子作品について語ってくださる言説は非常に頼もしくありがたい、救いの言葉に感じられました。(現在も、子ども向けの作品を愛好していれば幼稚だの何だのとバカにする人はいるでしょうけど、昭和の時代はそういう偏見や差別心がもっとずっと根強かったと私は体験的にそう認識しております)

 世間からも、他のアニメファンからも、「藤子不二雄が好きだ」と告げると当然のごとく見下すようなまなざしを向けられた時代に、藤子作品の魅力を評論や解説の言葉で公正に取り上げてくださった池田さんは、当時肩身の狭い思いをしていた(もっと言えば、迫害を受けているような気分だった)私を勇気づけてくれた、恩人のような存在なのです。

 

 いますぐ手元に用意できる資料が限られているのですが、池田さんが藤子作品を論じてくださった事例を少し紹介しましょう。

 「毎日グラフ」1980年2月17日号で「ドラえもん即席入門講座 -幼児から大人まで大ブームの秘密-」という特集が組まれました。特集のタイトルのとおり、前年から大ブームを巻き起こしている『ドラえもん』がどんな作品なのかを「毎日グラフ」読者にわかりやすくガイドする企画でした。

 その特集内で映画『のび太の恐竜』のあらすじや『ドラえもん』の登場人物を解説する文章を池田さんが執筆しているのです。

 池田さんによる『ドラえもん』登場人物の解説文は、次のような始まり方をします。

 

ドラえもん」の物語に登場する主人公達は、読者の少年少女の周りにいる男の子や女の子に少しも変わりがない。ドラえもんを抜いてしまえば、ごく当たり前の男の子や女の子の世界である。これは、ロボット・アニメや変身ヒーローといった、最近子供達に人気のあるTVアニメやTV映画などと違って、「ドラえもん」の不思議な特徴の一つである。

 

 そのように池田さんは『ドラえもん』の登場人物の平凡さに注目し、その平凡さがこの作品の特徴であると指摘したうえで、それこそが『ドラえもん』という作品の“リアリティー”であり“愛嬌”であり“武器(強み)”であると論じたのです。

 私が『ドラえもん』をはじめ藤子作品に深く引き込まれた大きな理由が、まさにその“平凡さ”、すなわち作品のベースにある日常性だったので、池田さんのこの解説を読んだときは我が意を得たりと感激しました。

 

 また、「ザテレビジョン1984年1月17日号では、池田さんが2人の藤子不二雄先生にインタビューしています。記事のタイトルは「藤子不二雄が初めて語る(秘)裏話?! ハッハッハッ ドラハッパー  ●ドラえもん・忍者ハットリくんパーマンの魅力」。

 そのインタビューのなかで特に印象的だったやりとりを引用します。

・「ザテレビジョン1984年1月17日号より誌面を引用

 

 これは、『ドラえもん』の底に流れるSFマインドに言及した池田さんの質問に、藤本先生が答えるくだりです。

 ここで藤本先生が語った本格SFへの思い、スタンスが、藤本先生がご自分の描くSFを“すこしふしぎの略である”とおっしゃるようになった所以のひとつなのです。

 

 「ザテレビジョン」に載った池田さんの文章ということでは、3代目アニメ『オバケのQ太郎』放送開始を特集する記事も思い出深いです。同誌1985年4月26日号の巻頭カラーで『オバケのQ太郎』が特集され、その解説文を池田さんが担当したのです。

 池田さんの解説文の一部を紹介しましょう。

・「ザテレビジョン」1985年4月26日号より誌面を引用

 

 私が池田さんのこの文章を思い出深く感じるのは、池田さんがご自分を「古い藤子ファン」と称していたからです。池田さんの言説は以前から藤子ファンである私の弱い心を支えてくださるものだったわけですが、池田さんご自身が「藤子ファン」とはっきり名乗ってくださったことで、ますます心強い同胞を得た気持ちになりました。『海の王子』『ロケットGメン』『オバケのQ太郎』などをリアルタイムで読んで育ってこられた池田さんは、われわれ藤子ファンの大先輩であり、頼もしい味方だったのです。

 

 以上の3例は1980年代の記事ですが、比較的記憶に新しいところでいえば、藤子・F・不二雄大全集『ロケットGメン』(2013年5月29日初版第1刷発行)の巻末解説を池田さんが担当しています。

 ・藤子・F・不二雄大全集月報(2013年5月)より画像を引用

 

 この本で語られた池田さんの解説は、『海の王子』『ロケットGメン』『すすめピロン』『すすめロボケット』『オバケのQ太郎』などの藤子マンガをリアルタイムで読んだ経験と記憶、それに加えて深い見識と愛情があふれる名解説です。

 『海の王子』でも使われた“四次元”というワードに関して藤本先生から聞いた話を披露しつつ、その四次元について「藤子さんぐらい上手く自分の作品に消化して取り込んでいる人はなかなかいません」と評するくだりなど興味をひかれます。

 

 ほかにも池田さんは、コロタン文庫『怪物くん全百科』『パーマン全百科』などの構成を手がけたり、「ドラえもん映画大全集1000」(1985年)で作品解説を担当したりもしていて、藤子ファンのなかにはこれらのお仕事を真っ先に思い出した方もおられるようです。

 

 池田憲章さん、10代のころ受難者気分でいた私に心強い言葉を供給してくださって本当にありがとうございました。

 ご冥福をお祈りします。

第26回手塚治虫文化賞

 今年6月のことです。

 

 6月2日(木)、手塚治虫文化賞の贈呈式・記念トークイベントが3年ぶりに開催されました。会場は、朝日新聞東京本社内の浜離宮朝日ホール

 このイベントを観覧するため、コロナ禍になって以降で初めて東京へ行きました。

 コロナになる前は年に何回か足を運んでいた東京の地を、およそ2年半ぶり踏むことができ、じつに感慨深く思いました。

 東京へ行けることのありがたみよ!

 

 今回の大賞受賞作は『チ。-地球の運動について-』(魚豊)。この作品の単行本1巻が刊行されたとき帯に岩明均先生が賞賛コメントを寄せており、それに惹かれて読んでみたらとんでもなく面白くて、選考委員の満場一致で受賞が決定したのも大いに納得です。

 個人的に好きで読んでいた作品が大賞を受賞したなんて、素直にうれしいです。

 

 『チ。-地球の運動について-』の作者・魚豊さんは24歳。手塚治虫文化賞の歴史上最年少の受賞者です。

 この若さでこれほどの傑作をものにした描き手の今後が楽しみすぎて末恐ろしいほどです。

 

 記念トークイベントは「マンガ媒体の変遷」と題し、デジタル時代のマンガ媒体のありようについて講談社コミックDAYS編集長の井上威朗さん、選考委員の高橋みなみさん、朝日新聞の黒田健朗さんが語り合いました。今後ますます紙媒体よりデジタルが優勢になりそうな情況のなか、紙で読むマンガにも愛着を示した高橋さん。今後も紙のマンガは続いていくだろうという話を聞いてホッとする彼女に、ちょっと共感しました。

 

 会場では、コロナ禍になってなかなか会えなかった方々とひさしぶりに再会できました。コロナ禍は、それほどまでに人と人が会う行為を妨げていたんだなあ……とあらためて実感。

 

 手塚治虫文化賞のイベントに参加するたび手塚キャラのピンバッジをもらえます。それが毎回楽しみでして、今年はマグマ大使でした。

 

 受賞された先生がた、おめでとうございました!

行く、イノックス!

 本日(12/25)開催された競馬の大きなレース「有馬記念」で優勝した馬の名は

 

 「イクイノックス」

 

 というそうです。

 

 この名を聞いたとき、私の脳裏を『ミノタウロスの皿』がよぎりました。

 「イクイノックス」が「行く、イノックス!」というふうに脳内変換されたのです。

 

 読んだ方はご存じのとおり、『ミノタウロスの皿』の舞台となるのは「イノックス星」という遠いどこかの星。

 有馬記念の優勝馬の名を耳にして、イノックス星へ行くんだ!という強い意志を示されたような感覚になったのでした(笑)

 

 とまあ、それだけの話ですが……。

 

 当ブログではこれまで何度も『ミノタウロスの皿』に言及していますが、なかでも以下の2つのエントリで『ミノタウロスの皿』を大きくとりあげています。

 

■『ミノタウロスの皿』と『猿の惑星』『ガリヴァー旅行記』『猿婿入り』

https://koikesan.hatenablog.com/entry/20080303

 

■『ミノタウロスの皿』から感じたこと

https://koikesan.hatenablog.com/entry/20080306