『丸出だめ夫』の森田拳次先生に居酒屋インタビュー

 昨年のことになりますが、12月18日(月)横浜で森田拳次先生とお会いしてきました。
 
 ・横浜駅


 友人が取材のため森田先生に居酒屋インタビューするということで、補佐として参加させてもらったのです^^


 森田先生は、『丸出だめ夫』『ロボタン』という大ヒットギャグマンガをはじめ、『珍豪ムチャ兵衛』『奇僧天外』『ズーズーC』など少年向けギャグマンガで一世を風靡した巨匠漫画家です。1970年にそうしたお仕事をすべて整理して単身渡米、ひとコママンガを専門とするようになります。帰国後もずっとその世界のスペシャリストとして活躍されつづけています。
 私の森田作品との出会いは、『丸出だめ夫』を小学生のころ講談社コミックスで読んだのが最初だった、と記憶しています。
 藤子ファン目線で見れば、1960年代、「週刊少年サンデー」連載の赤塚不二夫『おそ松くん』、藤子不二雄オバケのQ太郎』というツートップのギャグマンガに対抗する作品として「週刊少年マガジン」で『丸出だめ夫』を大ヒットさせた漫画家として強く印象に刻まれています。ヒットの規模やギャグマンガというジャンルの確立に貢献したという点から見ても、この3作が、昭和30年代の終わりから40年代はじめにかけての週刊少年誌におけるメジャーギャグマンガ御三家だったといえるでしょう。


 森田先生とは横浜市内の某駅の改札で待合わせをし、行きつけの居酒屋に案内していただきました。そこで1時間半ほどお話を聞かせていただいたあと、別の居酒屋へ移動、夜の10時半ごろまでたっぷりとお酒を飲みつつ楽しい時間をすごさせていただきました。
 森田先生は、とても気さくで茶っけのある方でした。面白いお話を次から次へと聞かせてくださって、こちらは感激したり驚いたり笑ったり。
 森田先生の作品や経歴、ギャグマンガ観などはもちろん、赤塚不二夫藤子不二雄といった当時ライバルと目されていた漫画家への思いや、弟子のジョージ秋山のことなど、いろいろな漫画家さんのお話を聞かせてくださいました。


 取材テーマとの関係で赤塚先生との交遊のお話が中心でした。ユカイな話からちょっとアブナイ話まで盛りだくさん(笑) 森田先生は、赤塚先生の本質は満州ですごした幼少年期にある、と考えておられるようでした。
 児童漫画を生涯第一線で描きつづけた藤子・F・不二雄先生のことを「天才」と評価されていたのは藤子ファンとして純粋にうれしかったです。


 私が小学生のころ大好きで読んでいた山根あおおに先生の『名たんていカゲマン』のタイトルを森田先生が考案した、というお話も印象的でした。森田先生は、こうしたネーミングがお得意で、ご自分の作品を描く際もまずタイトルから考えるそうです。タイトルが決まれば、アイデアがどんどん出てくるとのこと。
 ジョージ秋山先生の『ザ・ムーン』は、森田先生のアシスタントだった頃すでに構想が練られていた、というお話も興味深かったです。森田先生は『丸出だめ夫』で第5回講談社児童まんが賞を受賞されたのですが、弟子のジョージ秋山先生も第9回の同賞を『パットマンX』で受賞されており、そのことがうれしかったそうです。


 
 
 講談社コミックス『丸出だめ夫』2巻にサインをいただきました!
 ほんとうは1巻を持参したかったのですが部屋から発掘できなかったため2巻を持参。初版で汚れ気味の本だったのですが、快く丸出だめ夫とサインを描いてくださって感謝感激です。
 お酒がたくさん入って酩酊状態で描かれた絵とサインです^^


 
 この写真からもうかがえるとおり、森田先生は朗らかで愛嬌のある方でした。洗練されたユーモアと下町的な気さくさをお持ちで、漫画界の巨匠でありながら親しげにお話してくださって非常にありがたかったです。



 
 後日、森田先生から直筆色紙を送っていただきました。丸出だめ夫と、その父、そしてボロットを描いてくださっています。私はだめ夫の父の「丸出はげ照」という名前が妙に好きなんです。森田先生とお会いしたさいも、そのことをお伝えしました^^
「自己より大なる敵はなし」という言葉は身につまされます。
 森田先生は中国へ行ったとき丸出だめ夫を描いたりすると、のび太とよく間違われるそうです。丸出だめ夫のほうが、マンガの連載は6年ほど先なんですがね…(笑)



 森田先生とこの機会を設けてくれた友人に感謝です!