「SFマガジン」のディストピアSF特集から

SFマガジン」2月号は、ディストピアSFの特集です。私、現実のディストピアはイヤだけどディストピアSFは好物なのです(笑)
 
 同特集内の「ディストピアSFガイド」のコーナーでは、50以上の作品が紹介されています。マンガは3作品のみですが、そのうちの一つが藤子先生の単行本デビュー作『UTOPIA 最後の世界大戦』(発表時は「足塚不二雄」名義)です。これは、まぎれもなく、異存もなく、まさしく“ディストピアSF”ですね。
 
 『UTOPIA 最後の世界大戦』で描かれたディストピアとはどんなものだったのか…。
 第三次世界大戦で投下された氷素爆弾(一種の核兵器)によって、地球の半分が氷に覆われます。投下から100年後、地球国という統一国家が栄え、その首都がユートピアでした。人口470億人、たいていの人は200歳まで生きられるといいます。それだけを見れば望むべき理想郷が実現したように思えますが、ユートピアでは独裁的な政治が行なわれ、秘密警察が暗躍し、科学技術を過度に優先して芸術を壊滅状態に追い込んでいました。必要な人間といらない人間を選り分けるような社会でもあって、非人間的なディストピア状況を呈していたのです。
 いらない人間が強制的に送られる場所が“ゼロの空間”です。ここに送られた人間は消えてしまいます。「死ぬ」のではなく「消える」というところに、独特のおそろしさとニヒリズムを感じます。いらない人間は、まともに死なせてもらうことすらできない…。生死のレベルではなく存在それ自体を否定されてしまう…。そのおそろしさたるや…。


 そんなディストピア的状況にあるユートピアの体制に抵抗して、人間らしい人間の世の中を作ろうと活動した地下組織が“人類連盟”です。人類連盟の頑張りによって革命的な出来事が達成されるのですが、その後到来した世界は、元のユートピアに負けないくらい、あるいはもっとひどいディストピアでした。一切の仕事をロボットが行なうことになり、議員も裁判官もロボットがつとめ、人間はいらないものとされていったのです。必要な人間といらない人間が選別される世界ではなく、人間そのものがいらない世界になってしまったのです。
 そうして、ロボットと人間の存亡をかけた最後の戦いが始まります。

 まだ上京する前の若き藤子先生が、出版社からの依頼ではなく、自ら描きたいものを描きたいように(まとまった分量で)描いた作品がこうしたディストピアSFだったというのは興味深い事実です。直接的にはオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(の縮刷版)にインスパイアされて着手した作品ですが、やはり手塚治虫先生の初期SF3部作の影響も絶大でしょうし、戦後間もない頃合だったことや米ソ冷戦の深刻化などの時代背景も関係していることでしょう。
 そして、藤子先生(とくにF先生)のなかに、ディストピアSFに惹かれる(ディストピアについて想像し思考する)資質やマインドが強くあったことが、こういう作品を描く根っこの動機になったのではないでしょうか。


 先にゼロの空間の話をしました。F先生は『21エモン』でも同様の空間を描いており、そちらでは“0次元”と呼ばれていました。あまりにも長生きして生きることに飽きた人が入る場所です。ゼロの空間は国家からいらないとされた人間が強制的に送り込まれる場所でしたが、それに対し0次元は、何千年も死ねない世界のなかで生きることに飽きてしまった人が自発的に入っていく場所です。これを初めて読んだときはカルチャーショックでした。当時は子どもでしたから死というのは自分にとって遠い現象と感じていましたが、それでも自分が死ぬことは怖かったですし、長生きできたらいいな、死ななくてすんだらいいな、というような願望もなんとなく漠然と抱いていたように思います。つまり、長生きや不死はよいもの、という観念を単純に抱いていたのです。それが『21エモン』のこのエピソードでは、長く生き続けることが必ずしも幸せなことではないとネガティブに描かれており、自分の価値観がぐらぐらしたのです。