最近「藤子不二雄」以外に読んだ本

 この日記では、基本的に「藤子不二雄」に関係のあることのみを話題にしていくつもりだが、たまには寄り道もいいだろう、ということで、今日は、私が最近読んだ「藤子不二雄」以外の本について書いてみたい。
 最近読んだ本の中から、コメントする意欲のわいたものを選んで取り上げるが、最近読んだ本だからといって、最近出版された新刊とは限らないことをお断りしておく。




●『硝子のハンマー』貴志祐介角川書店/2004年4月20日初版発行)


 貴志祐介氏にとっては4年半ぶりの新作単行本であり、初めての本格ミステリーである。
 私は、貴志氏の作品では『黒い家』『天使の囀り』といったホラーテイストの小説が好みなので、まっとうな本格ミステリーの本作は、ちょっと物足りなかったというか、期待していたものと内実がズレていたという感じだ。でも、以前より氏は「今度の新作は本格ミステリー」と明言していたわけだから、期待とズレていた、というのは不当な言い方だろう。
 決して作品そのものの水準が低いというわけでなく、本格ミステリーとしては丁寧に謎を追究しており、最後まで確実に読ませてくれるから、この本を買って損をしたということはない。
 本作は密室物といえるが、その密室の在り処が、絶海の孤島でも奇怪な洋館でもなく、東京六本木に建つ普通のオフィスビルであるという点は、なかなか興味深い。その密室を密室たらしめている構成要素も見どころだろう。


 本作にはとにかく防犯関係の知識が続出するので、読んでいくうちに防犯意識が高まっていく効果もあるが、逆に、自分のような素人がどんなにしっかり施錠をしても鍵は開けられてしまうんだ、というあきらめの気持ちも生じてくる。
 この著者には、また『黒い家』や『天使の囀り』のようなエグみのある小説を、巧緻な構成力と綿密な取材力で読ませてもらいたい。




●『鉄鼠の檻京極夏彦講談社/1996年1月5日第1刷発行)【再読】


 京極堂が憑き物落としをして事件を解決する「妖怪」シリーズ第4弾。このシリーズは2003年に出た『陰摩羅鬼の瑕』が最新刊で、私もそこまで読んでいるのだが、次回作がいつ刊行されるか知れないので、過去の作品を読み返して待ち遠しさを紛らわせている次第だ。
 長大なページ数の小説だが、一度読んだことがあるのにもう一度読み返したくなるくらい、その長さが苦痛にならない。むしろ、作品世界にどっぷりと浸からせてくれるその長大さが心地よいくらいだ。京極氏の作風が苦手な人は、この本のとてつもない厚さを見ただけでげんなりするだろうが…。


 本作は「禅」にまつわる知識が頻出し、とくに禅の歴史や宗派について大ざっぱに知ることができる。しかし、禅の歴史や宗派などの知識をいくら知りえても、禅の本質、禅の何たるかは、言葉では伝えられないという。禅の何たるかをつかんだと思って言葉で表現した瞬間、その言葉は真実から遠ざかってしまうというのだ。禅というのは、科学や論理では解明できないものであり、修行によって、坐禅を組むことによって体得するものであるらしい。
 そういえば、藤子不二雄A先生の生家である富山県氷見市の光禅寺は、禅宗の一派である曹洞宗のお寺だから、そこで子ども時代をすごした藤子A先生と禅が無関係というわけではないだろう。藤子A先生の魂の原風景に接近するためにも、少しは禅について学んだほうがよいのかもしれない。といっても、禅の修行をする気は毛頭ないから、いつか一冊くらい禅に関する本を読んでみたい。




●『PLUTO』1巻 浦沢直樹×手塚治虫小学館/2004年11月1日初版第1刷発行)


 手塚治虫先生の代表作『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」を原作にした長編コミック。この作品は、浦沢氏による手塚先生へのオマージュであるといえるだろう。
 浦沢氏本人が語っているように、手塚先生が「地上最大のロボット」で描写しなかった「コマとコマの間」、すなわち「行間」に秘められた物語を、浦沢氏の想像力が埋め込んでいった作品が、この『PLUTO』なのである。
 氏が『MONSTER』で成功させたミステリー&サスペンスの手法を用いて、読者を次の回へ次の回へと誘惑しながら引っ張っていってくれる。今後も水準以上のドラマが展開されることは想像に難くなく、第2巻の発売が今から非常に楽しみだ。


 浦沢氏が現在「ビッグコミックスピリッツ」に連載中の『20世紀少年』も単行本を買って愛読している。 この作品に、忍者ハットリくんのお面をした人物が登場するのだが、浦沢氏はハットリくんを使用する許可を藤子A先生から得ているそうである。版権料を払っているというのではなく、個人的に許可をもらったということだろう。『20世紀少年』には、両藤子先生をモデルにしたと思しき人物も出てくるので、藤子ファンとしてはその辺が見どころか!?




●『新ゴーマニズム宣言13 砂塵に舞う大義小林よしのり小学館/2004年3月10日初版第1刷発行)


 この一冊は、アメリカが仕掛けたイラク戦争大義がテーマになっている。強いアメリカに従っていればそれが国益になると主張する親米保守派の知識人を「ポチ保守」と呼び、彼らの無節操さや不道徳さ、情けなさを徹底的に批判している。
 アメリカがイラクを攻撃した大義名分は「イラク大量破壊兵器を保持しており、それがテロリストに渡る可能性があるから」であり、日本の「ポチ保守」もその大義名分を支持していたはずなのに、アメリカが実際に開戦しイラク国内を調査してみればそんな兵器は見つからず、見つからないとわかったとたん「ポチ保守」たちは「独裁者フセインからイラクの人民を解放するための戦争であった」などと大義名分をすり替える発言を平気で行なった、というのである。
 私は、小林よしのり氏の思想に共鳴する者ではないし、氏が「ポチ保守」と呼ぶ親米保守派の知識人を否定する立場でもないが、日本の知識人たちの行状をからかい批判するこのマンガを、読み物として痛快に感じる。


 藤子ファンの立場で読めば、151頁の「手塚治虫藤子不二雄ら、権威ある大作家と一緒に連載して、人気投票で勝ったこともあるし… 新人漫画家にも負けて、人気がビリになって、連載を打ち切られたこともある。」という一コマが最も気にかかる。「手塚治虫藤子不二雄」という名前を出しているのに、そこに添えられた似顔絵は手塚治虫先生と藤子・F・不二雄先生のみで、藤子不二雄A先生が描かれていないのが大いに不満なのだ(笑)




●『レディ・ジョーカー』上・下巻 高村薫毎日新聞社/1997年12月5日第1刷発行)【再読】


 重厚でリアルな物語である。再読といっても、初めて読んだときはなぜか途中で飽きて適当に読み流してしまったので、まともに読むのは今回は初めてのようなものだ。前回どうして飽きてしまったのか不思議になるほど、最後の最後まで夢中になって読破することができた。
 競馬場で出会った、一見バラバラな生き方をしている人間たちが企てた大企業恐喝事件を詳細に追った作品で、高村氏の硬質な文体によって、個人の闇、企業の闇、社会の闇が丹念に炙り出されていく。犯人、警察、企業、マスコミ、それぞれの視点から物語が語られていき、それらの人間たちが織り成す濃密なドラマに圧倒される。高村氏の小説はどれもそうだが、全体的に男くさい作品でもある。(いうまでもなく高村氏は女性であるのだが)


 そしてまた本作は、同じ著者の『マークスの山』『照柿』に続く、合田雄一郎警部補を主人公とした3部作?のラストの作品にあたる。私は『マークスの山』で高村作品に魅惑された。これは、警察ミステリーの傑作で、警察の内部事情をよく取材しているし、トリックや謎解きがあるわけではないのに、最後までワクワクしながら読み通すことができる。『照柿』は、『マークスの山』のようなワクワク感というかエンターテインメント性を期待して読むと見事に裏切られる。部品工場の内部の描写が暑苦しいほどに執拗で、そこがいちばん印象に残った。ミステリーとか娯楽小説というより、純文学の趣がある。




●『どうせ死んでしまう…… 私は哲学病。』中島義道角川書店/2004年7月30日初版発行)


 この哲学者の本をこれまでに何冊買って読んだだろうか。ファンレターを出して返事をいただいたこともある。
 中島氏の専門であるカントとか時間論をテーマにした本は、読むのに骨が折れてついていけない部分もあるが、中島本の愛読者として頑張って読んでいる。私がとりわけ好んでいるのは、氏が、自分独自の考え方や人生を語ったエッセイとか、一般向けに著した哲学の入門書である。
 孤独で不幸な少年時代をすごした中島氏は、東京大学に入って以後も不器用にしか生きられず、50代にして、人生を<半分>降りる、という我流の半隠遁生活を選択することで、こんにちを送っている。そして氏は、過去から今までずっと、「どうせ自分はいつか死んでしまう」という哲学的命題に絡め取られているという。
 孤独とか不器用というと繊細で弱々しい人物像が思い浮かぶかもしれないが、中島氏の場合はそうではない。もちろん中島氏にも繊細で傷つきやすい側面はあるのだが、彼の本から読み取れる彼の性質は、好き嫌いが激しくて戦闘的で偏屈で、ときには凶暴ともいえる攻撃性を見せてくる。
 私は、そんな中島氏の書く本を、人生に役立てるとか哲学の勉強のためとかではなく、純粋に面白いから読んでいる。本の至るところで遭遇できる中島節の炸裂に快哉を叫んでいるのである。彼の考え方や生き方に共感できる点も多々ある半面、こんなオヤジが近くにいたら鬱陶しいなと感じることも多い。
 本書は「私は哲学病。」シリーズの第二弾で、中島氏があちこちに書いたエッセイを集めたもの。「根本悪」に関する論考は読み応えがある。




●『子どもの王様』殊能将之講談社/2003年7月31日第1刷発行)


 殊能将之氏は、私にとって新作が最も楽しみな作家の一人である。最新作の『キマイラの新しい城』もすでに読んだが、それより前に『子どもの王様』について触れてみたい。
 本書は、子どもばかりか大人も楽しめる児童書をいま人気のミステリー作家たちが書きおろす「ミステリーランド」という企画の中の一冊だ。
 殊能氏の作風は、ふざけているのかまじめなのか、読者をからかっているのか真剣なのかつかみかねるような、人を食った、一筋縄ではいかないものであるのだが、『子どもの王様』に限っては、児童書ということもあって素直な文体と構成で書かれている。団地という空間にひそむ不思議と恐怖が、読む者の心にそろりと忍び込んでくる作品だ。殊能氏の団地という場所への思い入れが、この作品を書かせたのかもしれない。
 素直な作風といえど、ラストの残酷さに接すると、やはり殊能氏の「らしさ」が表出しているような気がする。




●『キマイラの新しい城』殊能将之講談社/2004年8月5日第1刷発行)


 なかなか凝った設定のミステリーだ。中世フランスの古城を日本に移築復元してテーマパークを経営している社長に、その古城の城主の霊が憑依した。社長に憑いた霊は、750年前に城内の密室で何者かに自分が殺害されたと主張する。そんな大昔の奇妙な密室殺人を解決するために、殊能作品でお馴染みの名探偵・石動戯作が立ち上がる… といったところから話は始まるのだが、本書の帯で「この話を書けるのは殊能将之の他にいない!」と宣伝されているように、まともな筋道では終わらないミステリーになっている。
 藤子ファンの目線で読めば、途中で藤子ネタがちょっと出てくるのが嬉しい。「石動のはらわたは煮えくりかえった。この怨み晴らさでおくべきか! いけない、これじゃハリー・ポッターじゃなくて、うらみ魔太郎だ、と石動はすぐに反省した。まあ、どちらも眼鏡くんにはちがいないけれど」というくだりがあるのだが、どんな文脈で出てくるのかは読んでのお楽しみということで。