「入れかえロープ物語」「まんが家ジャイ子」放送

 本日6月3日(金)のアニメ『ドラえもん』は、「入れかえロープ物語」と「まんが家ジャイ子」の2話を放送した。その2話の間には、いつものとおり「ミニシアター」が挟み込まれた。


●「入れかえロープ物語」

原作サブタイトル:「男女入れかえ物語」
初出:「小学六年生」1985年7月号
単行本:「てんとう虫コミックス」42巻などに収録

 今日放送されたこの話は、何といっても絵が素晴らしかった。キャラクターのひとりひとりが端正に生き生きと描かれていて、とくにしずかちゃんの顔の整い方は秀逸だった。構図やアングルなどにさりげない工夫もあって、絵が全体的にとても魅力的に見えた。
 これはいい!と思って、録画したビデオで作画監督の名前を確認してみたら、富永貞義さんだった。道理で端正なはずだ。シンエイ藤子アニメ作画監督で私が最も好きな一人である富永さんが『わさドラ』も担当してくれるとは僥倖である。Bパートの「まんが家ジャイ子」の作画監督は中村英一さんだったので、『大山ドラ』時代を支えたベテラン作画監督2人が揃い踏みした格好だ。こんな豪華な取り合わせが『わさドラ』で実現するとは思ってもみなかった。


 そのように、本作は絵を観ているだけでほぼ満足だったが、そのうえ冒頭のセピア色の回想シーンからぐいっと作品世界に引き込まれ、お話も充分に楽しめた。
「入れかえロープ」によってしずかちゃんの身体になったのび太が、女の子の友達3人と遊ぶシーンがある。そのシーンで「便器にお尻がはまっちゃって」と話すしずかちゃん(心はのび太)の身ぶり手ぶりがおもしろかった。そんなしずかちゃんの意外なお下劣ぶりに、友達3人の気持ちがしずかちゃんから引いていく様子もよかった。
 しずかちゃんの部屋の本棚に、藤子・F・不二雄先生が「好きな児童文学ベスト3」の1冊に挙げられた『子鹿物語』が並んでいたのも嬉しい。『子鹿物語』は、『劇画・オバQ』の下敷きになった作品である。
 


 この「入れかえロープ物語」の原作は、「てんとう虫コミックス」42巻などに収録されている「男女入れかえ物語」である。今年4月の第1回放送以降、原作に忠実なサブタイトルを付け続けてきた『わさドラ』が、今回ついに、目につく改題を行なってしまった。改題の理由は当然のごとく公表されていないが、おそらく「男女」という箇所に配慮が必要と判断して改変したのだろう。(「男女入れかえ物語」の初出時サブタイトルは「入れかえロープ」だったので、今回のサブタイトル改変でそちら側に寄せた、とも言えるだろう)
 サブタイトルばかりでなく、話の中身にも同様の改変が及んでいる。原作の序盤では、しずちゃんのび太が「女の子ってそんだなあとつくづく思うわ。」「ぼくなんかときどき、女に生まれてたらよかったのにと……。」「そんなことない!男のほうがいいわ。」と議論を交わしているのだが、そうした「男女」を意識させる台詞が、今日のアニメ版ではことごとく削除され、別の表現に改められているのだ。男と女の差を強調した〝性の入れ替え〟から、のび太としずかという〝個人の入れ替え〟に主眼をシフトしているのである。


 これは、現代社会に浸透しつつあるジェンダーの問題に配慮しての処置だったと考えられる。
 男と女を分ける性差とされてきたもののほとんどが、実はその個人の生まれつきの特性ではなく、社会的・文化的につくられたものであり、そんな社会的・文化的につくられた性差のことを、生物学的な性差である「セックス」と区別して「ジェンダー」と呼ぶ。
 ジェンダーの問題を意識することで、「男とはこういうもの」「女はこうすべき」と当たり前のように思われてきた固定的・伝統的な「男らしさ/女らしさ」の観念を相対化し、ジェンダー・バイアス(ジェンダーにもとづく偏見・差別)にとらわれた社会を改革していこうというのが、ジェンダー・フリーの基本的な考え方である。


ドラえもん』は、そうしたジェンダー・フリーの立場から“ジェンダー・バイアスを多分に含んだ作品”として批判的に論じられることがままある。たとえば、『ジェンダーで学ぶ教育』(天野正子・木村涼子編/世界思想社/2003年発行)という本は、今ここで話題にしている「男女入れかえ物語」他を引き合いに出し、ジェンダーの観点から『ドラえもん』という作品が持つ問題点を分析している。
 この本において、『ドラえもん』がどのように語られているか、要点となる箇所を引用したい。

「主要キャラクターは、主人公ののび太ドラえもんジャイアンスネ夫、しずかの五人であるが、この中で女の子は一人という「紅一点」の構成になっている」
「つくり手の側に男性優位と固定的な性分業を是とする前提があり、その前提が作品を通じて子どもたちに受け継がれていくメカニズムとして「紅一点」表現が機能しているということだろう」
「主要なキャラクターの性格づけにはっきりと「男らしさ」「女らしさ」の刻印をみることができる。主人公ののび太は、勉強もスポーツも苦手で意気地もなく、乱暴な男の子と遊ぶよりは女の子と遊ぶ方が好きな「男らしくない」男の子である。(中略) 典型的なガキ大将キャラクターであるジャイアンと、お金持ちであることを鼻にかけたスネ夫は、のび太の「女々しさ」を馬鹿にしている」
のび太の日常生活では、両親の性分業にはじまり何気ない座り方まで、「男らしい」「女らしい」人柄、役割、遊び、服装などが明確に定義されている。繰り返し描かれるガキ大将のジャイアンが女言葉でしゃべるシーンなど、「らしくない」行動はつねに笑いのネタとなる」
「しずかがセクシュアルな存在として描かれるのは入浴シーンだけではない、しずかのスカートをめくる、パンツをのぞく、ジャイアンのび太の裸をしずかに見せて恥かしがらせるなど、しずかに対する「セクシュアル・ハラスメント」シーンには事欠かない」
「しずかは『ドラえもん』の中で唯一「真正」の「女」という記号であり、主人公のび太にとっては、未来の幸福の象徴であり、現在の意欲の源泉なのだ。」

 原作では「男女入れかえ物語」だったものが「入れかえロープ物語」に改題され、「男らしさ/女らしさ」を強調するような台詞がごっそりと抑えられた背景には、このようなジェンダー・フリーの立場からの『ドラえもん』批判があるのではないか。そういう批判に対する一種の配慮として、今回のアニメでは“男女の入れ替え”から“個人の入れ替え”を描く方向へと趣旨を改めたのだろう。
 と推測するのだが、アニメの制作者からしたらまるで見当外れのことを私が言ってしまっている可能性もあるので断定はしない。


 私は、男女差別のない社会になってほしいし、もっと言えば、男女という類型におさまらない多様な性の在り方が受容される社会を望んでいる。「男は強くたくましく」とか「女はしとやかに」といったジェンダー・ロール(社会が期待する性役割)から、できるかぎり自由でありたいと思っている。
 だから私は、ジェンダー・フリーの考え方に同調するところが多い。
 
 でも、そうは言っても、歴史上の出来事を現在の価値観で一方的に断罪するのが適切ではないのと同様に、そこそこ過去に描かれた娯楽作品をその後社会に浸透してきたモノサシを当てはめて「この作品はダメだ」と決めつけるのはフェアではない、とも思っている。先に引用した『ドラえもん』批判はまだ理性的で分析的な言説ではあるよなと思うものの、そういう批判が作品をヒステリックに弾圧したり一方的に規制したりするような動きにつながっていくことを私は強く警戒するのである。

 それに私は、藤子作品が、『ドラえもん』が大好きだ。大好きだから、こんなブログをやっている。それゆえ、大好きな作品が一方的に悪く言われっぱなしだと、心の中にどうしたってモヤモヤが残る。

 だから、ちょっと反論というか、別の見方も提示させていただく。


 たとえば、『ドラえもん』に「オトコンナを飲めば?」(てんコミ8巻、)という話がある。その話で、のび太はパパから「もっと、男らしい遊びをしなさい」と説教され、その後サッカー遊びに興じる友人たちを眺めながらこんなことを言う。

「だいたいね、ああいうやばんな遊びは、ぼくにむかないんだ。」
「男らしいとか、女らしいとか、いったいだれが決めたんだろう。」
「男があやとりやって悪いという、ほうりつでもあるのか」
「かりにだ、男の子がそろってあやとりにむ中になった、とすれば…。あやとりは、男らしい遊びということになるんじゃないかな」

 いかがだろうか。のび太のこれらの台詞は、固定的な「男らしさ/女らしさ」の観念に疑問を投げかけていて、ジェンダー・フリーの考えに通底するものではないだろうか。
「オトコンナを飲めば?」の初出は「小学三年生」1974年12月号である(初出時の台詞がどうだったか確認できていないが、てんとう虫コミックス8巻の発行は1975年7月1日)。その時代にすでにこういう台詞を主人公格の少年に語らせている藤子F先生の先見性というかモノの見方の柔軟性は、注目に値するのではないだろうか。

 また、「魔法事典」(てんコミ37巻、初出「小学二年生」1982年6月号)という話でも、のび太は同様の主旨の台詞を発している。『魔女っこノブちゃん』という女の子向けのテレビ番組を観て興奮するのび太に、ドラえもんは「そんなにおもしろい? 女の子の番組だろ」と訊きます。
 のび太はすかさずこう答えます。
「女でも男でもおもしろいものはおもしろい。」

 女子向けだろうと男子向けだろうと、そんな「~向け」という枠組みにとらわれず、おもしろいものはおもしろい、好きなものは好き、と素直に断言できるのび太に私は共感をおぼえる。ジェンダーの問題を考えるうえでも示唆に富んだ発想ではないだろうか。


 それと、「しずちゃんをとりもどせ」(てんコミ40巻)という話では、秀才少年の出木杉が料理を手作りする。その料理を食べたのび太に「でもさあ、男の子が料理なんて……」と言われ、出木杉はこう答える。
「いや、おかしくないと思うよ。これからの時代は、女性もどんどん社会にでて働くだろ。家事は女性の専門というわけにいかなくなると思うよ」

 この発言はまさに男女同権、ジェンダー・フリーの考えではないか。「しずちゃんをとりもどせ」の初出は「小学六年生」1989年6月号だから、この時代であればこういう考え方をする人は社会の中にだいぶ増えていると思われるものの、男女共同参画社会の到来を望み予見する発言を出木杉が明確に述べている点は見逃せないだろう。


 『ドラえもん』は、特に初期の『ドラえもん』は、1970年代に描かれているわけだから、そこにステロタイプジェンダー観がけっこうはっきりと描かれている事実は否定できない。だが、そんな時代にあって、ジェンダー・フリーに通ずる発想や男女同権の考えを取り入れる先進性も見られるのだ。
 とりわけ、ここに紹介したのび太の台詞は、「男らしくなさ」に苦しんだことのある私にとって救いの言葉にすら聞こえる。

 
 本当のことを言えば、作品の中から一部のセリフを切り抜いてきて、そのセリフがあたかも「作者が訴えていること」「作品から読み取れる思想」であるかのように紹介するのは、本意ではない。そうやって切り抜いてきたセリフを、自分の思想を正当化・補強するために利用することも、極力したくないと思っている。
ドラえもん』は純然たる娯楽マンガであって、結果として作者の主張や作品の思想のようなものが読み取れたとしてもそれは副次的な事象であるから……という点もさることながら、切り取られたセリフやそこで訴えられている内容が、物語をちゃんと読めばじつは前後の文脈の中で否定されていたり、あるいはギャグや屁理屈として語られたものだったりする可能性があるからだ。
 たとえば、登場人物の一人が「人を殺すのはよいことだ」と語っていたとする。だとしても、それはその作品が殺人を肯定しているとは限らないし、むしろ、そうではないことのほうが圧倒的に多いだろう。「人を殺すのはよいことだ」と言っている人物はその作品における悪役だったりするかもしれないし、物語を最後まで読めば「人を殺すのはよいことだ」という考えを誤りだと認め反省しているかもしれない。「人を殺すのはよいことだ」と反語的表現を使っているのかもしれないし、「人を殺すのはよいことだ」と述べることが何らかのギャグになっているのかもしれない。

 そんなわけで、のび太出木杉のセリフを物語の中から切り取ってきて、それを作品の思想や作者の主張であるかのように紹介するのは気が引けるのだ。
 しかしそれでも、ただ一方的に批判されるだけでは『ドラえもん』好きの一人として心がモヤモヤするばかりだし、『ドラえもん』にはジェンダー・フリーというモノサシで測っても十分に望ましい要素があると私は以前から感じているので、ただ批判するばかりではなくもっと作品を多角的に見ていただければ…と思い、こうしてのび太出木杉のセリフを紹介した次第である。
 そして、こういう類の批判が強まると表現の規制や作品の弾圧につながっていくことがありそうで、それを危惧して、ここで反論めいたことを書かせていただいたわけである。
(登場人物の台詞を切り取ってきてそれを作者の主張であるかのように(遊び心なく大真面目に)紹介するのは気が引けるが、登場人物の名言集とか迷言集みたいな感じで楽しむ分には私も大好きだし、そういう企画はどんどんやればよいと思う)

 なんだか気負ってしまって、今日書きたいことの本筋から外れていった感があるし、ジェンダーに関して専門的な知識のない私がこれ以上首を突っ込んでもおかしな方向へ行きそうなので、この話題はここまでとしたい。


 さて、藤子・F・不二雄先生は、「男女入れかえ物語」のような「人と人との入れ替わり」をテーマにした作品をいくつも描いている。「男女入れかえ物語」と同様「男と女」が入れ替わる話もあれば、「老人と少年」「大人と子ども」「親と子」「有名人と一般人」といったふうに、多くの入れ替わりのパターンが見られる。
 具体的に作品名を挙げてみよう。
 『ドラえもん』に限って見ても、「ぼく、マリちゃんだよ」(てんコミ8巻)、「入れかえロープ」(てんコミ15巻)、「とりかえミラー」(てんコミカラー作品集4巻)、「身がわりバー」(FFランド34巻)、「45年後…」(ぼくドラ25号付録)などの話が思いあたる。
 SF短編の『未来ドロボウ』や『換身』もそうだ。
 もちろん他にもたくさんある。

「人と人との入れ替わり」と一言でいっても、「心も体も元の自分のままで、立場だけが相手と入れ替わる」「他人そっくりに変装することでその人になりすます」「パラレル・ワールドで暮らすもう1人の自分と入れ替わる」というように様々なかたちが描かれている。ここでは、「(超自然的な偶然やSF的仕掛けによって)心はそのままで体だけが相手と入れ替わる」作品ばかりをピックアップしてみた。「体はそのままで心だけが相手と入れ替わる」といっても同じことだろう。


 藤子・F先生が「男女入れかえ物語」を執筆するにあたっては、平安時代末期に成立した作者不詳の物語文学『とりかえばや物語』をモチーフにしたと思われる。藤子・F先生には『親子とりかえばや』というSF短編もあり、これも明らかに『とりかえばや物語』を意識したものだろう。
とりかえばや物語』は、男女入れ替わりストーリーの元祖とでもいうべき作品だ。藤子・F先生の「男女入れかえ物語」や『親子とりかえばや』のような「心はそのままで体だけが相手と入れ替わる」話ではないものの、「男と女が入れ替わる」という突飛なアイデアと、その境遇に置かれた男女の特異な心理・行動が、藤子・F先生に大きなインパクトを与えたのは間違いないだろう。


とりかえばや物語』は、おおむねこんな話である。

 時の権大納言で大将を兼ねていた貴族の男が、2人の妻を持ち、それぞれの妻が1人ずつ子どもを生んだ。1人は男の子、もう1人は女の子で、2人の容姿は美しく、瓜二つだった。
 ところが、兄は人見知りで優柔で女の子の遊びを好み、妹のほうは活発で外向的で男の子のする遊びを好んだ。そうした性格は子どもらが成長するとともに顕著になり、わが子の行く末を心配した父親は、2人の服装を取り替えるなどして、兄を女の子として、妹を男の子として育てることにした。世間には、その真相を隠し通した。
 男として育ち大人になった妹は、ある女性の婿となり、奇妙な夫婦生活を送ることになる…

 私は、中村真一郎氏による現代語訳(ちくま文庫)でこの作品を読んだが、前半部分だけでも、性倒錯、仮面夫婦、不倫による妊娠、失踪、誘拐、監禁と、どこぞの昼メロなど吹っ飛ぶような淫靡で頽廃的な場面が次から次へと出てくる。訳者の中村氏は、この作品について「甚だ暗澹たる宿命に追われる人間の姿を、度外れの感傷主義と暴露趣味とによって描き出した」「奇怪な同性愛への嗜好、閨房への無遠慮な侵入、混血児との恋愛、愛欲の満足のための殺人への恐怖、等、暗黒小説の条件が揃ってゆく」などと解説している。



 ついでに言うと、先に挙げた『未来ドロボウ』は、老い先短い老人と、未来をたっぷり残した中学生の入れ替わりを描いた短編で、藤子・F先生は、ゲーテの『ファウスト』をヒントにしてこの作品を描いている。『ファウスト』における魂と若さの交換という設定をもとに、ファウストメフィストの役割を一旦分解し、中学生・老人・秘書の3人に再配分して、話を構成したのである。


 (藤子・F先生が「男女入れかえ物語」(初出:1985年)を描くにあたっては、大林宣彦監督の映画『転校生』(1982年公開)の影響もあったかな、と思う)



●ミニシアター
 原作は、「よいこ」1970年9月号で発表された、サブタイトルなしの作品。2ページ(4コマ)という極めて短いお話だ。今日のアニメは、先週と同様、わざとデッザンを崩したようなヘタウマっぽい絵柄だった。




●「まんが家ジャイ子

初出:「てれびくん」1980年12月号)
単行本:「てんとう虫コミックス」24巻などに収録

 ジャイ子が『わさドラ』初登場。『大山ドラ』では、ジャイアンの母ちゃんとジャイ子の声を青木和代さんが一人二役で演じていたが、『わさドラ』では、ジャイアンの母ちゃんを竹内都子さんが、ジャイ子山崎バニラさんが担当することになった。


 今日のアニメでは、ドラえもんが「マジックおなか」をくすぐったときの、のび太の敏感な反応がよく描けていた。くすぐったい感覚がこちらまで伝染しそうなのび太のリアクションが愉快だった。
 それから、「マジックおなか」を投げ捨て「男なら男らしく殴られてこい!」とカッコよく言い切ったドラえもんが、「だったらドラえもんも一緒に来いよ」とのび太に反撃されるあたりが楽しかった。