「視覚の魔術 だまし絵展」

 名古屋市美術館で6月7日まで開催中の「視覚の魔術 だまし絵展」へ行ってきました。
 
 http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2009/damashie/


 だまし絵って非常に魅力的なジャンルです。美術への造詣が深くなくても、純粋に心躍らせながら楽しんで鑑賞できます。だまし絵の画家たちも、一部の専門家や業界の権威者に理解されればそれでよいなんて考えでは描いておらず、見る者を驚かせたい、面白がらせたい、不思議がらせたいという気持ちでいっぱいだったと思うのです。
 美術館のなかに足を踏み入れれば、そこは絵画によるイリュージョンの世界。手品を見るような、ドッキリを仕掛けられたような、パズルを解くような気分で順路を歩けます。かなり混雑していたので、スムーズには歩けませんでしたが^^


 絵のなかの子どもが額縁に手と足をかけて今にも外側へ飛び出してきそうな絵、壁のフックに何もかかっていないのにかけられた物の影だけが残って見える絵、真正面から見たら何が書いてあるかわからないのに斜めから見ると人の姿が浮かびあがる絵、普通に見たら全く不可解な抽象画なのに中央に円筒形の鏡を置いて見ると何が描いてあるか認識できる絵、右から見たら2人の男が描かれているのに左から見たら1人に変わる絵、額縁とカンバスが途中から美術館の壁にめりこんでいってるように見える絵など、次から次へと楽しい驚きを味わえました。


 絵のなかの子どもが額縁に手と足をかけて外へ出ようとしている絵は、ペレ・ボレル・デル・カソの『非難を逃れて』(1874年 油彩・キャンヴァス)という作品です。
 
 この絵を眺めていると、マンガのキャラクターがコマの枠線を破って外へ飛び出す場面を思い出します。手塚マンガなどでよく見かけます。絵に描かれた人物が、その絵のフレーム(絵画の場合は額縁、マンガの場合はコマの枠線)の存在を認識してその枠外へ出ようとしている点で共通性があると思うのです。
 マンガのフレームといえば、マンガ評論家・伊藤剛さんが著書『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版、2005年)で「フレームの不確定性」という概念を提示して論じていますね。マンガのフレームというと、いま私が触れたように、まずコマの枠線が意識されます。しかしマンガのフレームというのは「コマ」だけに固定されず、そのマンガを掲載した本のページの物理的な外周もまたフレームとして機能するのです。伊藤さんは、ページの外周のことを「紙面」という語で呼んでいます。
 マンガのフレームは、「コマ」と「紙面」のどちらかに完全に固定されてしまうものではなく、読者の視線によってその都度「コマ」に行ったり「紙面」に行ったりして一義的に決定できません。そのことが、フレームの固定された映画や絵画とマンガとの決定的な差異であり、そうしたマンガならではの特性を「フレームの不確定性」と呼ぶわけです。



「だまし絵展」の話に戻りますが、同展には「20世紀の巨匠たち マグリット・ダリ・エッシャー」というコーナーもありました。彼らの絵は、不思議かつ不可解な世界でありながら、ある種の親しみを感じさせてくれます。そして、絵を見ることに夢中にさせてくれる吸引力が強いです。
 エッシャーの描く遠近の狂った建造物なんて、とてもなじみ深いものなのですが、何度見ても新鮮なくらい不思議な感覚を与えてくれます。絵で描けば実在感のあるリアルな建造物なのに、よく見れば見るほど現実には絶対ありえない構造をしていて、そのありえない構造に気づくたびにめまいのような感覚をおぼえます。奥の柱が手前に来ていたり、滝から落ちて下っていくはずの水がなぜか滝の上に戻ってきたり、見下ろす視点と仰ぎ見る視点が混在したり… そうした遠近のマジック、視覚の詐術とでも言うべき世界が実に面白いのです。
 そして、マグリットといえば即座に藤子不二雄A先生を思い出します。私にマグリットの存在を教えてくれたのが、A先生の描いたブラック短編『マグリットの石』なのです。『マグリットの石』のほかにも、『魔太郎がくる!!』『マボロシ太夫』『ウルトラB』などいくつもの藤子A作品でマグリットネタが見られます。2002年9月7日には、同じ名古屋市美術館にて、A先生を講師に迎えたマグリット展記念講演会「マグリットの石」が開かれ、私も聴講しました。もちろん「マグリット展」そのものも観覧しました。そのときのことは、当ブログでレポしています。
 ■「マグリット展記念講演会」
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20060406


 A先生はマグリットに限らずだまし絵的な作品全般に興味を持っておいでで、先生が虫プロ商事のコミック雑誌「COM」に連載した『マンガニカ』(1967〜71年)でも、だまし絵、ひずみ絵、かくし絵、幻想画といったものをテーマにとりあげています。ある回では、作家で仏文学者の澁澤龍彥の著作『幻想の画廊から』(美術出版、1967年)より、ハンス・ホルバインのだまし絵『大使たち』や、エルハルト・シェーンのひずみ絵『四人の王の肖像』を紹介していますし、別の回では、リヒアルト・エルシエの幻想画『期待』を模写して解説しています。私は、澁澤龍彥の『幻想の画廊から』を河出文庫版で持っていますが、この書物はA先生の不思議絵に対する興味を強く刺激した重要な一冊ではないかと思います。



 伝統的で本来的なだまし絵は“トロンプルイユ”と言われ、これは、本物そっくりに描かれた絵を部屋などに掲示することで、あたかも実物がそこにあるかのように見誤らせる絵画のことです。額縁に絵がはめ込まれているかと思ってよく見たら額縁も絵で描かれたものだったとか、木目の壁に絵が貼られているように見えるが実は壁も絵だったとか、棚にたくさんの物が置かれていると思って近づいたら棚も物も全てが絵だったとか、そういった作品のことで、今回の展覧会でも数多く展示されていました。
 トロンプルイユの精神で大事なのは、人をだますといっても、ずっとだまし続けるのが目的ではないことです。だますのは一瞬のことだったり、だますふりをしているだけだったりして、だますことを狙いとしながら結果的にだまさないという逆説的なところにポイントがあるのです。
 そんなトロンプルイユを鑑賞していて思い出したのが、私が子どものころ熱中して集めていた「どっきりシール」です。「天使vs悪魔シール」で一世を風靡したロッテのビックリマンチョコは、今でもコレクターなどのあいだで人気の高いアイテムですが、「天使vs悪魔シール」より前にも、「ウッシッシール」「ジョーダンシール」「まじゃりんこシール」など様々なシリーズがありました。そんなビックリマンチョコの初代シリーズが、昭和52年から発売された「どっきりシール」でした。
 当時小学生だった私は、この「どっきりシール」を夢中になって集めていました。私にとってビックリマンといえば「どっきりシール」なのです。どっきりシールは、日用雑貨や文房具、食べ物、生き物などをリアルなイラストで表現していて、そのシールを意外なところに貼ることで、「あれ、なんでこんなところにこんな物が!?」と見た人をびっくりさせるのです。本物かと見紛うほど精巧に描かれたイラストがとても魅力的で、そこに描かれた物が見慣れた日常品であればあるほど愛着がわいたものです。
 そんなどっきりシールに、私はトロンプルイユと通底する遊び心を感じたわけです。
 

 どっきりシールは、全部で126種類出たようですが、私の実家に残っていたのはそのうち95種。そのなかから、いくつかを紹介しましょう。(平成15年にどっきりシールの復刻版が発売されましたが、このときは全126種のうちから30種がセレクトされ、そのうえで18種の新作が作られたようです)
 
・No.4「10円投入口」 家のテレビに貼っておくと、「いつのまにウチのテレビは有料になったんだ!?」と家族にびっくりされるかもしれません。清涼飲料水の自動販売機に貼れば、ジュースを買おうとした人が「えっ? 10円!? 安っ!」と一瞬だけ感嘆するかも。
・No.8「キスマーク」 シールの裏に遊び方の一例として「お父さんのワイシャツに貼ろう」なんて書かれていますが、本当にそんないたずらをすると「子どもがそんなことするもんじゃない!」と真面目に叱られそうです。
 
・No.13「画びょう」 これは実際に家の廊下に貼って遊びました。
・No.14「たばこのすいがら」 家族にタバコを吸う人がいないのに何でここに吸殻が?と、家庭に疑惑の渦が巻き起こるかも。
 
・No.53「うめぼし」 梅干のしわの一つ一つまで入念に描かれていて、見ているだけで口の中に唾液がわいてきそう。
・No.84「コンセント」 壁に貼っておくと、自分で貼ったことも忘れて、ついうっかりここにプラグを差し込もうとしてしまいそうです(笑)



 最後はどっきりシールの話になってしまいましたが、この「だまし絵展」は、名古屋市美術館の次に、東京のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されます。(6月13日より)
 http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/09_damashie/index.html