今年の7月、映画『夏への扉 -キミのいる未来へ-』を観ました。
この映画の原作は、1956年にアメリカで発表されたロバート・A・ハインラインのSF小説『夏への扉』です。SF小説のスタンダードともいえるこの小説が初めて実写映画化されました。初めての実写映画化が日本映画、ということに少し驚いたものです。
・パンフレット
[以下、『夏への扉』のネタバレを含んでいます。ご注意お願いします]
ステキな青春SF映画でした。個人的に好きなタイプの作品です。
時間SFの魅力、ラブストーリーの魅力、猫の魅力、美形主人公と美形ヒロインの魅力などがほどよく爽やかにブレンドされていて、心地よく楽しめました。
そして、あきらめの悪い猫とあきらめの悪い人々のお話でもありました。ラストシーンは、ほんとうに絵になる瞬間でした。
原作はアメリカの古典的なSF小説ですが、その舞台を日本に置き換え、時代設定を25年ばかり新しくし、細部にいろいろと変更を加えながら、原作がもつ基本的な魅力を損なわず、ストーリーラインもおおむね原作に沿っており、原作小説の愛読者視点で観ても好感のもてる映画だと思いました。
冒頭で原作小説の文章(福島正実訳)が使用されたのも琴線に触れました。福島訳の言い回しをそのまんま劇中で聞けたのです。パンフレットにもその文章が掲載されています。
この言い回しを映画のなかで聞いたおかげで、小説の『夏への扉』とこの映画がグイッと太い紐で結びついたような喜びを感じられました。
原作小説は、物語の舞台が1970年から始まるのですが、映画ではそれを1995年に変更していました。映画版では1995年の世界から物語が始まるのです。
映画版の主人公が生まれた年から1995年になるまでの社会的な出来事が紹介されていくくだりがありました。それは、私たちが暮らすこの現実世界で起きた出来事と同様なのに現実と少しだけ違っていて、現実世界と劇中世界が少しだけズレたパラレルワールドであるかのような感覚を味わえました。
そうした、現実に起きた出来事なのに現実と少し違っている事例をひとつだけ挙げれば、劇中世界では「三億円事件の犯人が捕まっている」のです。
「瞬間移動の実験が成功した」という話も出てきました。それはわれわれが暮らすこの現実世界とはだいぶ違う出来事ですが、そのように、現実の日本と似ていながらも少しずつだんだんと違う様相になってくる世界だからこそ、われわれの現実世界ではまだ実現していないコールドスリープが劇中世界の1995年に実用化されていても、そのことをすんなり受け入れられるわけです。現実世界とまったく同じ歴史をもつ世界なのになぜかコールドスリープだけが実現している設定にするよりも、説得力があると思うのです。
藤木直人さんが演じたヒューマノイドロボットPETE(ピート)は、映画オリジナルのキャラクターですが、いい感じに作品世界に溶け込んでおり、いい感じに素敵な活躍をしてくれて、原作にいないのにこの映画にはいなくてはならない!と素直に思えてくる存在でした。その意味で、私のなかでは『新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜』のピッポと印象が重なりました。
正直なところ、こんなに泣けるかというほど私には泣ける映画でもありました。主人公がコールドスリープをして目覚めた30年後の世界で、主人公とヒューマノイドはある人物の墓参りをします。そこで風車の建つ海を眺め、過去を回想するのですが、そのシーンあたりから泣けて泣けて……。
鼻が詰まるくらい泣けました。
目を何度もこすりました。
映画の後半はずっと泣いていました。
映画を観てここまで泣けるのは、われながら珍しいです。客観的にはそんなに泣ける映画ではないと思うのですが、私の涙腺のツボを的確についたようで、驚くほど泣けたのです。
この映画の監督・三木孝浩氏は「原作の印象から教えて下さい」との質問にこう答えています。
「日本で言うと藤子・F・不二雄さんの「ドラえもん」、「SF短編」や、星新一さんの小説のようにあまり小難しくなく、どこかシニカルでユーモアがある世界観という印象も受けたので、日本人には親和性のある題材だなとも思いました。」
『夏への扉』の原作小説を読んで藤子F先生のドラえもん・SF短編や星新一先生の小説のような印象を受けただなんて、そういう感受性をおもちの監督がつくった映画だから、なおさら私にとって好きなタイプに映画になりやすかった、といえるかもしれません。
原作の『夏への扉』は、歴代SFオールタイムベストのアンケートがあればしょっちゅう上位にランクインするSF小説の古典的名作です。藤子F先生が『ドラえもん』を発想するさいの直接的なヒントにした、といわれる作品でもあります。
ですから、読んでいると『ドラえもん』に通ずる要素がいくつも見つかるはずです。
たとえば、
「タイムトラベルで人生やり直し」
「家事や仕事のできるいろいろな自動機械」
「猫」
といった要素が『ドラえもん』的だなと感じます。
「家事や仕事のできるいろいろな自動機械」という観点では、主人公が構想する発明品のなかに“子守する機械”があって、そこにとりわけドラえもんと通じ合うものを感じました。
映画版を観に行くにあたって原作小説を久しぶりに再読してみたのですが、そのさい『ドラえもん』との共通性を強く感じたのは、以下の点です。
・タイムトラベルしてきた人物と元からその時代にいる同一人物とが同時に同じ場所に存在している状況と、その描き方。
・過去の自分に起きた悪い出来事をその過去へ戻って修正しようとする行為(現在の自分がこのような状態になったのは、過去に戻った自分が過去の悪い出来事を修正したから、という因果の堂々めぐり感)
・タイムトラベルで過去に戻ってその過去に手をほどこすことで、その後の人生を変え、人生が変わったことで結婚相手が別の人になる。
そんなところが、『ドラえもん』を読んだときの魅力と特に共通性が感じられるポイントだなと思いました。
藤子先生のアシスタント出身の漫画家・えびはら武司先生の著書『藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 ドラえもん達との思い出編』で、『夏への扉』と『ドラえもん』の関係が取り上げられています。藤子F先生が実際に買って読まれたという『夏への扉』の本の現物を撮った貴重な写真も掲載されています。
本書の帯に「ドラえもんの原点となる1冊の本を発見!!」とあります。この「1冊の本」というのが『夏への扉』のことです。
ちなみに、藤子F先生が読まれたバージョンは、ハヤカワ・SF・シリーズ版(1963年初版発行、福島正美訳)です。普通の本より少し細長い判型のシリーズです。私はその版を持っていませんが、ハヤカワ文庫版(写真左側)で福島正美訳を読みました。
新訳版(小尾芙佐・訳/写真右側)もあって、こちらのほうが読みやすいところがありますが、藤子F先生が読まれたのは最も普及している福島正実訳なので、藤子ファン的には福島訳で読むのが最善かと思います。そのうえで小尾訳と読み比べるとますます興味深いでしょう。
たとえば、この小説の主人公は技術者であり発明家でもあるのですが、その主人公が発明した代表的な発明品の名称が、福島訳では「文化女中器」、新訳では「おそうじガール」となっています。そういう違いを見つけて楽しむのも一興です。
『夏への扉』の作者ロバート・A・ハインラインは、猫を愛するすべてのひとたちにこの小説を捧げる、と記しており、本作は猫SFの代表的名作ともいわれます。ハヤカワ文庫版も新訳版も映画のパンフレットもみーんな表紙は猫!
猫特有の可愛らしさ(猫が苦手な人から見たら可愛げのなさ)が生き生きと描写されていて、いろんなことが起こる小説でありながら、結局は猫に持っていかれる感があります。
映画版に登場した猫は穏やかでなかなか貫禄のある演技を見せてくれました。どこかを見つめるその表情、そのまなざしがじつに印象的でした。