藤子不二雄Ⓐ先生に感謝をの念を捧げるゆでたまご先生

 いろいろな雑誌に藤子不二雄Ⓐ先生の追悼記事が掲載されるなか、集英社の「プレイボーイ」5月2日号(4月18日発売)で実に印象深い追悼企画を読むことができました。

・Ⓐ先生の追悼記事が掲載された週刊誌

 

・「プレイボーイ」5月2日号の表紙

 

 「プレイボーイ」で大人気マンガ『キン肉マン』を連載中のゆでたまご先生が、Ⓐ先生の『まんが道』から受けた絶大な影響を語っておられ、その内容は、Ⓐ先生への尊敬と感謝の念がひしひしと伝わってくるものでした。

 ゆでたまご先生が全『まんが道』シリーズのなかで初めて出会ってむさぼるように読まれたのは、「少年チャンピオン」で2ページずつ連載されていた、のちに「あすなろ編」と呼ばれるシリーズだったのですね。「あすなろ編」を初出の雑誌連載で読まれていたそうです。

 

 「あすなろ編」は、「少年チャンピオン」連載時にはⒶ先生(当時は「藤子不二雄」名義)によるマンガの描き方コーナー『チャンピオンマンガ科』の一部分として『マンガ道』のタイトルで掲載されていました。『チャンピオンマンガ科』のページ数は1回につきたいてい5ページあって、そのうちの2ページ分が『マンガ道』にあてられていました。(そうじゃない例もあります)

 ゆでたまご先生は、そういう形態で連載されていた『マンガ道』(のちの『まんが道 あすなろ編』)をリアルタイムで読まれていたのです。

 

 ご存じのとおり、ゆでたまご先生は原作担当の嶋田隆司先生と作画担当の中井義則先生の2人組漫画家です。

 お2人は小学生4年生のとき出会い、プロの漫画家になりたいと心のどこかで思っていたものの、どうしたらなれるのかよくわからなかったといいます。そんなとき、「少年チャンピオン」で『マンガ道』に出会われました。自分らもこのとおりにやればプロの漫画家になれるのか!と『マンガ道』に描かれていることをどんどんマネしていったそうです。

 嶋田先生と中井先生がコンビを組んでプロの漫画家を目指そうというときの、最大のお手本が『マンガ道』だったわけですね。

 

 今回の記事でゆでたまご先生は、『マンガ道』以外にも2人の藤子先生(Ⓐ先生とF先生)から受けた影響を熱く語られており、その言葉のはしばしから藤子先生への感謝の気持ちがあふれています。

 

 中井先生は、「あすなろ編」が初めて一冊にまとめられた記念すべき単行本(1972年、秋田書店発行)をバイブル的な一冊として今も机から一番近い本棚に差しておられるそうです。

 この単行本、ハードカバー・箱入りの豪華な仕様で、装丁・造本の観点からもバイブル扱いされるにふさわしい格調を有していると思います。

 

 ビッグなゆでたまご先生の話から急に自分のことに引き寄せて恐縮ですが、私が『まんが道』を初めて読んだ単行本は、ヒットコミックス(少年画報社、全19巻)の第1巻(1978年発行)でした。「少年キング」連載中だった『まんが道』を一番初めに単行本化していった新書判のコミックスです。

 すなわち私は、「あすなろ編」より先に「立志編」を読んだわけです。

 

 『まんが道』はいつ何歳のときに読んでも心を動かされる不朽の名作ですが、なかでも自分が中高生のころ繰り返し読んだ「立志編」への感情移入度は格別に高かったです。

 「立志編」には、学生生活を送っていた満賀道雄才野茂がその生活に別れを告げ、いよいよ社会へ出ていこうとする年代の出来事が描かれています。「立志編」を初めて読んだ当時の私は、作中の主人公2人より少し年下だったのですが、自分にも間もなくそういう時期が嫌でも訪れるんだな……とわがに身に迫ってくるような切実な感覚を抱かされました。

 それまでは完全な子どもだったのにこれからは否が応でも子どもから大人になっていかねばならない……そんな年ごろで出会って読んだ「立志編」は、当時の自分の置かれた状況や心理とリアルに重なり合ったのです。

 

 偉大なる2人の藤子先生をモデルにした満賀道雄才野茂と凡庸なこの私をリアルに重ね合わせるなんて、まことにおこがましい所業だとも思うのですが、当時の私は私なりの次元で、あのころの私より少しお兄さんである満賀と才野の歩む道に心を重ね合わせていたのです。

 

 『まんが道』は「漫画家をはじめクリエーターを目指す人、夢を持ってがんばっている人のバイブル的な作品だ」とよく言われ、それはまさにそのとおりだと思うわけですが、漫画家やクリエーターになるとか何か特別な才能があるとかそういうわけじゃない私のような人間にも、人生の味わいや喜びや厳しさを親切に教えてくれる、普遍性をもった青春物語なのです。

 

 読者の多さという点では比較的地味な作品だった『まんが道』が一躍大勢の読者を獲得したのは、中央公論社から刊行された分厚い愛蔵版によってでした。1986年のことでした。

 この単行本はNHKでのドラマ化に合わせて刊行されたもので、幅広い世代に読まれてベストセラーになりました。

 愛蔵版には「少年キング」連載のシリーズに加え、ゆでたまご先生がむさぼり読まれた「少年チャンピオン」連載の「あすなろ編」も収録されています。

 いま私が『まんが道』を読み返したり内容を確認したりするときは、この愛蔵版を開くことが多いです。

週刊誌の藤子不二雄Ⓐ先生追悼記事で見つけたものに感涙

 藤子不二雄Ⓐ先生が亡くなられたことがまずテレビやネットや新聞で報じられ、その後いくつもの週刊誌に追悼記事が載りました。今後発売される雑誌にも載ることでしょう。

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 その中の一冊「週刊文春」4月21日号に、Ⓐ先生のお仕事部屋の写真が大きく掲載されています。デスクで原稿を描いている最中のⒶ先生がえんぴつを持ったままカメラに笑顔を向けておられます。

 そんなⒶ先生のお姿の背後に、本や資料の並べられた書棚が見えます。

 どんな本が並んでいるんだろう…と目を凝らしてみたら、なんと拙著『藤子不二雄Ⓐファンはここにいる』×2冊の背表紙が確認できるではないですか。

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 (「週刊文春」2022年4月21日号、16ページより。同ページ掲載の写真の一部分を拡大しております)

 

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 拙著2冊のうち1冊は、こんなふうに帯がずり上がった状態で並べられているようです。

 

 この光景を写真の中に見つけた瞬間、Ⓐ先生への感謝と喜びと、そしてそのⒶ先生がご不在であることへの寂しさ悲しさがどっとわいてきて、思わず涙してしまいました。

 

 Ⓐ先生、拙著を先生の身近な場所に置いてくださってありがとうございます。

 ああ、また泣けてきました…

 

『魔太郎がくる!!』11巻を読み返す

 私の藤子不二雄Ⓐマンガ体験の原点はどこだったか……

 

 藤子・F・不二雄先生との共作『オバケのQ太郎』を除けば、私が初めて出会った藤子不二雄Ⓐマンガは(記憶の限りでは)『魔太郎がくる!!』でした。小学校中学年(3~4年)のころだったと思います。

 それころの私は、これといって多くのマンガを読むような子どもではなく、「コロコロコミック」の創刊によってようやく毎号のごとく購読するマンガ雑誌ができた感じです。それまでは、マンガを読むといったら小学館の学習誌とかそういう本に載ったマンガを読むのが通常だった気がします。

 当時はⒶ先生の作品がアニメ放送されているわけでもなく、なかなかⒶマンガに出会う機会がありませんでした。

 「週刊少年ジャンプ」や「週刊少年チャンピオン」を少しばかり読んでいた記憶もありますが、そこでⒶ先生のマンガを読んではいないはずです。

 

 そんなわけで、記憶にある限りでは、少年チャンピオンコミックスで読んだ『魔太郎がくる!!』が、私にとって藤子不二雄Ⓐマンガ初体験となるのです。

 読んだとたん非常にハマりました。被害者的な主人公が最後に必ず復讐を遂げる話のカタルシスがたまりませんでした。

 

 当時は2人で1人の「藤子不二雄」名義でしたから、『ドラえもん』や『オバケのQ太郎』の作者がこんな怪しいマンガも描くんだ!と“藤子不二雄の作風の異様な幅の広さ”に驚愕させられもしました。それは他のいくつもの藤子作品で感じたことですが、そのたぐいの驚きを私にはっきり授けてくれた最初の作品が『魔太郎がくる!!』だったのです。

 

 そんな少年時代の経験もあって、Ⓐマンガでいちばん好きなのは?と問われたら『魔太郎がくる!!』と答えることが多いです。

 でも本音を言えば、Ⓐ先生の膨大な作品群からどれか一つを選ぶのはあまりにも難しすぎます。酷です。

 だって、『怪物くん』も『忍者ハットリくん』も『フータくん』も『まんが道』も『少年時代』も『夢トンネル』も『笑ゥせぇるすまん』も『ブラックユーモア短編』も『黒ベエ』も『仮面太郎』も『マボロシ太夫』も『愛ぬすびと』も『プロゴルファー猿』も『ブラック商会変奇郎』も『無名くん』も『ミス・ドラキュラ』も………挙げだしたらキリがないので止めますが、み~んな大好きですもの。藤子不二雄Ⓐワールドは私にとって大好きな作品の宝庫なのです。こうして作品名を単純に列挙しただけでわくわくしてきます。

 

 先述のとおり、私が初めて読んだⒶマンガは(共作を除けば)『魔太郎がくる!!』で、読んだ媒体は連載雑誌ではなく単行本(少年チャンピオンコミックス)でした。

 ただ、残念なことに、最初に読んだ巻が何巻だったかよく覚えていなくて……。

 あの巻だった気もするし、この巻だった気もするし……と初めて読んだ巻候補がいくつかあるのですが、どの巻だったかは定かではありません。1巻とか2巻でないのは確かなのですが……。

 そこで、最初期に読んだ巻の一つであるのは間違いなく、しかも内容的に好みの11巻を重点的に再読しました。私の藤子不二雄Ⓐ体験の原点をたどるという意味で…。

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 あらためて、11巻いいですね~!

 1つめの話が「フランケンシュタインを愛する男」で、初っぱなからグッと心をつかまれます。

 そこから、『ジキル博士とハイド氏』をアイデア元とした「通り魔」、『鏡の国のアリス』をヒントとした「鏡の中へ」と、1話目の「フランケンシュタイン…」も含めてⒶ先生の怪奇幻想趣味がみなぎる話が続きます。

 その次の「黒い雪とともに」はザ・ホラー!というたまずまい。

 「パイ投げ仕掛け人」を読むと、パイ投げってユーモアや冗談としては通用しづらいよな、と痛感させられます。冗談が通じないとはこういうことだ、と見せつけられるような話です。

 「無気味な侵略者」は、あかの他人の家に押しかけて強引に住みつく厚かましいヤドカリ一家の話。ラストの魔太郎の復讐がなんだか理不尽で「おいおいそんな解決でいいの?」と思わせますが、それも含めてインパクト大の一編です。

 11巻の締めは、大人気アイドルスターの裏の顔を描いた「クイズイエスかノーか」。美人やスターの裏の顔を描くって、実にⒶ先生らしいモチーフです。

 

 少年チャンピオンコミックス『魔太郎がくる!!』11巻を読み返したのを皮切りに、Ⓐ先生を偲んでⒶマンガを再読していこうと思っています。

藤子不二雄Ⓐ先生にチューダーで献杯

 4月7日(木)に藤子不二雄Ⓐ先生の訃報に接し、当日はショックのあまり呆然自失とし言葉もない精神状態でしたが、時間とともに(衝撃や悲しみが消えることはありませんが)しだいにⒶ先生を偲ぶ行動をとれるようになりました。

 

 先生の訃報に触れてから最初に迎えた週末には、名古屋の大型書店へ足を運び、藤子不二雄Ⓐコーナーの前でⒶ先生に思いを馳せました。

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 中規模以下の書店だとⒶ先生の本がまったく置いていない場合も多々ありますが、名古屋の中心部にあるこの書店にはこれだけのⒶ作品が並んでいました。

 Ⓐ先生の作品の多くは今電子書籍で読めるのですが、紙の本にどっぷりつかってきた世代としては、やはりⒶ先生の紙の単行本がこうして現役の商品としてリアルに販売されている光景を見ると喜びを感じるのです。

 

 そして今週は

 Ⓐ先生に献杯

 という思いで、火水木と3日連続チューダーをつくって飲みました。

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・4月12日(火)

 この日の19:30からNHK総合で放送されたⒶ先生追悼番組「クローズアップ現代 人間っておもしろい!藤子不二雄Ⓐ 秘蔵映像で迫る“漫画人生”」をリアルタイム視聴したあと、その余韻にひたりつつチューダーを用意。

 

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・4月13日(水)

 

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・4月14日(木)は、友人と二人で天のⒶ先生に献杯しました。

藤子不二雄Ⓐ先生他界

 各メディアで大きく報じられているとおり、藤子不二雄Ⓐ先生が4月7日に亡くなられました。88才でした。

 

 先月10日Ⓐ先生米寿のお誕生日には、藤子不二雄FCネオ・ユートピアの企画「バⒶる写真を撮って送りましょう!」に参加してⒶ先生を祝福したばかりです。

 お誕生日の時点ではⒶ先生がお元気であることを間接的にうかがっていましたし、いつも明るくお元気なⒶ先生のことですから、まだまだ永くご健康に暮らされるだろうと思い込んでしました。Ⓐ先生がいなくなるなんて想像したくもありませんから、先生の末永いご健康を信じるばかりでした。

 

 それなのに、

 4月7日、

 訃報に接することに……。

 

 2004年に当ブログを開設して以来、藤子ファンとして最も訪れてほしくなかった日、訪れるわけがないと信じたかった日が、現実に来てしまったのです。

 

 Ⓐ先生の訃報に触れた瞬間は、それが現実とは思いたくないあまりに心が固まり、頭が呆然としました。

 しばらくして、固まった心が少しほぐれて、我に返ってみたら、つらいような、悲しいような、胸が苦しいような感情にみまわれました。

 その後、Ⓐ先生の訃報を伝えるテレビ番組でⒶ先生がお話になっている姿を見たら、どっと涙が止まらなくなって、ある程度時間が経過して気持ちが落ち着いたかと思ったら、そのうちまた泣けてきて……。

 いったい自分が今どんな感情でいるのかよくわからなくなるくらい、情緒不安定ぎみの時間をすごしました。

 

 呆然としつつ、悲しみつつ、胸苦しくなりつつ、この日の夜は、トキワ荘名物チューダーを飲んでⒶ先生に献杯しました。チューダーをつくる気力だけはかろうじてあったようです。

 

 4月7日から2日がすぎた現在、精神状態はだいぶ落ち着いてきました。

 4月7日の時点では、しばらくはネット上で発信できそうにない……というくらい不安定でつらい精神状態でしたし、そのまま現在もその不安定さが続いてもおかしくなかったのです。

 ところが、私の発信がまるでないことによって、私のことを心配してくださる方が複数名出てきて、これ以上心配をおかけしないためにも、できるだけ早いうちに一度発信しておかねば、という気持ちになってきました。

 決定的だったのは、訃報のあった翌日、手塚治虫先生のご長女・手塚るみ子さんから「大丈夫じゃないと思いますが、気をしっかり持って」といった内容のメールをいただいたことです。

 Ⓐ先生は賑やかで楽しい雰囲気が大好きな方でした。訃報に触れたばかりの日は仕方ないにしても、あんまり長い間しんみりした気持ちで居続けてはⒶ先生に顔向けできないな、と思いました。そして、なんと言ってもⒶ先生とF先生が神様と崇めた手塚治虫先生、その娘さんから「気をしっかり持って」と励まされたのですから、それはもう気をしっかり持ってファン活動するほかない、と踏ん切りがついたのでした。

 

 それで訃報から2日しかたっていない今日、当ブログを更新することになりました。

 ご心配くださったみなさま、ほんとうにありがとうございます。

 

 訃報の当日も翌日も、何名もの藤子仲間からメールやLINEメッセージが届きました。同じ思いの仲間たちと言葉を交わすことで悲しみやつらさを分かち合えたのは一つの救いでした。

 それとともに、Ⓐ先生がほんとうに亡くなってしまったんだ……と認めざるをえない気持ちにもなりました。

 

 部屋の壁に、かつてファンレターのお返事としていただいたⒶ先生の直筆色紙が飾ってあります。

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 ドーンのポーズの喪黒福造やⒶ先生のサインとともに、Ⓐ先生による励ましの言葉が直筆で書かれています。私が何らかの理由で不調なときそのことを手紙に書いて送ったら、こんなにも心のこもったあたたかい色紙が届いたのです。返事がほしいとか色紙を送ってほしいとかそういうおねだりは一切してないのに、ですよ。なんとありがたいお心遣いでしょうか!

 この色紙を受け取ったときは、あまりのサプライズに感涙するばかりでした。

 そして先生の訃報に触れた4月7日には、この色紙を前にして声を出して泣いてしまいました。

 

 この色紙の言葉もそうですが、私はⒶ先生に、Ⓐ先生の作品に、子どものころからずっと元気をもらって生きてきました。これからもそうやって生き続けるつもりですが、Ⓐ先生の他界によって自分の半生において重要で大きな何かが一つぽっかり失われてしまった感覚はぬぐえません。

 

 Ⓐ先生の訃報が出た当日は、あるテレビ番組とあるラジオ番組からコメント出演依頼をいただきました。けれど、タイミングなどが合わず出演には至りませんでした。

 たとえ出演していたとしても、あの日の不安定で沈んだ精神状態では、ふだん以上にまともに話せなかったでしょう。

 でも、そうやってマスメディアからお声をかけてもらえたことを光栄に思います。ありがとうございました。

 

 Ⓐ先生の訃報から時間がたつにつれ、私のなかで「Ⓐ先生の作品もⒶ先生ご自身もすべてが好き!すべてが愛おしい!」という気持ちがふつふつとわいてきています。むろん、そういう気持ちは昔から抱いていますが、今はそれが汲めども尽きぬ泉のごとくこんこんとわき出ている感じなのです。

 作品への盲目的信仰や作家の神格化って批判されがちなところがありますし、私もそういうふうになることにできるだけ警戒してはいるのですが、正直なところ、私がⒶ作品・Ⓐ先生に向けるメンタリティは信仰や神格化に近い気がします。

 ですから、せめて今だけは、「私は盲目的な藤子不二雄Ⓐ信者だ!」と手放しで叫んでしまいたいです。

 今後、信仰とか神格化の件は別としても、精一杯の敬意と感謝をⒶ先生に捧げ続けたいです。Ⓐ先生の作品に魂を救われてきたのは、大げさじゃなくほんとうのことなのですから。

 

 Ⓐ先生、長い間ありがとうございました。先生の作品と足跡はずっと残り続けますから、これからもいっぱい楽しませていただきます。今後もお世話になります。よろしくお願いします。

 

 藤子不二雄Ⓐ先生のご冥福を心よりお祈りいたします

「恐竜の足あと発見」のアクリルキーホルダー

 中国四川省で発見された新種の恐竜の足跡化石に「のび太」の名前がつけられた!

 というニュースが昨年報じられました。

 恐竜が大好きだった藤子・F・不二雄先生が聞いたらどんなに喜ばれるだろう、どんなに感動されるだろう!と思わせるビッグなニュースでした。

 

 当ブログでもそのニュースを取り上げています。

 2021-07-09【新種の恐竜の足跡化石に「のび太」の名が!】

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2021/07/09/184815

 

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 「のび太」の名がついた足跡化石(エウブロンテス・ノビタイ)のレプリカが、昨年から藤子・F・不二雄ミュージアムで展示されています。

 それにちなんで、ミュージアムオリジナルの恐竜グッズが3種類発売されました。

 http://fujiko-museum.com/blog/?p=31220/

 

 そんな恐竜グッズのひとつ「二層アクリルキーホルダー(恐竜の足あと発見)」をこのたび購入しました。

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 藤子・F・不二雄ミュージアムへ出かけたわけではありません。通販で買ったのでもありません。

 愛知県在住の藤子仲間ZさんがFミュージアムに行ったとき私に代わって買ってきてくれたのです。

 てんとう虫コミックスドラえもん』44巻に収録された「恐竜の足あと発見」をモチーフにデザインされたアクリルキーホルダーで、発売を知ったときから心誘われていたので、わが家にお迎えできてうれしいです。

 

 前述のとおり、のび太の名前がつけられた化石は恐竜本体のものではなく恐竜の足跡の化石でした。

 今日は、その恐竜の足跡化石とF先生の関係に着目してみます。

 恐竜の足跡化石とは、F先生にとって、私が今まで抱いていた印象よりはるかに重要で強い愛着や好奇心の対象だったのではないか、とこのごろ思うようになってきたのです。

 

 恐竜の足跡化石って、私のような一応は恐竜好きだけれどこれといって恐竜に詳しいわけではない者にとっては、恐竜の全身骨格化石などと比べるとずっと印象が薄いものでした。しかし、真正の恐竜好きであるF先生にとってはそうではなかったようです。

 

 なにしろ、恐竜の足跡化石をメインの題材にして『ドラえもん』の1編を描いておられるくらいですからね。前掲の「恐竜の足あと発見」のことです。

 

 そして、恐竜の足跡化石とF先生というと、先生のこんな言葉を思い出します。

1954年(昭和29年)ごろのことでしたか、上京してからのことだったと記憶しています。雑誌の口絵で、水たまりの中で水遊びをしている子どもの写真を見つけました。よく見ると、水たまりに見えた大きな穴は、実は巨大なブロントサウルス(アパトサウルス)の足跡だったのです。

 (略)

こんなに大きな足跡を残した生き物――恐竜って、どんなに巨大なのだろう、とあらためてその巨大さに驚いたものでした。幼いころから、恐竜大好き人間だったぼくです。好奇心がムラムラとわいてきたのを、今でもおぼえています。

(てんとう虫ブックス『藤子・F・不二雄 恐竜ゼミナール』1990年、小学館発行)

 

 F先生は恐竜の足跡にそうした思い出をお持ちだったのです。

 F先生がお若かったころに体験したり感じたりした恐竜関連の記憶はさまざまあったことでしょうけど、そのなかでも特に思い出深いものが足跡化石の写真を見て驚いた記憶だったわけです。

 

 続けてF先生は、足跡化石にこんな解説を加えます。

この恐竜の足跡化石は「生痕」といって、恐竜が生きていた時のままを記録しているものです。骨格化石などが恐竜の全体像を想像させてくれるのに対し、この足跡化石は、歩幅を測ることによって歩行のスピードが推測できるのです。恐竜の生活を知る上で、たいへん貴重な資料ということがいえます

 F先生はこんなにも足跡化石のことをご存じで「貴重な資料」とおっしゃっているわけですから、先生の足跡化石に対する思い入れは一般の人が感じるよりもはるかに強かったのだろう、とそう思うのです。

 

 前掲の『ドラえもん』「恐竜の足あと発見」のなかでF先生は、ドラえもんに「足あとが化石となって残るのは、ひじょうにめずらしいことだからねえ。こういう大発見は、二度とないんじゃないの。」と言わせています。ここでも足跡化石の貴重さが示されています。

 

 「のび太」の名前が恐竜の“足跡”化石についたという出来事は、当初私が感じた以上に藤子・F・不二雄的世界と親和性の高いことなんだあと、お迎えしたばかりのアクリルキーホルダーを眺めながら感慨にふけっているところです。

4月1日は黒べえの誕生日でした

 きのう(4月1日)は四月バカ(エイプリルフール)でしたが、『ジャングル黒べえ』の主人公・黒べえの誕生日でもありました。

 「タイガーからのプレゼント」(初出「小学二年生」1973年10月号)という話のなかで、黒べえ自身が「黒べえの誕生日は四月一日。」と明言しています。

 

 つまり、黒べえはまさに四月バカの当日に生まれたわけです。

 

 四月バカは、嘘をついてもよい日とされています。もちろん、その嘘は、罪のない、軽い、楽しいものでなければなりません。相手をおとしいれる噓、ダメージを与える嘘、シャレにならない嘘はいけません。

 そういうマナーをわきまえたうえで嘘をついてもよい日に、黒べえは生まれたのです。

 

 ところが、黒べえは大の嘘嫌いなんですよね。嘘つきと思われることも非常に嫌います。

 たとえば、「魔法で雨降らす」(「小学二年生」1973年3月号)のなかで、自分の言ったことを疑われた黒べえはただちに「黒べえうそつかないっ。」と怒りました。それは、自分は絶対に嘘はつかないという宣言でもありました。

 

 そんな性格の黒べえですから、四月バカという風習も認めません。

 「二本足のゾウ」(「小学五年生」1973年4月号)という話があります。4月1日の出来事を描いた話です。この話のなかで“四月バカ”という言葉を初めて聞いた黒べえは「バカとはなんだ!」と激怒。四月バカとは嘘をついてもいい日だと教えられても「うそ悪い!これジャングルの常識。」「よくないことおこる、かならず!」と本気で怒ったのです。

 

 それほどまでにガチンコで誰よりも嘘を嫌う黒べえが、一年のなかで最も嘘をついてもよい日とされる4月1日に生まれたというのは、なんだか少し皮肉めいていて面白いなと思うのです。

 

 そんなまっすぐすぎるほど愚直に正直なところが黒べえの魅力なのです。

 一日遅れてしまいましたが、黒べえ誕生日おめでとう!ウラ~!!