藤子不二雄A先生特別公開講座(その1)

 27日(水)、岐阜県大垣女子短期大学で、藤子不二雄A先生を講師に招いた特別公開講座が開催された。毎年一回ずつ開かれ、今年で八年目になるそうだが、私はこれで三回目の聴講となる。


 今年の演題は「まんが道 52年…」。大垣女子短大のサイトでは、以下のように告知されている。

日 程:平成16年10月27日(水曜日 15:00〜16:30)
場 所:大垣女子短期大学記念館3階 多目的ホール
定 員:80名
講 師:大垣女子短期大学客員教授 藤子 不二雄A
材料費:無料
内 容:笑うせぇるすまんなどでお馴染みの藤子不二雄A先生が、
    マンガ家を目指す学生達に、マンガ制作のヒントになれ
    ばとマンガ家人生52年を振り返り、語っていただきます。

 この講座は、本来6月30日に実施される予定だったのだが、局地的な豪雨のため新幹線がストップし、藤子A先生が大垣まで来られないという事態になり、結局延期されることになったのだ。その振替日として、10月27日が選ばれたのである。


 私が藤子ファン仲間とともに大垣女子短大に着いたのは、午後2時ごろ。それから2時50分まで、公開講座の会場である多目的ホールの前で知り合いと駄弁っていた。
 多目的ホールに入るとすぐに最前列の席に座り、藤子A先生が入場されるのをワクワクしながら待った。


 時が来た。ついに本日の主役・藤子不二雄A先生が多目的ホールに入場してきたのだ。
 先生は、所定の位置まで歩く途中で、一番前の席に座っている我われを目ざとく見つけ、ニヤリと笑いながらこちらに向けて指をさしてこられた。今月11日に会ったばかりなので、「おやおや、また来てるな」といった表情であった。


 例年と違う趣向として、当短大音楽総合科ウインドアンサンブルコースの生徒たちによる演奏会が開かれた。藤子A先生入場時に「オバケのQ太郎(モノクロ版)」「忍者ハットリくん」の主題歌が、藤子A先生の入場が終わると「少年時代」が演奏された。これは、藤子A先生の古稀を記念しての特別企画だそうで、演奏を聴き終えた藤子A先生は「素晴らしい演奏で本当にありがとう」と感謝の気持ちを述べられた。


 
 そうして藤子A先生の講義が始まった。先生のお話の導入部は、こんな内容であった。


●「この短大の篠田英男教授とは、ゴルフや野球やお酒などで一緒に遊んできた長い友人。その縁で、一年に一回こうして大垣へやってきている」


●「ここに来ると、(聴いている人の)反応がよくて話しやすい。ゴルフ仲間が渋谷警察署長になった縁で、警察官の前で講演をしたことがあるが、冗談を言っても笑いがなく、みんな下を向いて一生懸命メモをとってばかりだった。それで、一時間の予定だった講演を30分で切り上げた」


●「ぼくは昭和9年3月10日生まれ。今年で70歳になった。スタッフや編集者など若い人とばかりつきあっているので、自分が70歳と思うと愕然とする」


●「プロのマンガ家といっても、ライセンスも保障もない。いったんデビューできたとしても、その後二度と作品が載らないかもしれない。手塚先生でもぼくでもちばてつやさんでも、人気がなければ連載を切られる。タレントよりも厳しい世界だ。そんな厳しい世界で長年やってこれたと思うと、今さらながら感慨深い」



 そんなお話をされたあと、デビュー前からトキワ荘時代までの様々なエピソードを、スクリーンに資料画像を映しながら語っていかれた。
 そのとき取り上げられた題材なりエピソードなりを、ざっと書き連ねてみよう。「」内は藤子A先生の発言を私なりに要約したもの。


小松崎茂のペン画の模写
「ぼくは、(マンガ創作の手始めとして)模写から入った」


●一般雑誌に投稿・採用された4コママンガ『大奇術』『遺作』
「『遺作』の作者名義は誤植で「牛塚不二雄」になっている。(正しくは「手塚不二雄」)」


●デビュー作『天使の玉ちゃん』
「送られてきた封筒を開けたら、稿料として5000円が入っていてびっくり仰天。さすがは毎日新聞社と思った」


手塚治虫先生から初めてもらったハガキ
「昭和24年にもらった。文章が渦巻状になっている。ファンレターを出すと、3回に1回の割合で返事をもらえた」


●手塚先生の自宅(宝塚)を訪問
「手塚先生のお母さんに玉子どんぶりをとってもらった」


富山新聞社時代
「取材で選挙事務所巡りをしたとき、お金の入った封筒を渡された。当時は清廉潔白な青年だったので、こんなことで買収されてたまるかと突き返したが、今ならもらっておく(笑)」
「新聞社をやめて一番残念だったのは、後輩の竹内さんとの別れだった」


●上京して両国の2畳間で下宿
「狭すぎて、座ると壁に背中がくっついてしまった」


トキワ荘入居
「手塚先生が出たあとの部屋に転入。家賃3500円、敷金30000円。敷金は手塚先生がそのまま置いていってくれた」


トキワ荘時代
「深夜になっても明かりが消えなかった」
「藤本くんは高岡からお母さんを呼んで、隣の部屋に移動」
「手塚先生からいただいた机で原稿を描いていると、手塚先生のオーラが乗り移ってきて、自信が湧いてくる」
「新人が少なく、すごい量の仕事が山積した」
「ペンの速さには先天手的な差がある。ペンの速い・遅いは真円を描かせるとわかる。手塚先生や石森章太郎は一筆書きのようにすばやく描ける。藤本くんもぼくも、ジ・ジ・ジ・ジと、円を描くのに時間がかかる」
「この時代がずっと続くといいなと思った」
「暇だったので野球もよくやった」
「河口湖へ旅行。石森のお姉さんも同行した。石森はあんな顔をしているのに、お姉さんは美少女。同じ親から生まれたのに、本当に違いすぎる」
「映画『白鯨』のグレゴリー・ペック演じるエイハブ船長の扮装をした」
並木ハウスの手塚先生の部屋で、『ジャングル大帝』の最終回の原稿を手伝った。吹雪を点々で描いた」



 次に、藤子A先生がこれまでに発表してきたマンガ作品を一作一作解説していく、という講義スタイルに移行。ここでも、スクリーンに各作品の印象的なページを映しながら、話を進めていかれた。


●『西部のどこかで』(「少年少女冒険王」昭和27年12月号)
「最初に少年雑誌に載った作品」


●『ロンリーガン』(「冒険王」昭和36年9月増刊号)
「映画的なタッチ。扉のバックは、線を使わず絵の具の青だけで表現。ほかの人がやらないことをやった」


●『砂漠の牙』(「漫画少年」昭和29年11月号)
「ドキュメンタリー・タッチ。戦車や背景を克明に描いた。ほかの雑誌には絶対に載せてもらえなかっただろう。漫画少年という雑誌は、好きな作品、実験的な作品を描かせてくれた。原稿料はもらえなかったが(笑)」


●『ロケットくん』(「ぼくら」昭和31年5月号〜32年12月号)
「宇宙マンガ。昔はこういったSFマンガも描いた。今は描かないので懐かしい」


●『大鴉』(「少年」昭和37年夏休み増刊号)
「ホラー映画をマンガで描こうと考えた。大ガラスと大フクロウが戦う話」


●『シルバークロス』(「少年」昭和35年6月号〜38年8月号)
「ぼくは仮面が好き。この作品は人気があった」


●『怪人二十面相』(「少年」昭和34年2月号〜35年5月号)
江戸川乱歩原作。一種の推理マンガ」


●『劇画毛沢東伝』(「週刊漫画サンデー」昭和46年1月2日号〜5月1日号)
毛沢東率いる紅軍の長征を描いた歴史ドラマ。ナンセンス・マンガ専門の漫画サンデーに劇画が初めて載った。70歳のおじいさんからファンレターが来た。右翼からは、あんなマンガを描くと危ないぞ、と脅しの手紙が届いた」


●『愛ぬすびと』(「女性セブン」昭和48年5月16日号〜8月8日号)
「女性セブンには園山俊二のようなギャグマンガは載っていたが、いわゆるコミックとか劇画といったものはなかった。当時は、30代のオールドミスを狙った結婚詐欺が流行っていたので、それを調べて描いた。主人公の美青年が奥さんを救うために結婚詐欺をしている、という大義名分を考えた。人気アンケートで芸能人のスキャンダルなどを押しのけてトップになった。連載終了後、次もまた描いてくれと言われ、『愛たずねびと』を描いた。愛シリーズ3部作として、『愛かりうど』も構想していたが、忙しくて実現できなかった。日本人の男がブラジルへ行って現地の女性をだまし、その女性の夫であるブラジル人の男が復讐のため日本へやってくる、といった話になる予定だった』


●『添乗さん』(「サンデー毎日」昭和48年1月7日号〜49年1月20日号)
「添乗員を主人公したナンセンス・ギャグ」


●『ミス・ドラキュラ』(「女性セブン」昭和50年6月11日号〜55年10月23日号)
「オールドミスのOLが美女に変身」


●『オヤジ坊太郎』(「週刊少年キング」昭和50年2月10日号〜51年8月30日号)
「ぼくは変身ものが好き。平凡な子どもが、突然大金持ちの青年実業家に変身する」


●『プロジェクトPOS』(「夕刊フジ東日本版」昭和63年3月29日〜6月25日)
「新しい自転車の開発に挑む実録マンガ。ぼくはビジネスという分野が苦手だが、主人公が豪快な魅力を持った人でおもしろかった」


●『パーマンの日々』(「ビッグコミック」昭和53年4月25日号〜55年11月25日号)
さいとう・たかを石森章太郎らが連載していたビッグコミックは一流の雑誌で、ぼくも連載マンガを描きたかったが、当時は忙しかったので、ちょっとしたものならということで連載した。ぼくは随筆(エッセイ)が好きだったので、絵の入った随筆ということでコミックエッセイを開発した」


●『サドンデス』(「スーパージャンプ」平成3年3月号〜4年4月22日号)
「ぼくは集英社にはあまり描かないのだが、子どもの頃ぼくのマンガを読んでいたという伊藤記者が連載を依頼してきた」


●『オバケのQ太郎』(「週刊少年サンデー」ほか多数の雑誌で連載)
「怖いイメージのオバケをかわいくした作品。オバQの姿のモデルはペンギン。名前は、安部公房の小説を開いたらQの文字が目に入ってきたことから発想。Qの文字は尾っぽがはえていてユーモラス。でも『オバケのQ』だけでは冷たい感じなので、日本人男性の代表的な名前である『太郎』をつけた」


●『忍者ハットリくん』(「少年」昭和39年11月号〜43年2月号 のちに小学館の学習雑誌などでリバイバル
「ぼくの作品がアニメ化されると、キャラクターにアニメーターの個性が出て、ぼくの描くものと違ってしまう。だから、自分の個性を出したいアニメーターと、原作通りにやってほしいぼくとで相容れなくて揉めることが多い。でもこの『忍者ハットリくん』はそんなこともなく、ぼくが見ていても楽しいアニメになった」


●『怪物くん』(「少年画報」昭和40年2月号〜44年5月号 「週刊少年キング」昭和42年6月11日号〜44年5月4日号 のちに小学館の雑誌でリバイバル
ハットリくんは尽くすタイプだが、怪物くんは自分勝手」


●『パラダイス』(「ビッグコミック」昭和45年1月25日号)
タヒチ旅行の思い出を描いた。宿泊したバンガロー風の部屋で就寝のため明かりを消したら、ワオーンと聞こえてきた。ものすごい数の蚊だった。全身が焼け付くように痛い。横に殺虫剤があったので噴射してみたら、からっぽだった(笑) 一睡もできなかった。当地で知り合った白人男性の部屋に誘われ、行ってみると、彼は同性愛者だった。以前に習った空手の技で危機を脱出。貞操を守ることができた(笑)」


●『B・Jブルース』(「ビッグコミック」昭和44年9月25日号)
●『魔雀』(「ヤングコミック」昭和45年1月13日号)
「ギャンブルは人間の色んな面を出すゲーム。日ごろ冷静な人でも負けがこむと人間が変わって別の面を見せる。人間観察によい」


●『赤紙きたる』(「ビッグコミック」昭和46年10月10日号)
再軍備の問題が騒がれた時代に描いた。ある青年に召集令状が届く話。一つのページの上半分がギャグタッチで、下半分がリアルなジェット機、これはアンバランス、ミスマッチの効果で読者を引きつける手法」


●『ひっとらぁ伯父サン』(「ビッグコミック」昭和44年月1日号)
ヒットラーという人物に強烈なイメージがあった。ある町にヒットラーに似た伯父さんがやってきて徐々に独裁していく話。風刺劇画」


●『まんが道』&『愛…しりそめし頃に…』
「『まんが道』は主人公が一生懸命やる純粋なマンガだが、『愛…しりそめし頃に…』はマンガ以外の色んなこと、女性やお金への興味などとマンガを両立する青年を描いている」


●『プロゴルファー猿』&『サル』
ハットリくんや怪物くんは歳をとらない。たまには主人公が成長するマンガもある」


●『魔太郎がくる!!』(「週刊少年チャンピオン」昭和47年7月17日号〜50年11月24日号)
「この作品も、主人公が成長したところを、のちに描いた」


●『用心棒』
「単行本のために描きおろした。描き終わったときの喜びが大きかった」


 そんな様々な作品解説の中で私が特に興味を持ったのは、『ミス・ドラキュラ』の話のときである。
 藤子A先生は「つい最近『ミス・ドラキュラ』単行本化の話があり、テレビ化の話もあった」とおっしゃったのだ。単行本化の話とは、「復刊ドットコム」の投票で100票集まったことによる復刊交渉のことだと思うが、テレビ化の話とは何だろう。具体的なことは何も聞けず、もしかしてずっと過去の話かもしれないが、もし現在の話だとすればこれは凄い情報だ。
『ミス・ドラキュラ』がテレビ化されるとしたら、連続ドラマだろうか?
 それから、『愛ぬすびと』『愛たずねびと』に続き、愛シリーズ3部作として『愛かりうど』を構想していたが実現しなかった、という話も興味深い。日本人の男がブラジルへ行って現地の女性をだまし、日本に帰国する。そして今度は、だまされた女性の夫が日本へやってきて日本人の男に復讐を行なっていく。もし実現していたら、凄まじくおもしろい作品になっていたに違いない。
 聴講者が最も笑ったのは、タヒチ旅行のさい同性愛者の男に攻め寄られ、危うく貞操を奪われそうになった、というエピソードだろうか。



 マンガ作品の解説が終わると、藤子A先生のマンガ以外の仕事に関する話題に移行した。
 あるゴルフ場のキャディ・従業員の制服デザインや、富山県警のマスコットキャラクター「立山くん」、富山県黒部の水をキャラクター化した「ウォー太郎」と紹介したところで、予定の時間を15分ほどオーバーしていることに気づいた藤子A先生は、まだ話の途中でありながら、やむをえず結びの言葉に入られた。
 以下は、大垣女子短大でマンガを学んでいる学生に向けての言葉である。


●「マンガは今、ゲームやインターネットなど、多様なジャンルに広がっている。色んな方法で色んなジャンルに応用してほしい」
●「きれいな風景を描くだけではマンガにならない。マンガは人間・生き物を描くことでマンガになる」
●「ぼくはもうみなさんにバトンタッチする世代。みなさんには、ぜひマンガに尽くしていってもらいたい」


 こうして藤子A先生による熱のこもった講座は終了した。先生は多目的ホールを退場、控え室の方へ向かわれた。あとで聞いたところによると、用意してきた話題の半分くらいしか話せなかったそうである。


 我われは、藤子A先生が出てこられるであろう建物の出口で、藤子A先生の出待ちをすることにした。すると、先生は大垣には泊まらずこれから帰京される、との情報がもたらされた。30分ほどで出てこられ、我われに声をかけてくださってから、待たせてあったタクシーに乗り、帰途に着かれた。


 実はこのあと、同短大で教鞭をとっておられるマンガ家の長谷邦夫さん、篠田英男さんとともに居酒屋でお酒を飲ませていただいた。マンガ界の裏話から、トキワ荘スタジオ・ゼロ時代の思い出話まで、本当に興味深く、ときには過激でときにはお下劣なお話を大量に聞かせていただいた。そのレポートは、次回の日記で書くことにする。