ちばてつや先生の公開講座(大垣女子短大)

 25日(水)、『あしたのジョー』『ハリスの旋風』『あした天気になあれ』『のたり松太郎』など数々の名作を世に送りだした漫画界の重鎮ちばてつや先生の講義を聴講してきました。場所は、岐阜県の大垣女子短大。この学校は、毎年一度この時期に大物漫画家の公開講座を開いていて、その日だけは我々一般人も短大生にまじって講義を受けられるのです。昨年は『ルパン三世』のモンキー・パンチ先生、一昨年まではずっと藤子不二雄A先生が講師を担当し、今年はちばてつや先生に白羽の矢が立ったのでした。私は、2002年から毎年聴講しています。
 大垣女子短大がこうした大物漫画家を呼べるのは、同短大で教授をなさっている篠田英男先生の交友関係の賜物でしょう。ちば先生と篠田教授は同じ年の生まれで、昭和30年代から草野球などで交流があったそうです。その交流の輪の中には藤子不二雄A先生もいらっしゃいました。


 私は、懐かしの漫画仲間Tさん、Mさんと名鉄岐阜駅で待ち合わせをし、Mさん運転の車で大垣女子短大へ向かいました。途中、大垣のラーメン屋でMさんから藤子A先生関係の資料を見せてもらいました。その資料の中で特に凄かったのは、藤子A先生が昭和34年から35年にかけて雑誌「少年」に連載した『怪人二十面相』(原作:江戸川乱歩)の映写機用フィルムのコピーでした。昭和30年代にシネコルトやシネロケットといった玩具の映写機が売られていて、その映写機のために光成社というところから『月光仮面』『赤胴鈴之助』『鉄腕アトム』『遊星王子』など人気漫画・人気テレビ番組のフィルムが発売されていたのですが、その中のひとつに藤子A先生の『怪人二十面相』も含まれていたのです。とても貴重なものを見せてもらいました。


 
 大垣女子短大に着くと、毎年この公開講座でお会いするYさん、Fさんとも合流。今回初めてお会いした某NPO法人専務理事のIさんは非常に明るくて気さくな女性で、すぐに親しくなりました。彼女の団体が主催するアニメ関係のイベントにも参加させてもらえそうで、今からとても楽しみです。
 そんな面々とともに、ちばてつや先生が大垣女子短大入りするのを校門近辺で待ちかまえました。ちば先生を乗せたタクシーが到着。関東から同行してきた篠田英男教授、続いて本日の主役ちばてつや先生が降りてきました。あたりにオーラが漂います。そこへ我々が近づくと、篠田教授がその場にいる一人一人をちば先生に紹介してくださいました。篠田先生は、私の顔は知っていても名前をご存じではなく「え〜っと、きみの名前は?」と尋ねてこられました。私が「koikesan(実際は私の本名)です」と答えたら、篠田先生は改めてちば先生に「koikesanさんです」と紹介してくださったのです。ほんのわずかなやりとりでしたが、ちば先生とちょっとだけでも接触できて感激でした。



 公開講座の演題は「デビューから今日まで ボクのまんが記」。我々は、300人ほどの聴講者で埋まったG401教室の一番前の席に座りました。
 ちばてつや先生が教室に登場すると、聴講者から大きな拍手が沸き起こります。篠田教授から簡単な紹介があって、ちば先生の講義に入りました。ちば先生の誠実なお人柄そのままの丁寧な話し方で、聴く側も自然と真剣に耳を傾けてしまいます。
 全部で100分ほどのちば先生の講演から、私の印象に残った言葉を記そうと思います。(ちば先生の言葉は私がかなり要約しています)



■あいさつ
『今日はお招きいただいてありがとうございます。きれいな生徒さんばかりの前で話ができてうれしいです。篠田教授とは「しのちゃん」「てっちゃん」と呼び合う仲なんです(笑) 草野球でキャッチャーのポジションを争って2人とも外されたことがあります(笑)』
 講演が苦手だとおっしゃるちば先生ですが、ユーモアをまじえたあいさつで場を和ませる話術はさすがです。「2人とも外されたことがあります」というところで場内から笑いが発生しました。


■子どもの頃、デビューの頃
『僕は中国からの引揚者です。(このあと、引揚者とは何かを学生に説明) 日本で生まれたんですが、すぐに中国へわたり6歳まで向こうにいました。マイナス20度にもなる地域で、部屋の中で本を読んだり、父がやっていた印刷所で余った紙に絵を描いたりしてすごしました。戦争が終わって帰国したのです』
『母はごちゃごちゃ文句を言う人で、漫画は書物ではない、漫画を読むと馬鹿になるという考え方をしていました。ですから、家には漫画は一冊もありませんでした。たまに貸本屋で漫画を借りてくるとひどく怒られました』
『キウチヒロシくんという友達の家へ遊びに行ったとき、彼が描いた肉筆漫画誌「漫画クラブ」を見せてもらいました。それを見て、「漫画ってすごい」と思いました。キウチくんが「ちばくんも漫画を描いてみないか」とすすめてくれたのです』
『高2のある日、新聞の3行広告で神田の出版社が児童漫画家を募集しているのを見つけました。漫画の正しい描き方を知らなかった僕が鉛筆や色鉛筆、クレヨンなどで描いた原稿を持っていくと、「漫画は付けペンで描くんだ」と教えてくれました。次に30ページ描いてきてくれ、その続きをまた30ページ… という感じで最終的に全128ページの作品を描きあげました。プロの漫画家という職業があることを知らなかったので、この作品が見染められればその出版社に就職できて、カットや漫画を描く部署に配属されるんだと思いこんでいたのです。なのに、128ページ描きあげたところで突然原稿料を渡されて驚きました。12351円でした。当時の描き下ろし単行本1冊の原稿料相場は2万から2万5千円くらいだったので僕は安かったんですが、そんなことは知らないのでウハウハでした。原稿料を手にして家へ帰ると「人様のお金に手を出して!」と母にこっぴどく叱られました。しかし、ちゃんと事情を話したら、お金の半分は家に入れてもう半分は漫画を描く道具に使いなさい、ということで母の理解を得られたのです。プロになろうと思いました。それ以降、「漫画を読んだら馬鹿になる」と漫画を嫌っていた母の態度がガラッと変わって、僕が机に向かって漫画を描いていると、後ろからうちわであおいでくれたりするようになりました(笑) 12351円の原稿料をもらった作品は、デビュー作「復讐のせむし男」です。』

 ちば先生の少年時代は、お母さんの漫画嫌いもあって漫画環境に恵まれていたとはいえず、プロの漫画家という職業があることも知らないまま、いつのまにかプロの漫画家になる方向へ歩んでいたという感じでしょうか。漫画のない家庭で育ちながらも家にこもってお父さんの印刷工場で余った紙に絵をよく描いていたという原体験が、ちば先生の漫画精神の基盤になったんだなあと感じました。私はどうしても手塚先生や藤子先生と比較してしまうのですが、ちば先生の少年時代は、漫画がたくさんある家庭で育った手塚先生や、10代で手塚漫画に夢中になってプロの漫画家を目指し上京した藤子先生とはかなり対照的な印象を受けます。



 このあとからは、あらかじめ学生さんから寄せられた質問、あるいは篠田教授からの質問に、ちば先生が答えていく形式になりました。


■子どものころ手塚漫画は読んだか?
『家に漫画はありませんでしたが、友達のキウチくんの家で手塚漫画を見ました。僕は、馬場のぼる古沢日出夫が好きでした。最も好きで影響を受けたのは、絵物語作家の山川惣治でした。「少年王者」や「少年ケニヤ」などの作者です。当時は山川惣治派と小松崎茂派に分かれていて、僕は山川派だったのです』 
 ちば先生は、コロコロしたかわいらしい絵よりも、ちょっとリアルな絵が好きだったそうです。梶原一騎が少年時代に山川惣治の『ノックアウトQ』を読んで感銘を受けたことが『あしたのジョー』の原作を引き受ける動機になったという話もあるので、『あしたのジョー』は山川惣治の影響を強く受けた2人の作者によって生み出された作品なのだなあ、と私はしみじみ感じ入ったのでした。


■使っているペンは?
『いま使っているのはGペンです。力の入れ具合で太い線を引けたり、丸ペンより細い線を引けたりします。使い込んでいくとGペンは開き気味になるので、そうなると太い線用に使います。おろしたてのGペン、ちょっと使い込んだGペン、かなり使い込んだGペン、開いてしまったGペン、と用途に応じてだいたい4つの状態を使い分けています』


■漫画家にとって大切なものは何でしょうか?
『根気、忍耐力、体力、持続力… マンガはガマンです。読むのは簡単。だけど描くのは我慢を強いられる。実際に原稿用紙に絵を描くまでの段階で、ものすごく時間がかかるのです。構成とか演出の部分ですね。それがよくできていれば、絵が少々荒れていても作品は面白いんです。構成(ネーム)と実際に原稿用紙に絵を描く時間配分はだいたい3:1くらい。構成と原稿執筆を同時にやれてしまうような人、たとえば手塚治虫石ノ森章太郎なんて人がいますが、彼らは天才だから特別なんです。真似できません。アイデアは、机に向かっていると頭が熟して生まれてきます。2〜30分ではなく、何時間も机に向かってようやく熟してくるのです』
 藤子A先生は、昭和40年代前半の『フータくん』連載中からネームを作らず、A先生本人も続きが分からないまま原稿用紙の1枚目から直接下描きを入れていくというアドリブ的な執筆方法をとっているので、ネームに時間と労力を割くちば先生とは対極的な感じですね。逆に、藤子F先生は構成を重んじるタイプだったので、ちば先生に近そうです。


■ストーリーの組み立て方は?
『わかりやすく端的に言うと、短編作品はストーリーやテーマを立ててからキャラクター作りをし、長編は「こういう人間を描きたい」というところから始めて時代設定や人間関係などを考えていきます』


ちばてつやのBL論?
 ちば先生が話の流れの中で「スポーツ、SF、恋愛…」などと漫画のジャンルを羅列していったとき「BL」という言葉が出てきました。その瞬間、それまで静かに聴講していた学生たちが大きくざわめいたのです。ちば先生の口から「BL」という言葉が出たことの意外さとともに、学生たちのBLというジャンルへの関心の高さがこのざわめきを生んだのでしょう。ちば先生はそのざわめきに反応して、BLについて話しはじめました。
『BLは、それはそれでひとつの人間表現だと思います。恋をするのに男も女も関係ありません。僕が教えている文星芸術大学の学生にもBLの好きな生徒がいて、とてもきれいな世界を描いています。授業中に、いま描いている作品をちょっと見せてくれと言うと、「あっちへ行って」と追い払われるんですが(笑)』


力石徹にモデルはあったのか?
『「あしたのジョー」は僕が27歳から32歳のとき描いた作品です。もう40年も前のことです… 力石徹にモデルはいます。歴史上、実在した人物です。フランス人です…』

 そう言ってちば先生がスクリーンに映し出したのがナポレオンの肖像画でした。会場内はこの日最大のどよめき。ナポレオンのわしっ鼻やあごのしゃくれ方、もみあげなどが、ちば先生の力石へのイメージと合わさって、あの力石の顔ができあがったということです。


■弟・ちばあきおとの関係
『あきおは20年以上前に早逝しました。中国で生まれ、小さなときから体が弱かった。成長してからも体が弱いままで、膵臓をやられて家で療養しながら僕の仕事を手伝ってくれていました。黒く塗ってくれとか点々をうってくれとか頼んでいました。あきおは手先が器用だったんです。それで編集者に勧められて短編を描くことになりました。3〜4ヵ月かかってようやく20ページの作品ができあがりました。たいへん苦しんで描いたので、あきおはがりがりにやせてしまいました。こんなに苦労するんじゃ漫画家には向いてないなあと思ったのですが、その短編が掲載誌の人気投票で3位になり、また作品を描いてくれということになったのです。そうやって、あきおはプロになりましたが、ずっと苦しんで描いていました。その苦しみを思うと、あきおを漫画の世界に引き込んで悪かったという気持ちにもなりますが、あきおの描いた作品は彼が亡くなってからも愛され続けています。あきおが亡くなっても作品は生きているのです。だから、やっぱりあきおは漫画家になってよかったんだと思うのです』

 この話を聞いて私は本当に涙ぐんでしまいました。私もちばあきお作品が大好きで『キャプテン』『プレイボール』『ふしぎトーボくん』でどれほど心を揺さぶられたことか。そんな私自身のあきお先生への思いが、ちばてつや先生のあきお先生に対する深い思いと重なり合い響き合ってジーンとしてしまったのです。



 講義の最後には、ちば先生が絵を描いてみせてくれました。ちば作品のキャラクターを描くのかと思いきや、まん丸な目玉にまん丸い鼻を描きだしたので「えっ、なんだろう?」と意表を突かれました。それがなんと赤塚不二夫先生のニャロメだったのです。これにはびっくり。ちばてつや先生のニャロメだなんて、ものすごく貴重ではないでしょうか。そうやって聴講者を驚かせたあと、今度は順当に矢吹丈を描いてくださったのでした。



 公開講座終了後には、この短大で非常勤講師をされている長谷邦夫先生が我々にお付き合いくださるということで、大垣駅前へ移動して喫茶店で漫画談義を楽しみました。夜になって、長谷先生、Yさん、私の3人で居酒屋へ入りビールで乾杯。このときのビールのうまさといったらありませんでした! 
 長谷先生は、言うまでもなく長年のあいだマンガ業界に身を置かれ、漫画家、赤塚先生のブレーン、漫画研究、講師などで活躍してこられた方ですし、Yさんも漫画業界に知人が多くその領域の話題に精通しておられるので、一般メディアではなかなか聴けないような裏話や秘話や水面下で動いている話などをいろいろと聴かせてくださいました。おかげで漫画好きの私にはたまらない濃密な時間となったのです。
 現在の漫画でこれは面白いという作品を長谷先生とYさんにお尋ねしたら、両者が一致して評価した作品が柴田ヨクサルさんの将棋マンガ『ハチワンダイバー』でした。