「ミチビキエンゼル」「家がだんだん遠くなる」放送

わさドラ』第22回放送。



●「ミチビキエンゼル」

初出「小学五年生」1973年11月号
単行本「てんとう虫コミックス」3巻などに収録


 何事かで迷ったり考えあぐねたりしたとき、自分のために的確な答えを出してくれる相談相手がいれば助かるし、そういう相手が欲しいと思う。しかし、日常のちょっとした事柄にまでいちいち口を出し、強引に言うことを聞かせ、その結果周囲の人々を怒らせたりするような相談相手となれば、その存在はただ鬱陶しくて迷惑なだけだ。そういう鬱陶しくて迷惑な相談相手が、ミチビキエンゼルである。
 のび太は、このミチビキエンゼルをドラえもんから与えられ、最初は大いに歓迎するのだが、ミチビキエンゼルの本性が露呈してくるにつれ、その存在を邪魔に感じるようになる。やがてのび太は、自分のことは自分で決めたいと考えるようになり、苦しむドラえもんを救うため、暴力的に言うことを聞かせようとするミチビキエンゼルに逆らって自らの意志を貫くのだった。
 このように、「ミチビキエンゼル」という作品は、ギャグテイストの中にのび太の成長や友情をさらりと描きこんでいる。ちょっとした感動作なのだ。



「ミチビキエンゼル」は、ドラえもんが大きなくしゃみをして「ロボットのくせに、かぜをひくなんて。ぼくは、精こうにできすぎてるなあ」とぼやく場面から始まる。ロボットであるドラえもんでも風邪をひくんだという意外性と、そんなドラえもんの人間味あふれる姿に触れることで、私の関心はぐっと作中に引き込まれる。ドラえもんの風邪が、卓抜な「つかみ」になっているのだ。
 その後ドラえもんは、学校帰りののび太に重大な問題で悩んでいると呼び出される。風邪でつらいのに無理をしてかけつけてみれば、のび太の重大な悩みとは、うちにまっすぐ帰るかしずかちゃんの家に遊びに行くかという実にくだらないものだった。そのくだらない悩みが、あまりにくだらないがゆえに、冒頭のドラえもんの風邪に続いて私を作中に誘い込む原動力となるのだった。
 こうした優れた導入部を、『わさドラ』がいかに表現してくれるか楽しみだった。


わさドラ』は、ドラえもんの鼻から垂れる鼻水のアップ、大きなくしゃみ、「ぼくは精巧にできすぎている」というセリフ、そして押入れに上がって寝ようとする行動を丁寧に描くことで、ドラえもんが風邪をひいてつらいんだという状況をうまく伝えていた。
 ドラえもんを呼び出したのび太の悩みは、原作とまったく同じ内容だった。ここでドラえもんが大きなくしゃみをしてネジが1本飛び出す。原作ではそのネジがごく小さなゴミのように描かれているが、『わさドラ』は、ネジが路上に落ちるところをわかりやすくクローズアップしていた。


 ミチビキエンゼルの声は、その愛らしさや賢さ、我の強さや融通のきかなさ、といった性質をよくつかんでいて、聴いていて実にミチビキエンゼルらしく感じられた。


 しずかちゃんとボードゲームをするシーンで、のび太はミチビキエンゼルの口やかましいアドバイスに「ゲームくらい自分の考えでやらせろよ」と抵抗する。その瞬間、ミチビキエンゼルのアップが映し出されるが、その無言の間(ま)が不気味な味をかもし出していた。自分に逆らったのび太に対するミチビキエンゼルの負の感情が、この間の中に凝縮してこもっているようだった。


 原作でミチビキエンゼルが「アカンベエしなさい」と言うところを、『わさドラ』は「目の下に指をあてて、下にひっぱりながらベエと舌を出す」という細かい指示の仕方に変えていた。そうすることで、のび太はこれから自分が行なう行為がアカンベエだとは知らずにアカンベエをすることになり、心ならずもしずかちゃんとママを唖然とさせてしまうというハプニング感が生み出された。「アカンベエしなさい」というストレートな言い方のほうが笑えるが、これはこれでよい変更だったと思う。


 のび太がミチビキエンゼルの指示に逆らってドラえもんのネジを探しに行く場面は、本作のクライマックス。のび太の決然とした様子は、原作以上に力強く描かれていた。


 全体的に大きな追加シーンはなく、ほぼ原作どおりの展開だった。





●「家がだんだん遠くなる」

初出「小学三年生」1977年4月号
単行本「てんとう虫コミックス」14巻などに収録


 小学生くらいの子どもは、大人と比べ、圧倒的に行動範囲が限られている。限定的な生活圏で日々を送っているのだ。だから子どもにとって、自分の家を中心とした生活圏から外れ、ひとり見知らぬ場所へ行き着いてしまうことは、大きな不安を生む要素となる。未知の風景に取り巻かれる不安。自分を庇護してくれる両親や仲のよい友人が自分の手の届かぬ世界へ行ってしまう不安。帰るべき家へ帰れなくなる不安。それは、自分の存在を根幹からおびやかす恐怖にすらなりうるものだろう。「家がだんだん遠くなる」は、そうした子ども特有の不安をにじませた作品である。
 その観点で本作をみたとき、私は芥川龍之介の『トロッコ』を思い起こす。主人公の良平(8歳)は、思いがけず自分の家から遠い土地へ来てしまい、途方もなく感じられる遠距離を、ひとり歩いて帰宅するはめになった。そんな良平の心情を、芥川は次のように描写している。

良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。

竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山(ひがねやま)の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈(いよいよ)気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。

蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。

彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。(中略) 彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………


 それでも良平は、歩いたら歩いた分だけ自宅に近づいていけたのだが、すて犬ダンゴを食べたのび太は、家へ帰ろうと歩けば歩くほど家から遠ざかってしまうのだ。そんなのび太の気持ちを文学的に描写すれば、良平以上に不安や心細さにさいなまれたものになるにちがいない。
 今回の『わさドラ』版「家がだんだん遠くなる」からは、そうした不安が私にはあまり伝わってこず物足りない気がしたが、ともかく、冒頭からみていきたいと思う。



 冒頭は、部屋に置かれたすて犬ダンゴを見て食欲をそそられ、舌なめずりするのび太の表情から始まった。その表情が、得体の知れないダンゴを思わず食べてしまうのび太の行為をいくらか自然なものに見せていた。
 のび太がすて犬ダンゴを飲み込んでしまったときの、ドラえもんの「エエ〜ッ」というリアクションがよかった。ガタガタ震えるドラえもんの様子から、すて犬ダンゴを食べたことがいかに重大事であるかが伝わってくる。


 ママにおつかいを頼まれたのび太が、血相を変えて涙ながらに「あんたそれでも親か!」と訴えるところは、『わさドラ』では「あんた」が抜かれて「それでも親か!」というセリフになっていた。「あんた」が抜かれたことでずいぶん違う印象になった。子が親を「あんた」呼ばわりするのは教育上よろしくないということでカットされたのだろうか。


 のび太が家から離れてさまよい歩く場面で追加シーンがあった。しずかちゃんだと思って追いかけた自転車の少女が、まったくの別人だったという箇所だ。そこでのび太は希望を抱いたぶん失望を味わうことになる。悪くない追加シーンだと思うが、のび太がさまよい歩く場面全体から「家がだんだん遠くなる」不安があまり感じられなくて残念。アニメの出来云々以前の問題として、私自身が、こういう類の不安を鋭敏に感じとれなくなっているのかもしれない。


 のび太が空腹のあまり生ゴミを食べるシーン。口に含んだ生ゴミをしばらくもぐもぐと噛んでいたのび太が、急に蒼ざめてひどい表情に変貌するところはよかった。何事もないように生ゴミをもぐもぐする描写があったおかげで、その直後ののび太の変調が余計におもしろく感じられた。お茶の間に配慮して、のび太が「オエー、オエー」と生ゴミを吐き出す描写は削られた。


 原作ではのび太が家に帰りついてドラえもんと再会するコマで終わっているが、『わさドラ』ではそこのところで感動的な演出がほどこされ、さらに、遅く帰宅したのび太がママに叱られる、という追加シーンがみられた。のび太だけ家の中へ入れたドラえもんが外からドアを閉め、のび太が叱られるところをドア越しに聞いている、というのはなかなか工夫した見せ方だったが、このシーンが加わったため、オチとしての締まり具合は減退したような気がする。