映画『のび太の新恐竜』感想【その7】「もろもろの感想」

 当ブログでこれまで6回にわたり映画『のび太の新恐竜』の感想を書いてきました。 

 その締めとして、今回はもろもろの短めの感想を羅列していきたいと思います。

 

 (以下、ネタバレありの感想です。映画を未見の方はお気をつけください) 

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■1回目の鑑賞:2020年8月7日

のび太の誕生日に封切られたのだからぜひその日に観たい!と8月7日に劇場へ足を運んだ。新型コロナの影響でお客さんが少なく、自分の席の近くに人がいないのをよいことに何度も泣いて、しまいには鼻水が垂れるほど号泣した。鑑賞後、思い出し泣きもしたくらい。

 

●冒頭、化石発掘体験コーナーでジャイアン二枚貝の化石を掘り当てる。それを見て、昨年東海地区の藤子仲間と岐阜県瑞浪市へ化石発掘に行ったことを思い出した。私もそこで二枚貝の化石を掘り当てたのだ。『のび太の新恐竜』が公開されることを受け、前もってみんなで化石発掘体験をしてみよう!ということで瑞浪へ出かけたわけだが、この体験があったおかげで『のび太の新恐竜』の序盤からホットに感情移入できた。

 

●オープニングソングはなし。その代わりというか何というか、生物進化のダイジェストがイメージ映像のように流れた。『のび太の宝島』もそうだったが、オープニングソングがないのはやはり寂しい。だが、この生物進化のイメージ映像は、これはこれでワクワクするものだった。『のび太の新恐竜』が「生物進化」を意識した映画であることが察せられ、このあと展開していく物語への期待感が増した。

 

●双子の恐竜キューとミューがあまりにもかわいくてかわいくて。そのかわいらしさを愛でることがこの映画の最良の楽しみ方ではないか!と思う瞬間もあった。

キューとミューを抱っこして「かわいい~!」とでれでれになるドラえもんの顔もかわいかった。そして、ドラえもんが寝るときかぶったナイトキャップもかわいかった。

 

●キューとミューは双子の恐竜だが、にもかかわらずキューはミューと比べて体が小さく尾が短い。ミューは飛べるのにキューは飛べない。キューのそうした身体的特性がこの物語の鍵であり、ひいては生物進化の歴史にかかわる重大事だとわかってくる。その展開に心が燃えた。

 

のび太がキューとミューにあげた食べ物のなかにソーセージとマグロの刺身があった。それらは、のび太がかつてピー助にあげた食べ物と合致している。そう思うと無性に心がときめいた。

 

●キューの嘔吐シーンはインパクトがあった。あそこまで露骨に吐瀉物を描くなんて……。映画ドラえもんの映像としては異例の生々しさではないか。終盤、キューがいよいよ飛べる!というときの回想カットにもこの嘔吐シーンが挿入された。

生々しいといえば、のび太がキューに引っかかれて指を切って出血したシーンでもそう感じた。

 

のび太とキューの“手と手”によるコミュニケーションの演技が繊細で素敵だった。たとえば…

・卵が割れても殻からなかなか出てこないキューに、のび太が「怖くないよ」と手を差し出す。

ジュラ紀に到着したものの臆して歩き出せないキューに、のび太が優しい言葉とともに手を差しのべる。

白亜紀の空をタケコプターで飛ぶのび太とキューがずっと手をつないでいる。

・それまでキューと手をつないでいたのび太が、キューと同種の恐竜たちの群れを前にしてキューの手を一瞬ぎゅっと握ってから離し、仲間のほうへ行くよう促す。

のび太とキューが2人だけの約束で指切りを交わす。

といった“手と手”の演技が素敵だなあと感じた。

 

●飼育用ジオラマセットとインスタントミニチュア製造カメラを使ってキューとミューの住み処を作るくだりにワクワクした。インスタントミニチュア製造カメラは、テレ朝版『ドラえもん』TV放送第1話「ゆめの町ノビタランド」(1979年4月2日)に登場するひみつ道具だ。『のび太の新恐竜』は映画ドラえもんシリーズの原点『のび太の恐竜』(および『のび太の恐竜2006』)をリスペクトした作品だと思うけれど、もしかしたらテレ朝版TVアニメの原点「ゆめの町ノビタランド」をも意識していたのかな、と(考えすぎかもしれないが)勝手にそう考えて盛り上がってしまった(笑)

飼育用ジオラマセットは、私が藤子F作品の特徴的な魅力だと思っている「箱庭趣味」「箱庭的宇宙」が体現されたものだったので、その意味でもワクワクした。

 

●生きた恐竜を見つけられなかったら目でピーナッツをかんでみせる…と宣言したのび太。それでジャイアンがピーナッツ菓子を持ち歩いていたわけだが、その菓子が「柿ピー」だったことに少しウケた。

ジャイアンのび太の部屋で柿ピーをこぼすとすかさずミューが食べてしまうところも好き。映画を観たあと私も柿ピーを食べたくなり、じっさいに食べた。

 

●海で溺れたのび太とキューをフタバスズキリュウが助けにくる。今のび太を助けているこの大きなフタバスズキリュウは、大人になったピー助!? と思ったら胸がジーンとしてきて、「お~、ピー助~!助けにきてくれたんだね~!」としみじみ感動してしまった。映画のエンディングクレジットを見たら「ピー助 神木隆之介」とあって、のび太を助けたフタバスズキリュウは「ピー助かもしれないと想像させるフタバスズキリュウ」じゃなく「ピー助そのもの」だったんだ、とちょっと面喰らった。それはジーンとする情報ではあるけれど、あそこにピー助がいるのは時代的に(あるいは世界線的に)辻褄が合わない部分もあって、これはファンのあいだで物議をかもしそうだなあ…という予感がよぎった。そんな不穏な予感をおぼえながらも、映画を観終えて昼食をとっていたら、ふとピー助登場シーンを思い出してうるっとしてしまった(笑)

 

●海に落ちたのび太を助け背中に乗せて運ぶピー助の姿が、「ぞうとおじさん」でのび郎おじさんを助けて運んだゾウのハナ夫のイメージと重なり合った。

インドの山奥で命を落としかけていたのび郎おじさんのところに、ゾウのハナ夫が静かに歩み寄ってきた。のび郎おじさんは「ハナ夫」と呼びかけてそのまま気が遠くなっていったが、ハナ夫はのび郎おじさんを背中に乗せて麓の村まで運んでくれた。のび郎おじさんの意識はもうろうとしていたから、ハナ夫が助けてくれたことが現実だったのか夢だったのかはっきりしない……。そんな「ぞうとおじさん」のエピソードと今回観た『のび太の新恐竜』のピー助登場シーンとが私のなかで重なり合ったのだ。

ピー助登場シーンには辻褄の合わないところを感じつつも、私はあそこでピー助が登場してくれて感動したし、「ぞうとおじさん」を思い出したりもできた。だから、辻褄が合うとか合わないとかそういう理屈はひとまず脇に置いて、「感動した!」というその自分の心の動きを重んじたい。

そして、私はピー助登場について都合よく解釈することにした。「のび太がピー助を育てた世界線」と「のび太がキューとミューを育てた世界線」は本来ならばパラレルワールドの関係にあって別々に進んでいたのだが、のび太とキューが海に落ちて命を失いかけた瞬間にその二つの世界線の平行状態が崩れて互いに交差した…。二つの世界線が交差したおかげで、立派に大きく育ったピー助が「のび太がキューとミューを育てた世界線」のほうに入ってきて助けてくれたんだ…と。

のび太にとって「ピー助に助けられた体験」は、夢か現実か判然としない曖昧でおぼろげな体験、記憶などないに等しい体験だろう。そうした体験・記憶のありようは、「ぞうとおじさん」でハナ夫に助けられたのび郎おじさんの体験・記憶のありようと似ている。のび郎おじさんにとっても「ハナ夫に助けられた体験」は夢か現実か判然としない体験だったのだから……。

 

●ピー助登場のほかに私が気付いた藤子作品ネタは……

のび太の部屋に、前作『のび太の月面探査記』の痕跡が!ポールハンガーにルカくんの帽子がかかり、本棚にはムービットのぬいぐるみが置いてあった。

ドラえもんの寝床(押入れのなか)に「うそつきかがみ」のかっこいいドラえもん大型ポスターが貼ってあった。ドラえもんはかっこいい自分の姿と対面しながら寝てるんだ(笑)

・放課後のシーンで学校の前を『チンプイ』の春日エリちゃんが「算数難しかったねえ」と話しながら歩いていった!

 

のび太が誤ってタイムマシンの時代設定を変えてしまい、本来行こうと思っていた白亜紀じゃなく、思いがけずジュラ紀に着いてしまった。のび太ら一行がジュラ紀の世界へ第一歩を踏み出したとき、地面が大きく映し出された。その地面がジメジメ湿っている感じが印象的だった。生えている植物が湿度を好みそうな種類だったり、湿気のあるところに住んでいそうなダンゴムシみたいな虫が這っていたり……。そうした描写が「ジュラ紀に来たんだ!」という空気感を味わわせてくた。

 

ジュラ紀に着いたときは嬉しそうじゃなかったキューとミューだが、白亜紀に着いたときは「自分たちが本来生きていたはずの時代だ!」と直観できたのか、その環境にすぐなじんでいた。そんな、ジュラ紀に着いたときと白亜紀に着いたときの2匹の様子の差が心に刻まれた。

 

●峡谷を飛ぶプテラノドンの群れのシーンを観て、『のび太の恐竜』へのオマージュを感じた。映画ドラえもんの記念すべき第1作『のび太の恐竜』が完成して最初の試写会が開かれたとき、藤子F先生は試写会に行けなかったそうだ。それで、先に試写を観てきたアシスタントさんにF先生が真っ先に尋ねたのが「峡谷のプテラノドンの群れのシーンがどうだったか?」ということだった。それほどまでに、F先生は峡谷のプテラノドンのシーンに思い入れをお持ちだったのだ。

 

●キューが仲間たちの群れに入れてもらおうと近づいていったら、群れのリーダー的な(リーダーじゃないかもしれないけど気性が荒そうな)やつにスゴい形相でにらまれ、そのうえ爪で顔を引っかかれて仲間入りを拒絶されてしまう。それは、この映画のなかでもとりわけショッキングなシーンだった。ショックと悲しさで涙が出てきた。

 

のび太がキューを特訓するシーンは、のび太のキューに対する当たりがややきついな…と感じた。当初はそのきつさを違和感として受け止めていた私だが、観終えたあとにはのび太の心に思いを寄せたくなった。心ならずもきつい特訓をしてしまうくらい、のび太には「キューが飛べないこと」がキューにとって死活問題だと感じられていたのだなあ…と。のび太はキューをこの世に誕生させたことに過重な責任を感じ、キューの将来の生存のために必死だったのだなあ…と。

のび太の誕生日にこの映画を観ているのだからのび太の気持ちに精いっぱい寄り添おう、という思いが私のなかで強まっていった。

 

●タイム・パトロール(以下、T・P)の人がチェックカードを使って、その人物が歴史に大きくかかわるかどうかをチェックするシーンがあった。それを観たら思い出さざるをえないのが『T・Pぼん』である。この歴史改変のチェック機能のアイデアは、『T・Pぼん』から採ったものだろう。

 

●映画ドラえもんに登場するT・Pといえば、たいていは、ピンチにおちいったのび太たちを助けて事件を収束させてくれる頼もしい存在であった。だが、『のび太の新恐竜』では、のび太たちがやることに手を出さずひたすら見守る…という異例のスタンスをとった。のび太たちを助けないT・Pというのも、それはそれで結構な見どころだよなあと感じた。隕石の衝突で大災害が迫りのび太たちの命が危ない極限的な状況のなか、T・Pはギリギリのところまで介入せず見守ることで存在意義を発揮した。T・Pの任務というのは「目の前の事態に介入しないことが歴史的に正しい」ケースが往々にしてある、ということだ。

 

●1回目の鑑賞時に最も泣けたのはクライマックスシーンだった。それまでいくらがんばっても飛べなかったキューがついに飛べたときである。

 

ジュラ紀白亜紀の(まだ大陸の一部だった)日本が舞台とあって、日本にいてもおかしくないアジアの恐竜たちがいろいろと登場するのは、相当な見どころだった。劇中では、ステゴサウルスではなく「ステゴサウルスの仲間」と言われていたし、トリケラトプスに似た恐竜も「トリケラトプスの仲間」と紹介されていた。映画の鑑賞後パンフレットを見ると、映画に登場した恐竜たちの種名がわかるようになっていて、ジュラ紀のび太らを追いかけてきたアロサウルスに似た肉食恐竜は「ヤンチュアノサウルス」、ともチョコでジャイアンと仲良くなったティラノサウルスのような肉食恐竜は「タルボサウルス」だとわかる。アジア恐竜がこんなにも全面的に活躍する恐竜映画って、かつてあっただろうか⁉

 

●登場した恐竜や古生物のうちで私にとって特に謎だったのは、のび太やキューらを執拗に襲った巨大翼竜だ。あの巨大翼竜が出てきたばかりのときは、悪の結社か何かが遺伝子組み換えなどの技術で作りだした人工動物⁉と推測したのだが、『のび太の新恐竜』にははっきりした悪役の人間は出てこないし、あれはいったい何だったのだろう?……という謎が私のなかに残った。ストーリーにけっこう絡んでくる役回りだっただけに、もうちょっとあの翼竜の正体に関する説明があってもよかった気がするのだが……。

SNSを見ると、「ケツァルコアトルス」という説が多めだ。う~ん、でもあの翼竜、私が見たことのあるケツァルコアトルスの想像図と比べると形状がところどころ違ってるんだよなあ……。「ケツァルコアトルスをモデルにした架空の翼竜」のような気がしないでもないが、私にはよくわからない。

 

●『のび太の新恐竜』はドラえもんたちがじかに戦う悪人が出てこない映画だった。悪役の人間は出なかったけれど、恐ろしい存在は登場した。肉食恐竜や巨大翼竜である。それから、クライマックスの隕石衝突によって押し寄せる大災害も恐ろしかった。つまり、野生動物や自然現象が敵といえば敵だったのだ。その点では『のび太と竜の騎士』っぽいかな。

正体が判明するまでのジルが悪役に見えていたが、じっさいはそうではなかった。

 

●序盤の日常場面で使われた飼育用ジオラマセットや空間移動クレヨンが、終盤で重要な意味を持ったり大活躍したり。どちらも生物の歴史にかかわる重大時に貢献した。

 

●ラスト近くでミューが何匹ものオスを引き連れてモテモテっぷりを見せつけてくれた。そのイケてるリア充ぶりがほほえましたった。

 

●くるくるよく動く作画からアニメーションの醍醐味を感じた。

 

●『のび太の新恐竜』は鳥好きにとっても楽しい映画だった。私は昔バードウオッチングをやっていたことがあって、日本の野鳥は200種類くらい観察したことがある。『のび太の新恐竜』には、種を識別できる野鳥がいろいろと出てきてくれたのだ。私が識別できたのは、スズメ、アオサギ、ヒバリ、カラス(ハシブトかハシボソかは不明)…。それから、ヒヨドリやドバトと思われる鳥もいた。

 

のび太たちが、ノビサウルス以外の恐竜もいっぱい助けたことに少し困惑した。「6600万年前、地球に隕石が衝突して恐竜(非鳥類型恐竜)は絶滅した」というのが歴史的事実なのに、あそこでいろいろな恐竜を助けちゃったら歴史改変になるんじゃないかしら……と気にかかった。

おそらく、あの時点で助けられたいろいろな恐竜たちは個体としてはのび太たちに命を救われて当面は生き延びられたけれど、その後子孫を残せず遠くない未来に絶滅してしまうのだろう……。だから歴史改変に当たらないのだろう……。T・Pがのび太たちの恐竜救助行為を止めなかったということは、つまりそういうことなのだ……。と独断的に解釈して納得することにした。ああいう危機的状況にあって、「近くにいる恐竜だけでも助けたい!」「恐竜たちを見捨てられない!」と思うのは、人情としては理解できるし……。

歴史改変とか生態系とかそういう大局的・科学的なことは顧みず目前の命をがむしゃらに救おうとがんばったのは、一種の“子どもの正義”といえそうだが、のび太らは子どもだから子どもの正義を行使して然るべきなのだ。

 

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 ■2回目の鑑賞:8月19日

 ●1回目の鑑賞時と同様、一人で映画館へ行ったのだが、上映が始まってスクリーンに『のび太の新恐竜』と大きくタイトルが出た瞬間、場内に拍手が起きた。「私は一人で観てるんじゃないんだ!」という嬉しい感覚を味わえた。

 

●1回目の鑑賞日はのび太の誕生日だったのでのび太への思いを目いっぱい込めて観たが、今回は「キューが主役だ!」というスタンスで観た。どのようなスタンスで観ても、やっぱりいっぱい泣けた。

 

●1回目の鑑賞時に初めて泣けたシーンは、キューとミューが卵からかえるところだった。2回目の鑑賞で最初に泣けたのは、体を壊したキューをのび太が看病しながら布団でいっしょに寝るシーンだ。のび太がキューに「よしよし」と優しくするところで涙がじわりとにじんだ。

 

●よく泣けたのは、ほとんどキュー絡みのシーンだった。この映画は、わざわざ「キューが主役だ!」と思って観なくても自然とキューを中心に胸がときめき、心を動かされ、涙を誘われる映画なのだった。少なくとも私にはそうだった。

 

ジュラ紀アロサウルスの仲間が追ってくるシーンがずいぶん恐ろしかった。

 

白亜紀に着いてからミスチルの『Birthday』が盛大に流れるシーンがある。巨大な恐竜の身体を手でなぞるように飛ぶのび太。卵をあたためる鳥っぽい恐竜。子連れの恐竜もいたりして、恐竜への親しみや興味がわくシーンだった。

 

●現代へ帰るのび太たちを追いかけてきたキューの翼が、最後、燃えているようにメラメラと表現された。ちょっと火の鳥を思い出した。

 

●ピー助と思われるフタバスズキリュウが、のび太らを乗せたタイムマリンが白亜紀から去っていくところを見届けて海に潜っていった。溺れたのび太を救ったピー助が、今度は隕石衝突の災害からのび太らに救ってもらったことになる。

 

●エンディングソングに入る直前のシーンで、のび太はキューとの約束だった逆上がりを成功させる。そのとき空に見えるのが入道雲と飛行機雲。そして、空へ向かって飛んでいく2羽の小鳥。この2羽の小鳥はキューとミューの生まれ変わり?直系の子孫?という思いが頭をよぎり、胸にグッとくるものがあった。

 

●キュー&ミューの声と表情がほんとうにかわいい!のび太らへのなつきっぷりがたまらない!

 

●映画を観終えて場内から出るとき、小学校低学年くらいの男の子が「面白かったねー」と言うと隣を歩く父親が「面白かったねー」とすぐさま応じていた。そんな親子の弾む会話にジーンとした。

 

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■3回目の鑑賞:8月23日

●3回目の鑑賞時には、ネットにあがっている感想や評価をだいぶ読んでいた。私は『のび太の新恐竜』に楽しませてもらってありがたい、と思っている立場だけれど、私とは反対側に位置する感想・評価もいろいろと見受けられた。その類の言葉にあれこれ触れてから観る『のび太の新恐竜』はどんな感じなのだろう…と少しばかり不安が生じた。

でも、いったん観始めてしまえば、そうしたあれこれが一気に吹っ飛ぶほど心を強く動かされ、おおいに泣けて、今回もやっぱりキューとミューがひたすらかわいいのであった。酷評に触れてわずかながらどんよりしていた自分がバカバカしくなるくらい。

 

●鑑賞中、私が思わずやってしまっていたことがある。場面が大きく転換されるたびに、キューとミューの表情へついつい目が向いてしまうのだ。なんらかの場面がパッと映し出されると、キューとミューはどこにいるのかな、と不意に目が2匹を探してしまうのである。とくに、キューの表情へ視線が吸い寄せられがちだった。

 

●もう現代で飼うには無理なくらいキューとミューが大きくなったから恐竜時代へ送ろう、とドラえもんが言ったとき、のび太は「キューは飛べないから生きていけない!」と拒否反応を示す。「ぼくのわがままで卵をかえしたんだから、責任を持って守らないといけない」と責任感の表明もあった。のび太がキューとミューを思う気持ちは生半可なものではないのだ、ということがダイレクトに伝わってきて胸を打たれた。

 

●ピー助がもうじき登場する!と思うだけで泣けてきた。赤ちゃんピー助の姿がのび太の夢のなかに出てきて、その直後、大人になったピー助が自分の背中に乗せたのび太をちらりと見てから前へ進んでいくところでだいぶ泣けた。

 

●ピー助が出てきたところで、観客の一人が「ピー助だ!」と声を上げた。上映終了後には、いちばん前の席にいたお子さんが「ピー助が出てきたね。そんなことがあるんだな」と家族と言葉を交わしていた。そして、これも上映終了後のことだが、中学生くらいの女子2人組の1人が相手に「ピー助わかる?」と聞き、相手が「わかる」と答えていた。そうやって、ピー助がその場の関心をかっさらったのだった(笑)

 

●キューがいよいよ飛べるところで、のび太が「飛べ!飛ぶんだ!」「飛ぶんだキュー!」と叫んでいた。ちょっと『あしたのジョー』みたいなセリフだな、と思った(笑)

 

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 ■4回目の鑑賞:9月3日

 ●ドラえもんの誕生日!というめでたい日に4回目を観た。本来なら3月に公開されていたはずのこの映画を、ドラえもんの誕生日に劇場鑑賞できるなんて、なんだか“すこしふしぎ”だった。1回目に観たのは封切り日の8月7日、つまりのび太の誕生日だったから、のび太ドラえもん両者の誕生日当日に映画館へ足を運んで『のび太の新恐竜』を鑑賞できたことになる。

2人の誕生日を、映画ドラえもんを劇場鑑賞することでお祝いできたのは幸いだ。彼らを祝福する気持ちで『のび太の新恐竜』を観て、いっそう感動や喜びが高まった。こういう祝い方ができる年は稀有なので、よい体験ができたと思う。全体的にはありがたくないコロナ禍だが、そのコロナ禍がもたらした、ちょっとばかりのありがたいこと…だったのかもしれない。

 

●タイムふろしきに包んでいた卵が反応を示したとき、のび太は興奮して緊張気味にふろしきをほどいた。のび太の心理が手の様子にあらわれていた。

 

●相変わらずキューとミューがかわいかった!

 

●宇宙完全大百科が出てきたシーンで、ミューが枕を噛んでいた。のび太が刺身をあげる場面ではミューが刺身を2切れ持っていた。そんな、大写しにされない背景の一部のような描写のなかでも、ミューのお茶目なおてんばっぷりが感じられてよかった。

 

●次のようなシーンから、のび太のキューに対するあたたかで繊細な心遣いが感じられて素敵だった。

・ミューが飛べるようになったとき、キューはそれを真似して飛ぼうとするも、飛べずにバタッと落ちて泣きかける。それを見たのび太は、すぐに駆け寄って「大丈夫?」と心配し、慰めた。

・その後、ともチョコを分け合う仲となったのび太とキューは2人同時に飛ぼうとするが、すぐ落っこちた。キューが落ち込むと、のび太は「飛べるようになるよ」と励ました。

・気を失っていたのび太に水滴を垂らしてくれたキューに、のび太は「優しい子だね」と声をかけた。

 

●キュー&ミューとジャイアンスネ夫の初対面シーンも好き。キューはジャイアンスネ夫に初めて遭遇したとき人見知りを発動し、すこし怯えた様子を見せる。のび太から彼らは友達だと聞いて安堵する表情が印象的だった。キューと正反対の性格のミューはじつに人なつっこくて、スネ夫が撮影するカメラに顔を近づけたりこぼれた柿ピーを一気に食べたりと彼女らしくお茶目だった。

 

アロサウルスの仲間に追われて逃げ遅れそうなのび太を助けようと、キューが駆け寄る場面がある。引っ込み思案のキューが、のび太の危機に際して恐ろしい肉食恐竜のほうへ近づく行動をとったことに、キューののび太への思いとキューの成長を感じて胸が熱くなった。

 

のび太がキューの特訓をするとき「なんでできないの!」などきつい言葉をキューに向けることがあった。その言葉を浴びて、のび太の手を振り払ってその場から去ったキューだが、のび太の厳しさに嫌気がさして逃げだしたというより、何度トライしても飛べない自分が悔しくてもどかしくていたたまれなくなってその場にいられなくなったのではないか。そのように私は感じた。のび太から離れて以降のキューは、自ら黙々と飛ぶ練習を続けていた。「飛びたい!」という意欲を失っていなかったのだ。「飛びたい!」と思い続けたのである。その姿を見たのび太は、むやみに厳しい親の立場から対等の友となって、キューは飛べるよう、自分は逆上がりができるようになると約束を交わすのだった。

私が「ややきついな」と感じたのび太によるキューの特訓は、「スパルタ教育や根性論の肯定だ」としてネット上で批判を浴びることになってしまった。この件に関する私の見解は「感想その4」で書いた。

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/11/02/181753

 

●隕石の衝突によって恐竜が絶滅する歴史的事実を説明するドラえもん。その手詰まり感、絶望感に泣けてきた。事情を知らないキューとミューのあどけない笑顔を見たらたまらない気持ちになって、ますます泣けた。

 

●キューがいよいよ次の滑走で飛べる!というとき、キューの表情がとても精悍だった。それまで「かわいい~!」と愛でてばかりいたキューのキリッとした表情を見て、彼はこの過酷な時代を生きのびていける!と確信した。

 

●恐竜たちを救助し終えてから流れたミスチルの『君と重ねたモノローグ』が心にしみた。

 

●鑑賞も4回目とあって、泣く頻度というか回数は減ったが、泣いたときの濃度が高まった感じだ。いったん泣いたときの泣きっぷりが激しくなったというか……。とりわけ、のび太とキューの別れのシーンで声を上げそうなくらい泣いた。のび太が別れを告げずに去ろうとしたらキューとミューが飛んで追ってくるんだもの!そのときのキューの顔を見たら感涙が最高潮に達し、思わず声が漏れそうなくらい泣いてしまった。

 

 ●『のび太の新恐竜』を4回観て、観るたびに「泣いた~!」「キューとミューがかわいかった~!」とばかり述べてきたが、ほんとうにそうだったのだからしかたがない(笑) 歴代映画ドラえもんを映画館で観てきたなかで、最大級に泣けた作品である。それは、周囲に観客がいなくて心置きなく泣きやすかった、という環境的な要因も無視できない。

 

●最終シーン。のび太が逆上がりをできた瞬間に詩情のようなものを感じた。ツクツクボウシが鳴き、入道雲がそびえ、飛行機雲がのびる……。そして2羽の小鳥……。あの小鳥の姿がキュー&ミューの面影の重なって、しみじみ感じ入った。

 

●前売券を4枚買ってあったので、『のび太の新恐竜』はあらかじめ最低4回は観に行くことになっていた。1回目は大勢の藤子仲間と行って、2回目はあの人と行って…などと自分なりに計画があって4枚買ったのだが、結局4回とも1人で行くことに(笑) 4枚使いきったわけだが、4回観て4回とも楽しめて感動できる作品でよかった。

さて、5回目行くかどうか、と思っていたのだが、結局行けなかった。

 

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  以下は、これまで当ブログにアップした『のび太の新恐竜』の感想です。

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その1】「泣く準備はできていた」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/19/204541

 

■映画『のび太の新恐竜』感想【その2】「羽毛恐竜キューの生態に思いを馳せる」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/20/121759

 

■映画『のび太の新恐竜』感想【その3】「キューの“進化”に考えをめぐらす」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/27/191513

 

■映画『のび太の新恐竜』感想【その4】「鳥らしさを愛でる」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/11/02/181753

 

■映画『のび太の新恐竜』感想【その5】「恐竜から鳥への進化に関心を抱く」 

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/11/29/180126

 

■映画『のび太の新恐竜』感想【その6】「多様性というテーマについて」 

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/12/13/202335