「ぼくらの小松崎茂展」はじまる

 9月17日(土)、この日から愛知県の刈谷市美術館で始まった「ぼくらの小松崎茂展」へ行ってきた。「懐かしの漫劇倶楽部」の方の誘いを受けて出かけてみたのだ。
 私は、小松崎茂絵物語やその後のイラスト作品などを特別に愛好する者ではないが、〝小松崎茂〟という存在にはそれなりに関心があって、「異能の画家小松崎茂」根本圭助・著/光人社/1993年10月29日発行)という本を買って読んだりしていた。


 私が小松崎茂の名を初めて意識したのは、今から25年ほど前になろうか、藤子不二雄A先生の『まんが道』を読んだときだった。青雲編「絵物語」の回のこんなくだりが印象に残ったのだ。

満賀道雄才野茂は、絵物語もすきで、ふたりの同人雑誌『少太陽』には、人気絵物語作家、小松崎茂のタッチをまねた西部劇を発表した!」
絵物語は、小説とまんがの合体したような形式で、昭和20年代の後半から30年代のはじめにかけて、全盛をほこった!絵物語の中でも、山川惣治小松崎茂の二大巨匠が、圧倒的人気だった」

 藤子A先生は、小松崎茂のサインのカッコよさにゾクゾクとし、そのサインの字体を真似て書いたこともあったという。


 刈谷市美術館を訪れるのは今回は初めてだった。開館時間は午前9時。それまでに現地へ行き、「懐かしの漫劇倶楽部」の面々と落ち合うことになっていた。今回参加したメンバーは、私も含め6人だった。


「ぼくらの小松崎茂展」は、小松崎茂の展覧会としてはかなり大規模なものに属するようで、絵物語や口絵などの原画を中心に、作品掲載雑誌、プラモデルの箱、戦前のスケッチ、初期日本画などなど、長年にわたる小松崎の画業をたっぷりと堪能できる。とくに、原画が豊富に展示されているところが素晴らしく、小松崎の筆致や色使いを生で味わえる。
 戦艦や戦車、種々の架空の乗り物、といったメカの画稿は小松崎の真骨頂だろう。その大胆な構図、イマジネーションあふれるデザイン、鮮やかな色彩、今にも動きだしそうな臨場感に圧倒される。
 小松崎の黄金時代は、昭和20年代後半から30年代初め、絵物語がヒットして大の売れっ子だった頃だろう。その絵物語のペンタッチは非常に綿密かつ丁寧で、目を近づけて細かいところまで観察すると、細部まで疎かにすることなく描き尽くそうという完全主義的な意志が汲みとれる。
 私は絵物語というジャンルに親しんだ世代ではないが、それでも少なからず今回の絵物語関係の展示物に親近感をおぼえたのは、やはり『まんが道』を読むことで少年雑誌絵物語が載っていた時代の空気を疑似体験していたからだろう。


 この日は、小松崎茂のお弟子さんで、昭和ロマン館館長の根本圭助氏の講演会「わが師を語る」が開催された。根本氏は、小松崎茂を扱ったほとんどの出版物の編集に携わっていて、前述の「異能の画家小松崎茂」の著者でもある。「ひみつのアッコちゃん」「仮面ライダー」といったテレビキャラクターのマーチャンダイジング用イラストを描く仕事もしてきた人物だ。そんな根本氏の講演が、午後1時半から3時にかけて美術館2階研修室で行なわれたのだ。
 講演会は愉快な話の連続で、場内は何度も笑いが起こった。根本氏の語り口の魅力と、小松崎茂が実際に行なったエピソードのおもしろさが相乗効果をあげ、実におもしろい講演会となった。
 講演会のあとは、根本氏がじきじきに展示物のガイドをしながら館内をまわってくださるということで、その企画に参加した。根本氏は、各展示物の前で立ち止まっては、その展示物の解説やそれにまつわる小松崎のエピソードをわかりやすく軽妙に語っていった。


 講演会とその後のガイド企画で根本氏からいろいろと興味深い話をうかがった。そのなかでとくに私の記憶に残った話を要約して紹介したい。

・先生(=小松崎茂)は、絵をほとんどすべてひとりで描いていた。弟子の手が加わるを嫌った。 絵を描くスピードは速かった。細密なカラー口絵でも、一日あれば完成させていた。


・先生は基本的にSF(空想)画家だ。先生が描いた実在の戦車や戦艦なども、詳しい専門家が見れば、あれが違うこれが足りないと指摘されるだろう。
 ウルトラマン仮面ライダーなどテレビキャラクターを描く仕事は、先生の個性が入って実際のキャラと違ってしまい、あまり評判がよくなかった。先生は自分の絵に自分なりの空想を入れ込む画家だ。


・先生は世間の目を意に介さない人だった。外出のさいも服装に無頓着だったため、「柏(小松崎茂が住んでいた千葉県の柏)に乞食がいる」と噂になったこともある(笑)


・先生のことを話しはじめたら、おもしろいエピソードが次から次へと出てくる。奇人変人といってもいいような人だった。


・先生が田宮模型の社長に「俺が田宮を救ってやる」と言ったとか、年上の本田宗一郎氏を「本田くん」と呼んだとかいう話が伝わっているが、先生の人柄からいって、そういう思い上がったことを言ったとは考えられない。
 人にやさしく義理堅い人だった。人に尽くすが、無頓着な発言で最後は嫌われることになったりもした。


・手を洗わない人だったがサンドイッチを作るのが好きで、先生にいつも手づくりサンドイッチを出される編集者はすごく悩んでいた。飼い犬の毛がサンドイッチに挟まっているなんてこともあった(笑) 
 蛾をにぎりつぶした手でトウモロコシをつかみ、その鱗粉つきトウモロコシを私に差し出してくれることもあった。
 先生はハムを包丁ではなくハサミで切っていたが、あとになってある人から「小松崎先生は、あのハサミでよくゴキブリを刻んでいた」と教えられた。ハムを食べていた身としては、そんなことは知らないほうがよかった(笑)


・雑誌の編集者として先生のもとを訪れた池田大作氏(現創価学会名誉会長)と、釈迦とキリストどちらが偉いか論争したことがあった。


・先生は画家の樺島勝一氏に憧れていた。樺島氏は立派な人格者で博識な人だった。どもりなので他人と喋らないですむ画家の仕事についたというが、実際にお会いしたら能弁だった。風邪薬の話をふれば、半日風邪薬の話をし続ける、というくらい何でも知っていた。英語、独語、オランダ語?ができた。


・先生のライバルであり兄貴分でもあった山川惣治氏は、先生と違って遊び人だった。
 山川氏は『少年ケニヤ』が当たったとき、「ケニヤ御殿」と呼ばれる豪邸を建てた。
 山川氏は、UFOと交信ができるということで、取り巻きの編集者を集めてUFOを呼ぶことがあった。「UFOが見えた」と言う山川氏に対して「見えない」と答えた編集者は叱られた(笑)
 小松崎絵物語の代表作とされる『大平原児』は、「おもしろブック」で山川氏の『荒野の少年』の連載が始まるというとき、同じ雑誌に西部劇は2本いらないとの理由で中途半端なまま終了させられた。


テレビ朝日松井康真アナウンサーは田宮のプラモデルのコレクターで、ここに展示してあるプラモデルの箱も松井氏のコレクションだ。


・某マンガ家が、長らく所有していた小松崎先生の原画を古書店に手放したことがあった。そのマンガ家は、「原画を売った事実を根本だけには内緒にしておいてくれ」と頼んだらしいが、その古書店主は真っ先に私のところに連絡してきた(笑)


・先生の遺作のひとつに、戦艦「大和」を真後ろから描いた油絵がある。この絵は、この世から去り行く先生自身の後ろ姿とダブって見える。


「懐かしの漫劇倶楽部」のT氏は昔からの小松崎茂ファンで、ご自分のコレクションを今回の展覧会に貸し出したこともあって、根本圭助氏とつながりをお持ちだった。その縁で、根本氏は講演会前の空いた時間に我々につきあって喫茶店へ足を運び、いろいろ話をしてくださった。講演会では話せないようなオフレコ話も聞かせてくださった。
 私は、絵物語で人気絶頂だった時代の小松崎茂が、漫画という近縁のジャンルで人気者になった手塚治虫をライバル視していたのか尋ねてみた。根本氏は「ライバルどころか、先生にとって手塚さんは〝恐怖〟だった」とお答えになった。「昭和29年元旦、手塚さんから年賀電報が届いた。〝今年は小松崎先生に追いつきたい〟というような文面が打たれていた」という話も聞けた。


 また、私が藤子ファンだと知った根本氏は、「藤本(=藤子・F・不二雄)さんにはたいへんお世話になった。藤本さんからのご指名で、カネボウのポスターでドラえもんを描いたことがある。ドラえもんの丸を描くのがたいへんだった」といった話も披露してくださった。根本氏が描いたドラえもんがどんなだったか見てみたい気がする。
 本当はもっと藤本先生との関係を訊いてみたかったのだが、小松崎茂展の場で藤子不二雄の質問ばかりするのは気が引けた。


 根本氏は、とても謙虚で気さくでユーモアのある方だった。