藤子不二雄A先生の小学生時代の校長先生

 昨日26日(日)、懐かしの漫劇倶楽部の会誌最新号「劇眼漫歩」28号の製本の集いに参加した。場所は、愛知県岡崎市・六ツ美西部学区市民ホーム。私がこの集いに参加するのは、今回が3度めとなる。
 いつものように、参加者全員で手分けして、印刷の済んだ各ページを順番に重ねていくことから始め、それをホッチキスで閉じて製本したり、完成した会誌を封筒に詰めたりといった作業を行なっていった。今回は、普段よりページ数が少なめだったので、若干早めに作業が終わった。


 午後からは、毎度のごとく、岡崎市在住の懐かしのマンガ本コレクターTさんのお宅へお邪魔した。Tさんのコレクションが置いてある部屋は、訪問するたびに明らかに蔵書量が増していて、そのぶん人間が生活できるスペースが狭まっている。
 今回は、「少年サンデー」「少年マガジン」「少年ジャンプ」「少年チャンピオン」といった週刊少年雑誌の創刊号*1を、実際に手にとって読み比べさせていただいた。
 藤子ファンの目で見れば、それらの創刊号のなかでは「少年サンデー」が最高に魅力的だ。藤子両先生の合作で藤子マンガ最初のヒット作と言われる『海の王子』が掲載されているからである。「マガジン」「ジャンプ」「チャンピオン」の創刊号には、藤子作品は見あたらない。そのうえ「サンデー」創刊号には、手塚治虫『スリル博士』、寺田ヒロオ『スポーツマン金太郎』といった、藤子先生と縁の深いマンガ家の作品も載っているので、なおさら心が惹かれる。


「サンデー」創刊号に藤子作品が載っていて、「マガジン」にないことに関しては、ちょっとしたエピソードがある。
 藤子先生は、「サンデー」から連載を依頼された2日後に、同じ時期に創刊予定の「マガジン」からも連載を依頼されたのだが、週刊誌の連載を2本なんてとてもこなせないということで、あとから依頼に来た「マガジン」のほうを断ったのだ。もし「マガジン」からの依頼が一足早ければ、藤子先生は「サンデー」でなく「マガジン」の創刊号で連載を始めていたことになる。
 しかし、後年になって藤子A先生は、「マガジン」よりも「サンデー」のほうが自分らに合っていたので、先に「サンデー」から依頼があってよかった、と述懐している。もしあのとき「マガジン」の依頼が先にあって連載を引き受けていたら、その連載は早いうちに打ち切られ、その後の藤子不二雄の大成はなかったかもしれないというのだ。
 その理由として、藤子A先生はこのように述べている。(以下の引用文は、藤子A先生の発言を、聞き手の生田安志氏がまとめたもの)

講談社小学館は社風も違うが、編集者のタイプも違う。叩き上げのプロフェッショナルで漫画家に厳しく、あれこれ注文をつけるのが講談社の編集者。いっぽう小学館はそれまで専門の漫画編集者がおらず、学年誌や教育の編集部から集めてきた漫画には素人の編集者だったため、わりに好きなように描かせてくれた。
指図されたり、あれこれ言われるのが嫌いな藤子不二雄のような漫画家にとっては、小学館のカラーがピッタリだったという。
(「本の窓」1999年6月号)

 週刊少年誌時代の幕を開けた「少年サンデー」の連載を引き受けたときから、小学館の雑誌が、藤子先生、とくに藤子・F・不二雄先生のメイン・フィールドになっていくのだった。



 ところで、私は、昨年11月の懐かしの漫劇倶楽部・製本の集いに参加したさい、当ブログで以下のようなことを書いた。

aさんのご家族(aさんとの関係を失念。お父様?)が戦時中に下新川郡山崎村(現・朝日町)の「山崎小学校」で校長をつとめておられたと伺い、私の気持ちは高揚するばかり。山崎小学校は、藤子A先生が昭和19年夏から終戦にかけて山崎村に縁故疎開されていたとき通っておられた学校であり、マンガ『少年時代』に登場する泉山小学校(泉山国民学校)のモデルにもなっている。
 そんな事実から私は、藤子A先生が山崎小学校へ通っていた時期とaさんのご家族が校長であった時期がもしかすると重なっているのでは、と勝手に想像を膨らませ、藤子ファンの血をぞんぶんにたぎらせたのであった。
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20041129

 このaさんが、今回の製本の集いに参加されたので、再びお話をさせていただいた。
 山崎小学校で校長をつとめていたというaさんのご家族は、やはりaさんのお父様だった。aさんは、昨年11月、私とこの話をしたあと、お父様が山崎小学校の校長だった時期をご親類に確認してくださったそうで、それによると、aさんのお父様は間違いなく藤子不二雄A先生が山崎小学校に通っていた時期に同校で校長をやっていたというのである。
 小学5、6年生の藤子A先生は、自分が通学する小学校の校長先生であるaさんのお父様を学校内で見ていただろうし、もしかすると、aさんのお父様と何らかの接触をしていたかもしれない。


 aさんのお父様は30歳くらいで山崎小学校の校長になり、都市部から疎開してきた児童数名を自宅で預かっていたそうだ。
 残念ながらaさんのお父様はお亡くなりになっていて、ご本人から当時の様子をうかがうことはできないが、その娘さんであるaさんとこうして偶然お会いしお話をさせていただけただけでも感激である。

*1:「少年ジャンプ」「少年チャンピオン」は、創刊当時、隔週雑誌だった。Tさんは、「少年キング」の創刊号はまだ入手していないとのこと。