モンキー・パンチ先生公開講座


 27日(水)、岐阜県の大垣女子短大でマンガをテーマにした公開講座が開講された。同短大は、毎年一度この時期にマンガの公開講座を開いていて、昨年まではずっと藤子不二雄A先生が講師を担当していた。ところが、昨年の講座のなかで藤子A先生は「大垣へくるのは今年で最後にしたいと思います」と宣言。半分ご冗談かと思っていたが、先月になって今年の講師がモンキー・パンチ先生だと発表されたとき、やっぱりA先生は本当に辞められてしまったんだと寂しい気持ちになった。
 だが、モンキー・パンチ先生が隣県の岐阜にやってきて講演をするとなればぜひ聴講したいと思ったし、個人的に毎年大垣女子短大へ行くのが恒例になっていることもあるので、今年も公開講座に出席することにした。


 当ブログは「藤子不二雄」をテーマにしているため、今回の公開講座のレポートをここで発表するか迷ったのだが、昨年まで藤子不二雄A先生が担当していた行事であるし、モンキー・パンチ先生の講演のなかに「藤子不二雄」という言葉が一度だけ出てきたので、それを根拠にしてこの場でレポートさせていただくことにした。

 モンキー・パンチ先生といえば、やはりどうしても『ルパン三世』を思い出さずにはいられない。少年の頃、アニメの『ルパン三世』に慣れた目でモンキー・パンチ先生の描く『ルパン三世』を読んだとき、その残酷さやアダルトな雰囲気や独特の画風に違和感を覚えてしまった。たしか、双葉社のパワーコミックスで読んだと思う。しかし、いま改めて読んでみると、大人のコクやブラックユーモアのセンスや気のきいたオチなどを楽しめる、シャレたマンガに感じられるのだ。
 今回一緒に受講した藤子ファン仲間のNさんは、モンキー・パンチ先生の単行本をたくさん持っているモンキー・パンチファンでもある。講座がはじまる前、彼とモンキー・パンチ作品の魅力について語り合ったら、結末の意外性・どんでん返しというところで意見が一致した。

 
 大垣女子短大に着くと、校門前にしのだひでお先生が立っていたので挨拶をした。どうやら、もうすぐ到着するモンキー・パンチ先生をお出迎えしようと立っておられるようだった。我々もそこでモンキー・パンチ先生が到着するのを待った。
 しのだひでお先生といえば、最近発売されたばかりの「熱血!!コロコロ伝説」Vol.2に再録された『ドラQパーマン』の執筆者だ。このタイミングでご本人にお会いできたのも何かの縁だなぁと勝手に思って喜びをかみしめたw (『ドラQパーマン』は、ネームを藤子F先生、作画をしのだ先生が担当)


 校門前に黒っぽい高級車が止まり、後部座席からモンキー・パンチ先生が降りてきた。数年前に一度実物を拝見したことがあったのだが、こんなに近くで目撃することができて感激だ。
 講座の会場となったのは、同短大G号館の401教室。演題は「漫画は活きもの」。この講座は、同短大デザイン美術家マンガコース専攻の学生たちが受ける授業の一環でもあって、200人を超える聴講者の9割は女子短大生という、恵まれているのか肩身が狭いのか分からない環境下で受講することになった(笑)
 モンキー・パンチ先生が教室に登場すると、聴講者から大きな拍手が起こった。学生のなかには「キャー!」と歓声をあげる人も。おそらく彼女らの多くはモンキー・パンチ先生のマンガを直接読んだことがないと思うのだが、アニメ『ルパン三世』の原作者として憧れを抱いているのだろう。



 モンキー・パンチ先生は、予定時間をオーバーするほどたっぷりとお話をされた。そのなかから、特に印象に残ったお話を、自分の備忘も兼ねて紹介したい。


●「モンキー・パンチ」というペンネームは出版社の人に付けられた。とても嫌だった。「どうしてこんなカッコ悪い名前をつけるんだろう」と思った。ずいぶん抵抗したが、出版社から「どうしても嫌なら1年間だけ我慢して使ってくれ」と頼まれた。このペンネームは、外国人だか日本人だか分からぬように、という目的で付けられた。


●一番はじめに読んだマンガは『のらくろ』、それから『冒険ダン吉』『フクちゃん』と続いた。


●我々の世代は、藤子不二雄さんや石森章太郎さんや赤塚不二夫さんがそうだったように、手塚治虫先生にものすごく憧れた。手塚マンガの模写をしてマンガの絵を習得していった。しかし貸本劇画の仕事をするようになって、出版社から「こんな絵じゃ劇画は描けないよ」と言われた。お手本としてさいとう・たかを先生や白土三平先生の作品を渡されたので、それを一生懸命模写した。
 その後、アメリカの雑誌「MAD」に載ったマンガに惹かれ、徹底的に模写した。今に連なるモンキー・パンチらしい絵のスタイルは、この「MAD」の模写によって確立した。


●女性の絵を描くのが苦手だった。そこで美大を目指す人が通う予備校みたいなところで絵の勉強をした。主にクロッキーを学んだ。それでようやく女性を描けるようになり、「週刊漫画アクション」の表紙を担当させてもらえるようになった。同誌の表紙の仕事は10年間ほど続いた。


●漫画家になる前によく読んだ小説は『怪人二十面相』『アルセーヌ・ルパン』『シャーロック・ホームズ』『モンテ・クリスト伯』『西遊記』『ダルタニアン物語』『千夜一夜物語』。
ルパン三世』は、これらの小説を一緒くたにして出来上がっている。たとえば、峰不二子のモデルは『ダルタニアン物語』のミレディという女性だ。


●北海道から上京して手塚先生のアシスタントになろうと手塚先生のお宅へ向かったが、先生のお宅がまるで宮殿のように見え、恐れをなして帰ってしまった。だから弟子にはなれなかった。
 アニメの『鉄腕アトム』が始まったころ、今度はアニメーターの採用試験を受けに行った。木の葉が落ちる様子をアニメにする、という試験だった。結果、合格した。しかし給料がいくらか訊いたら、そのとき働いていた小出版社の給料の半分しかなかった。それだと家賃だけで全額なくなってしまい生活ができなくなるので、アニメーターを断念した。


●手塚先生とアメリカ旅行に行ったことがある。手塚先生は、ドナルドダックのマンガを描いたカール・バークスに憧れていた。
 手塚先生と一緒にドナルドダックの初版本を探して漫画専門の書店を巡った。ようやく発見したが、値段が日本円にして30万円もした。手塚先生は持ち合わせがなかったが、日本から送金するからと約束してその本を購入。


●『ルパン三世』を始めるさい、著作権のことが気になった。当初は周囲からルパンと呼ばれている謎の男という設定でいこうと考えていたが、編集者から「そんな曖昧な設定じゃなく、アルセーヌ・ルパンの孫ということにしなさい」と指示された。それに対して僕は、「そんなことをしたら、『アルセーヌ・ルパン』を書いたモーリス・ルブランの遺族から訴えられるんじゃないか」と抵抗した。すると編集者は、「このマンガがフランスに知られるくらい人気が出ると思っているのか! よけいな心配をするな!!」と言ってきた。
 ところが、幸か不幸か『ルパン三世』は海外でも知られるほど人気が出て、ルブランの孫から訴えられることになってしまった。裁判になって最終的には著作権侵害に当たらないと判決が下された。法律的には大丈夫だったが、フランスではルブランに敬意を表して『ルパン三世』というタイトルは使われていない。ほかの国では『ルパン三世』というタイトルをその国の言葉に翻訳して使っているが。
 のちに、僕がルブランの孫に会いに行こうとしたが、止められた。


宮崎駿監督の映画作品のなかでは『ルパン三世 カリオストロの城』が一番好きだ。ひいき目に見てしまってるかもしれないが、公平に見ても一番だ。宮崎監督にはまた『ルパン三世』の映画を作ってもらいたい。


●アニメ『ルパン三世』のルパンの声といえば山田康雄さん、そして栗田貫一さんだが、放送が始まる前の2本のパイロットフィルムでは、野沢那智さんと広川太一郎さんが声をつとめていた。そのパイロットフィルムの出来が良くて気に入っている。


●アニメ『ルパン三世』の第一シリーズでルパンのジャケットが赤ではなく青だったのは、当時のテレビのブラウン管は赤の発色が一番悪かったから。その後、赤も綺麗に出せるようになったので第二シリーズからは赤になった。


●数年前、憧れのハンナ・バーベラに会いに行った。ハンナとバーベラは、アニメ『トムとジェリー』を作った人物で、「ハンナ・バーベラ・プロダクション」というアニメ制作会社を設立し、数々のアニメ作品を世に送り出した。そんなハンナとバーベラに描いてもらった直筆サインとイラストは僕のお宝である。



 講座が終わって、聴講者のほとんどが出て行ってしまったあと、まだ教室内に残っておられたモンキー・パンチ先生に握手を求めたら、快く応じてくださった。「いいお話をありがとうございました」と頭を下げたら、先生まで頭を下げられたので恐縮。その後Nさんたちも握手してもらっていた。それを見ていたしのだひでお先生は、持ち前のしのだ節を発揮して、「男同士で握手なんて気色わりぃなあ〜」と愛情あるツッコミをくださった(笑) 「コロコロコミック」の「藤子不二雄のまんが入門」塾頭時代も、投稿者に対して愛のある厳しい指導をされていたが、実際にお会いしてもそのままのキャラクターだったので、お会いするたびに惚れ惚れとしてしまう(笑)


※写真は、当講座の模様を報じる新聞記事(「岐阜新聞」6月28日付)。岐阜のMさんから送っていただいた。Mさん、ありがとうございます!