藤子不二雄Aランド完結記念サイン会

 27日(土)、28日(日)と、東京へ行ってきた。最大の目的は、27日午後3時よりブックファースト渋谷店で行なわれる「藤子不二雄Aランド全149巻完結記念・藤子不二雄A先生サイン会」だった。


 例によって夜行バスで朝6時に新宿に着いた私は、待ち合わせしていた藤子ファン仲間4人と合流し、すぐに渋谷へ移動した。渋谷では、ハンバーガーショップファミリーレストランに入り、9月3日から始まる2泊3日の富山旅行の打ち合わせや諸々の藤子話をしてすごした。まんだらけ渋谷店にも寄ってみた。


 午後1時をすぎてから、サイン会が開かれるブックファースト渋谷店へ足を運ぶ。まだサイン会の会場は設営されていなかった。
 5階のコミックス売場では「藤子不二雄Aランド完結記念フェア」が開催されており、藤子不二雄Aランド全巻がずらりと陳列されていた。藤子A先生のメッセージカードやAランドのカラーパンフレットなども飾られていた。
 サイン会がはじまるまでのあいだに何人かの友人知人と会い、言葉を交わしたりもした。


 午後2時50分頃だったか、サイン会の整理券を持った人に向けて店内放送がかかり、所定の場所へ集まって整理券番号順に並ぶよう案内された。私の整理券番号は全100番中20番だった。
 今回のサイン会は、藤子不二雄Aランド全149巻のうちの1冊にサインをしてもらえることになっていた。私は、「全149巻完結記念」ということで、Aランド最終巻(VOL.149)にあたる『新プロゴルファー猿』9巻にサインをしてもらうことにした。


 サイン会がスタート。サイン会の会場は仕切り板などで一般の売場から隠され、整理券を持った人は会場が見えない階段に並ばされたため、藤子A先生が会場に入場するシーンは客の目にまったく入らなかった。
 10人単位で階段を降ろされ、サイン会の様子が見える位置へと移された。私の前に並んだ人たちが、一人一人藤子A先生にサインを書いてもらいながら言葉を交わしたりする光景を眺め、自分の順番が巡ってくるのを待った。心地よい緊張が体にみなぎる。
 私のひとつ前にいた友人の順番が済み、ついに私が藤子A先生の前に立つ番となった。私は先生に「19日は楽しいお話をありがとうございました。そしてAランド完結おめでとうございます!」と話しかけた。藤子A先生は「ありがとう」と言ってにっこりと微笑んでから、「藤子不二雄A」というサインとともに、「○○くんへ」という為書と「2005.8.27渋谷にて」という日付・場所を書いてくださった。
 藤子A先生の隣でサイン会の補助をしていた先生の秘書さんは、私の「長いあいだのAランドのお仕事、お疲れ様でした」という言葉に対し、「そちらこそ、長いあいだのおつきあい、お疲れ様でした。Aランドはまだ完結特典が残っているから終わりじゃないけど」と返してくださった。
 A先生と握手をし、サイン本を渡してもらい、私の順番は終わりとなった。サイン会ではサインをいただけるのも当然嬉しいが、A先生と握手する瞬間が最高に感激的である。先生の握手はいつも力強い。


 A先生の前を離れたあと、サイン会を見守っていた藤子スタジオのマネージャーさんやブッキングの方と挨拶をさせていただき、サイン会会場の外側へ出た。



 前述したが、今回のサイン会は、その会場が仕切り板や階段などで一般の売場から完全に隔てられており、整理券を持った人以外は中に入れない仕組みになっていた。だから、整理券は入手できなかったけれど藤子A先生の姿だけ見にきた人や、たまたま書店に居合わせた客は、藤子A先生の姿やサイン会の様子がまったく見られなかったのである。
 長年藤子A先生のイベントに通っている友人によると、A先生の書店サイン会で今回のようにサイン会の様子が一般客から見えない状態にされたのは初めてだそうだ。サインはもらえなくても藤子A先生の姿を一目見られればと会場に足を運んだ人には実に厳しく寂しい催しとなってしまった。実際に私の友人知人でそういう人がいたし、私自身、整理券が手に入らなくてもサイン会を見学に行くつもりだったので、他人事ではない。


 サイン会が終了したあとは、藤子ファン仲間で居酒屋へ行き、会話を楽しんだ。
 その夜は、横浜の友人K氏のお宅に泊めてもらった。私のほかに4人の藤子ファン仲間も一緒だった。K氏は、我々の仲間内でも最高レベルの藤子単行本コレクターで、昭和30年代の貸し本タイプ単行本や鶴書房の『最後の世界大戦』を除くすべての藤子単行本を揃えている。
 K氏は、熱狂的な藤子フィギュアコレクターでもあり、彼の2階部屋にはおびただしい数の藤子フィギュアが飾られている。プレミア価格が10万円を超えるのではというジャングル黒べえのフィギュアから、最近の食玩メディコムトイのものまで、ぎっしりと藤子キャラが並んだ光景は、いつまでも眺めていたかった。
 新たにコレクションに加えたというウメ星デンカの風鈴フィギュアは、8万6千円で購入したそうだ。




 28日(日)は、まず、「杉並アニメーションミュージアム」へおもむいた。ここは、今年3月に開館した日本のアニメーションの総合ミュージアムで、『オバQ』などの藤子マンガに登場する小池さんのモデルである鈴木伸一さんが館長を務めている。この、鈴木伸一さんが館長を務めているという事実に強く誘引されて、当ミュージアムに足を運んだのだった。
 杉並会館という建物の3階へエレベーターで昇ると、すぐにミュージアムのエントランスがある。係の人に「現在は入場無料期間中です(今年10月30日まで)」と案内され、そのまま中に入った。最初に、日本のアニメの歴史を映像や年表、グッズなどで紹介するコーナーがあり、続いて、アニメの原理やアニメができる過程を学習・体験できるスペースなどがあった。
 そのほか、簡単なアニメ制作を体験できる部屋や、アニメシアターなども設けられていた。


 藤子ファン的な見どころは、まず、エントランスのすぐ奥に見える円筒状の太い柱だ。そこに藤子A先生の直筆イラストが描かれているのである。喪黒福造が「杉並アニメーションミュージアム ドーン!」と言っているそばで、小池さんがラーメンのどんぶりを持っている、という絵柄だ。
 アニメライブラリーというスペースでは、藤子A先生のインタビュー映像が見られる。10分程度の映像だ。そこでA先生は、影響を受けた映像作品や、自身のアニメ制作体験、マンガがアニメ化されることついて、クリエーターを目指す人へのメッセージなどを語っている。
 このインタビュー映像は藤子スタジオの応接室で撮影されたもので、藤子A先生の姿の向こうで熊野神社の建物が窓越しに覗くアングルが素敵だった。
 藤子A先生以外にも、手塚治虫先生、鈴木伸一さん、富野由悠幸さんらのインタビュー映像が見られる。これらの映像は当ミュージアムのオリジナルだが、手塚先生のインタビュー映像は1986年に撮影されたものだ。



 杉並アニメーションミュージアムを出ると、江東区森下文化センターへ移動した。ここの1階展示ロビーで8月4日から30日まで「永田竹丸まんが展」が開催されており、それを見学に行ったのだ。
 永田竹丸さんといえば、藤子両先生も参加した第1次新漫画党のメンバーであり、当時の藤子A先生の遊び仲間であった。1968年には藤子スタジオに入社し、1973年まで藤子先生の仕事のサポートをしていたこともある。個人的に最も思い出深い永田作品は、中日新聞に連載された『キャラとメル』だ。


 同展では、永田竹丸さんの作品原画を中心に、作品掲載雑誌や交遊関係のあったマンガ家の資料などが展示されている。永田さんの著作本を読めるスペースもあった。永田竹丸さんの原画は丁寧に誠実にやわらかく描かれており、見ていてほっと安心できる。大ヒット作には恵まれなかったが、新漫画党時代の児童マンガの理念をずっと貫いてきた良心的なマンガ家だと感じた。


 藤子ファンである私から見た同展のポイントは以下のようなものだ。


・藤子両先生を含む新漫画党メンバーによる合作『漫画図鑑』のカラー原画。
・藤子・F先生や藤子A先生が永田さんに出した私信ハガキ。昭和29年頃のもの。
・新漫画党のメンバーが写った写真。
・永田さんが、藤子A先生とハイキングに行ったエピソードを語る映像。
藤子不二雄Aランド『まんが道』全23巻を自由に読めるコーナー。
藤子不二雄A先生と藤子・F・不二雄プロから贈られた、同展開催をお祝いする花。
永田竹丸著『まんが横丁の住人たち』の出版記念パーティー藤子・F・不二雄先生がスピーチをする映像。(私はその場面を見られなかった)
・新漫画党の会報「ながれ」創刊号。昭和30年9月1日発行。ガリ版刷り、わら半紙一枚の会報で、新漫画党(第1次)結成1周年の時期に出されたもの。藤本弘名義の「貧漫画党行状記」、安孫子素雄名義の「小説 感傷病患者(1)」という短文が掲載されている。「貧漫画党行状記」は、昭和29年春頃新漫画党結成の動きが見え、7月9日に会名決定、7月24日に会員初顔合わせ…といったふうに新漫画党結成の経緯などを書いている。「小説 感傷病患者(1)」は、藤子A先生自身をモデルにした青春小説。連載小説らしい。