古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』

 古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社、2011年)を読みました。
 
 この本に興味を持ったのは、昨年話題になっていたのに加え、著者の古市憲寿氏が昨年12月発売の「ブルータス」2012年1月1日・15日合併号にて藤子・F・不二雄大全集『SF・異色短編』1巻をオススメ本の一冊としてあげていたからです。


 世代間格差や就職難など若者に不利な問題が山積し、今後は今以上によくならないという閉塞感が漂う現在の日本は、若者にとって不遇な状況であるように見えるけれど、にもかかわらず、さまざまな調査によって、現代の若者は生活満足度が高いとの結果が出ている。それはいったいどういうことか、という視点から切り込んでいく若者論です。
 先行世代による若者論ではなく、若者による若者論であることが特色。若者論の歴史(これまで若者がどう語られてきたか)を概観するなどしながら、既存の若者論を相対化していく(ツッコミを入れていく)ところが興味深かった。
 本書による現代の若者の把握や、本書が到達する結論には、共感するところもあれば違和感をおぼえるところもあったけれど、読み物として面白く読めました。


 ささやかな藤子ネタを3箇所発見しました。そのなかで印象的だったのは、巨大な壊滅的状況に陥ったとき“これをきっかけに人間らしさや愛国的な行動が見直されるのではないか”と、その状況から「希望」を見いだす著名人の言説を例示しながら、それらの言説を『のび太とブリキの迷宮』のラストシーンと重ね合わせるくだりです。そのラストシーンとは、具体的にいえば、チャモチャ星のメカポリス全体が燃えている光景を見たアンラック王が「すべてが失われてしまった。この世のおわりだ……」と嘆いたとき、ガリオン・ブリーキン公爵が「やり直しましょうよ!機械まかせではなく 人間が人間らしく生きていける社会を作りましょう!!」と力強く訴えるシーンのことです。
 このくだりに付けられた古市氏による註釈を読むと、古市氏の藤子・F・不二雄観がちらりとうかがえます。
 その藤子・F観とは、こんなものです。
ドラえもん』には、科学への過信がもたらした悲劇的状況を、よりよい科学で解決していく、という話がよく見られる。藤子・Fは科学が生み出すやさしい未来を信じていたのだ……。


 そんな古市氏の藤子・F観を読んで、私はこんなことをちょっと思いました。
ドラえもん』の連載は、高度経済成長のなかイケイケでやってきた日本が、科学技術がもたらしてくれるはずの明るい未来に対し疑いを抱きだした時代に始まっています。そんな時代状況のなかで始まった『ドラえもん』の基本設定は、“科学技術の進歩によって未来に誕生するロボットが現代へやってきて、このままでは悲劇的な未来を迎えることになる子供を手助けし、その子供の未来を明るいものに軌道修正しよう”というものになっています。科学技術の進歩や明るい未来を信じられなくなってきた時代に描き始められた『ドラえもん』は、その基本設定からして、“それでも最終的には科学技術の進歩や人間の理性を信じる”“よりよい未来へ希望を託す”という立場にあるのです。