「ロボ子が愛してる」「声のかたまり」

koikesan2005-12-02

 12月2日、『わさドラ』30回めの放送。


●「ロボ子が愛してる」

初出:「小学四年生」1971年9月号
単行本:「てんとう虫コミックス」2巻などに収録

【原作】
 本作のなかでロボ子の絵柄だけ、藤子・F先生本来のタッチと違って見えるが、それもそのはずで、ロボ子の執筆を担当したのは藤子・F先生ではなく、当時藤子先生のアシスタントをしていた志村みどりさんだったのである。志村みどりさんは、あの荒俣宏さんの妹さんだ。
 そのため、ロボ子の顔のデザインやペンタッチなど、どことなく少女マンガっぽい雰囲気が漂っている。


 しずちゃんの家へピーナッツ投げ食いのコーチに行くというのび太を見て、ドラえもんは「じつにくだらないと思うけど……、当人が満足なら、いいことだ」とのび太を見送る。その後、しずちゃんの家でひとり寂しくピーナッツを食べて帰宅しそれでも平気な素振りでいるのび太を見て、「さりげなくわらってはいるが…、きみの気持ちが、どんなにきずついたかぼくにはよくわかる」と口にする。この2つのドラえもんの言葉が、本作を読み返すたびに心に染みる。のび太の親友としての思いと、のび太の保護者的立場にある者としての思いが織り合わさった、ぬくもりに満ちたまなざしを感じるのだ。


わさドラ
 アニメでロボ子を観ていると、なんだか昨今の〝メイドさん〟ブームを連想させられる。そういう事象を連想しようとしまいと、とにかくわさドラ版「ロボ子が愛してる」はおもしろかった。
 そのおもしろさは、冒頭場面の心地よさからも予感された。「ハ、ヒ、フ、へ、ホ」とリズミカルにピーナッツを口に放り込むのび太のび太はその技を女の子たちに披露してキャーキャー喜ばれたとご満悦。これから女の子たちにこの技のコーチをしに行くという。そんなのび太を見てクククと吹き出しドラえもんは、〝実にくだらないが、のび太くんが満足ならいいか〟と納得する。この一連のシーンから、あたたかくてほのぼのとした空気が伝わってきて、まことに心地よかったのだ。


 原作では志村みどり画風のロボ子だが、『わさドラ』では原作よりずいぶん藤子テイストに近づいた。原作よりアニメのほうが藤子テイストの絵柄になるというのも珍しい話だ。
 机の引き出しからロボ子が登場するさい、その姿が見える前にピンク色のオーラが漏れ出てきたところから、すでにロボ子の尋常でない魅力が強調されていた。
 ドラえもんが、のび太とロボ子を2人きりにするとき、「あとは若い者同士で仲良く…」などとおっさん臭い言い方をしたのには笑えた。
 ロボ子は、のび太をほめちぎったりのび太に好意を示したりする前半場面で、性格もルックスも確実にかわいく魅惑的に描かれた。それとのコントラストで、ロボ子の嫉妬深さや粗暴さが露呈する後半場面のインパクトがますます際立ったようだ。パンチ一発でブロック塀を破壊するところは迫力満点だった。



 しずかちゃん(かかずゆみさん)復帰! 復帰早々のしずかちゃんは、ピーナッツの投げ食いをコーチしにやってきたのび太を見て「まっ、本気だったの?」とリアクション、それから友達に電話を入れ、「私も冗談のつもりだったのよ」などと話す。このあたりの語り口は、のび太が本当にやってきたことに驚き呆れ、迷惑だけど迷惑だとも言えず困っているしずちゃんの心情がうまく表現されていて、「さすが、かかずさん!」と思ってしまった。
 スネ夫におもしろいゲームをしようと誘われたしずかちゃん、原作では反射的に「行く」と答え、「でも……」と少し躊躇しながらあっさりスネ夫の誘いに乗ってしまうが、『わさドラ』では「のび太さんも行こう」と声をかけたうえ「のび太さんが行かないなら私も行かない」と相当なやさしさを見せる。こういうところを見ると、原作初期ののび太に冷たいしずちゃんは、『わさドラ』ではもう少し思いやりのある女の子に修正されて描かれていきそうな雰囲気だ。
 この場面でしずかちゃんがのび太を気遣ったため、その後ドラえもんが「きみの気持ちがどんなに傷ついかたぼくにはよくわかる」とのび太の内心を慮るくだりで、視聴者が想像するのび太の傷の深さが若干浅くなってしまったような気がする。原作のしずちゃんの態度のほうが、のび太に深い傷を負わせたように思えるのだ。




●「声のかたまり」

初出:「小学二年生」1976年10月号
単行本:「てんとう虫コミックス」12巻などに収録

【原作】
 擬音語や擬態語など一般的にオノマトペと言われるものを描き文字で表現するのは、マンガというジャンルの大きな特徴であり、マンガ作品のなかで当たり前のように使われる技法である。こういう技法を、夏目房之介さんは〝音喩〟という造語で呼んでいる。

マンガの擬音やその仲間は、じつに多様な発明と転用の結果、現在では擬音・擬態・擬情語=オノマトペという範疇をすら超えて、マンガの言葉の「多層化」「微分化」に一役買っている。(中略) もはやオノマトペという呼称すら逸脱するこれらのマンガの言葉たちを「音喩」という造語で、あえて呼ぶことにしたい。
別冊宝島EX「マンガの読み方」[宝島社/1995年5月27日発行])

 音喩とは、作中で生じた音声や状態を、作品の外部にいる読者に伝達するための記号であり、その記号の形状は作中人物には認識されないものだ。だが本作「声のかたまり」は、そんな音喩を作中で実体化させ、作中人物が目で見、手で触れられる〝物〟として扱っている。「ワッ」「エー」などの描き文字が立体的な物質となって、のび太ドラえもんらの前に出現するのである。それが、本作のメインアイデアとなっている。
 そういう方法をとったマンガといえば、園山俊二さんの『ギャートルズ』が思い出される。前掲の「マンガの読み方」でも実例として『ギャートルズ』が挙げられている。たとえば、「ウォー」という叫び声の音喩が石のような質感を持ち、それがガラガラと崩壊していくシーンが見られる。
「声のかたまり」では、実体化した音喩を、相手を倒すための武器や、高いところにある物を取る道具として利用することで、ストーリーに密接にかかわらせている。



わさドラ
 のび太がこしらえた声のかたまりは、原作で見られた用途に加え、樹上から降りられなくなった子どもを救う道具としても使われ、それがついでに滑り台にもなった。
 アニメならではの絵の動きや声優さんの演技、効果音によって、声がかたまりに変化する瞬間のおもしろさが倍化した。声のかたまりが持つ質感・重量感も感じとれた。


 のび太が声のかたまりでジャイアンをやっつける場面は、難なくジャイアンを退治できた原作と違い、喉が嗄れて大声が出せなくなるというピンチが訪れる。のび太が続々と繰り出すしょぼい声のかたまりを、ジャイアンがひとつひとつ確実に壊していくくだりは、何かのテレビゲームを見ているようだった。結局のび太ジャイアンに泣かされるが、その泣き声で「ウワーン」という巨大なかたまりができ、ジャイアンをやっつけることにも成功。のび太の一方的な勝利に終わる原作とはまた違った勝負の行方となった。




※写真は、本日コンビニで買った「リンガーベル ドラえもん」という商品。サンタに扮したドラえもんが両手にベルを持っている。後部のボタンを押したり離したりするとドラが手を上げ下げし、ベルが鳴る仕組み。下部の容器に粒状のガムが入っている。値段は、368円…だったかな?