『帰ってきたヒトラー』と『ひっとらぁ伯父サン』

 映画『帰ってきたヒトラー』を観ました。
 
 とてもおもしろい映画でしたが、本当にこれをおもしろがっていてよいのだろうか?という引っかかりが、話が進むにつれてちょくちょく頭をもたげてきました。
 序盤は、不意のタイムスリップで現在(2014年)にやってきたヒトラーがあくまでもヒトラーらしくふるまい続けるさまにニヤリと笑いを誘われ、皮肉でユーモラスなブラック・コメディとして堪能しました。昔の人が現代へ来てしまったことで生じるちぐはぐな感じをおもしろがる、という意味では、『ドラえもん』の「ホラふき御先祖」や「二十世紀のおとのさま」と通じ合うものを感じました。とくに「二十世紀のおとのさま」との共通性が高く、「自分で意図せず現代社会へタイムトリップしてきた昔の権力者が、そのまま権力者としてふるまってしまう」という、時代錯誤的な言動におもしろさを感じました。


 ですが、物語が進んでいくと、しだいに笑うに笑えない場面やネタが増え、冗談じゃすまされない気分になってきました。現在の世界情勢や政治状況と鋭くリンクするところもありますし(トランプ現象や英国のEU離脱など)、歴史のうえでヒトラーが実際にやった悪行が思い出されて(つまりヒトラーが現実の存在であったことが意識されて)、なんだか笑いごとじゃなくなってくるのです。
 私は作中人物でもないのに、作中のヒトラーの掌中で踊らされているような感覚にみまわれました。ヒトラーの言動に心を動かされる大衆の一員になったような不穏な気分…。それゆえに、ヒトラーの持つ特異な魅力、強烈なカリスマ性が非常に危険であることを再確認できましたし、私自身の内に潜む“煽動されやすさ”を警戒せねば…とあらためて痛感したのです。私だけは煽動されないという過信はとてもおそろしい…。
 劇場で観ていると周囲の観客と一体になってヒトラーの演説を浴びているような臨場感をともなうので、その点で、劇場で観ることに特別な意味のある映画だなと感じました。
 そして、ヒトラーを演じた俳優さんの、あたかもヒトラーが憑依したかのような演技が絶品でした。この映画を優れたものに仕立てた大きな要因が、ヒトラー役の演技力というか憑依力だと思います。


 戦後のドイツではヒトラーが強くタブー視されていて、ヒトラーの著書『わが闘争』も長いこと禁書扱いでした。ですが、今年1月著作権が失効したのを機に専門家の批判的注釈つきで学術書として再出版されました。それに先駆けて、ドイツでは映画『帰ってきたヒトラー』(2015年公開)がヒットし、この映画の原作小説も2012年に発表されてベストセラーになっています。ヒトラーは依然として強いタブーであり厳しい批判の対象でありながら、その扱い方がちょっと変わってきたのかなと感じます。


帰ってきたヒトラー』は、「もしもヒトラーが現代に蘇ったら…」という仮定の物語です。その設定を聞けば、藤子不二雄Ⓐ先生の短編『ひっとらぁ伯父サン』を思い出さずにはいられません。
 
 『ひっとらぁ伯父サン』では、容貌も性格も思考回路も行動もヒトラーにそっくりなおじさん(ヒットラー伯父さん)が日本の平凡な町にやってきます。このおじさんは、町内規模でヒトラーのように人心を掌握し支配を進めていくのです。それに対し、映画『帰ってきたヒトラー』では、本物のヒトラーが2014年のドイツに出現します。
 Ⓐ先生の『ひっとらぁ伯父サン』に、「テレビだの映画の宣伝だのとひっぱりまわされまして」とヒットラー伯父さんが語る場面があります。『帰ってきたヒトラー』は、まさにそういう現象、すなわち“現代に蘇ったヒトラーがメディアにひっぱり出される状況”に主眼を置いています。テレビやインターネットとヒトラーは相性がよさそうです。


 というわけで、映画『帰ってきたヒトラー』とⒶ先生の『ひっとらぁ伯父サン』を比べて読んだりすると、ますます興味が深まるのでは、と思う次第です。ついでに宣伝しますと、「OSマンガ茶話」第15回で小林貞弘さんと私が『ひっとらぁ伯父サン』をテーマに語っております。未視聴のかたはご覧いただけたら幸いです。
 https://youtu.be/37WHvrM9NMs


 あと、『帰ってきた○○』という邦題について。このパターンで最もポピュラーなのは『帰ってきたウルトラマン』だと思うのですが(その前には『帰って来たヨッパライ』という唄もありましたね♪)、私の藤子脳は、Ⓐ先生の『帰ッテキタせぇるすまん』を真っ先に思い出してしまいます。
 

『ひっとらぁ伯父サン』の話をしていなければ、やはり『帰ってきたドラえもん』のほうが先に思い浮かんだはずですが(笑)