「透視シールで大ピンチ」「人間ブックカバー」放送

 5月26日(金)のアニメ『ドラえもん』は、キャラクター大分析シリーズ第4弾「出木杉DAY!」


 勉強ができて、スポーツも得意で、品行方正で、思いやりもあって、外見もよく、どこから見ても長所ばかりの出木杉。藤子・F先生は(A先生も)、そのキャラクターの性格や外見的特徴を反映させた、もじりやだじゃれなど言葉遊びのような名前をよく付けるが、出木杉というのもその一例で、これは無論「出来過ぎ」という意味に別の漢字をあてたものである。それを思えば、長所だらけの出木杉は、そのあまりに出来過ぎなところが、さしあたっての欠点ということになるだろう。極度に陽気な人が「悩みがないのが悩みです」なんて言うのと同じ論理である。
 そのことと関連する話だが、出木杉は、「出来杉」と誤って表記されることが非常に多い。『ドラえもん』という作品のホームフィールドである「コロコロコミック」最新号(6月号)ですら、『ドラえもん』情報局のコーナーで、本来「出木杉」とすべきところを、比較的大きな活字で「出来杉」と記しているほどだ。




●「透視シールで大ピンチ」


【原作】

初出:「小学六年生」昭和55年9月号
単行本:てんとう虫コミックス第23巻などに収録

 勉強もスポーツも苦手でダメなところだらけののび太にとって、優秀で非の打ちどころがない出木杉の存在は、憧れや尊敬ではなく、ひがみや妬みの対象になっている。出木杉がただ優秀なだけだったなら、のび太出木杉を別次元の存在ととらえるのみで、嫌悪や嫉妬の感情など抱かないかもしれないが、そこに愛すべきしずちゃんが絡んでくるものだから心が大いに波立つ。のび太出木杉のことを、しずちゃんをめぐる恋のライバルだと強烈に意識しているのだ。
そんな出木杉が、のび太の介在しないところでしずちゃんと交換日記をしており、しかもその日記の文中にのび太がマイナスの役回りで登場するのだから、それを知ったのび太の心の傷は深い。他人のノートを覗き見る行為はいただけないが、のび太の気持ちには同情してあまりあるものがある。



【アニメ】(しずかちゃんと出木杉が… 透視シールで大ピンチ)


 このアニメは、原作に忠実なプロットであるうえ、原作のコマとコマの間隙を埋めるようなカットが巧みに加えられ、たいへん好感がもてた。絵も、原作テイストできっちり描けており、愛着がわく。全体的に完成度の高い作品だった。


 冒頭、のび太としずかちゃんが一緒に歩くシーンでは、2人の会話の内容が描写された。のび太が、裏山へタヌキを探しに行こう、と誘うと、しずかちゃんが「面白そうね」と乗ってきて、実にほほえましい雰囲気。そこに出木杉が割り込んできたのだから、そりゃあのび太は面白くないだろう。


 のび太が、おじさん宛ての手紙に書いた自分の名前を「のび犬」としてしまったかもしれない、と言い出すところから、手紙の中身を透視シールで確認するあたりは、原作で大好きなくだりだが、今回のアニメも良い感じだった。腹の底から笑いがじわじわとこみ上げてくるようなこないような微妙な可笑しさがあるのだ。とくに、「大」の字の右上と中下の両方に点を打って「犬」とも「太」ともとれる文字を書いたことを確認したのび太が、「まあ、両方に点があるならいいだろう」と、この世にない奇天烈な文字を書いてしまったにもかかわらず〝これでよし〟としてしまうところがたまらない。ドラえもんの「えーっ! 自分の名前だろ?」「えーっ! いいのー?」という軽い驚きと呆れのリアクションもナイスだ。




●「人間ブックカバー」


【原作】

初出:「小学三年生」昭和57年4月号
単行本:てんとう虫コミックス第27巻などに収録

 この話は、私の実体験と重なり合って、非常に共感できる。私もこの話ののび太と同様、小学校の読書感想文のため仕方なく読んだ『十五少年漂流記』で読書の面白さに目覚めたクチなのだ。それが小学何年のことだったか忘れたが、私はそれまで活字の本を読むのが好きではなかった。のび太と同じく、文字ばかりで埋め尽くされた本を自分が読んで面白いと感じるなんてありえない、と思っていた。それがどうだろう。しぶしぶ読み始めた『十五少年漂流記』の面白いこと、面白いこと。またたく間にその物語の虜になった。活字の向こうに映像が透けて見え、ひとつひとつの場面に興奮したり感動したり緊迫したり。そして、活字の本で自分が興奮したり感動したりしているその事実にも新鮮な感動を覚えたのだった。
 この体験があってから、私の内に活字の本を読みたいという欲求が芽生え、しだいに本好きになっていったのである。



 人間ブックカバーをかぶった人は、読んだ本のすみずみまでを思い出しながら強制的に朗読させられる。表面に現れる機能としては、機械を使わず普通に本を朗読するのとあまり変わりないような気もするが、おそらく、行為が自動化されることで読み手の肉体的・精神的負担が軽減されるとか、普通に朗読するより正確かつ上手に読むことができるとか、いろいろ利点があるのだろう。このひみつ道具で特に面白いのは、朗読中の人物の口にしおりを差し込むと一時停止状態になる点だ。しおりの形状が、我々が日常で使うしおりと同じ素朴なもので、それを口に差し込まれた出木杉の絵づらが馬鹿らしくて笑えるのである。


 のび太は、本になるのを嫌がっていた出木杉を、タイムマシンで未来の世界へ連れていき、その交換条件として本になってもらう約束をとりつける。こうしたバーター的手法をとれるのび太はなかなか交渉上手だと思う。


 この話では、冒頭で先生が「みんなの中でまんがしかよまない者がいるらしい。たいへんなげかわしいことである。もっと活字に親しみなさい」と説教するとか、人間ブックカバーをかぶったのび太がマンガの文字情報だけを朗読して聞き手のドラえもんが「絵がないと、わけがわからない」と反応するなど、マンガというジャンルをクールに対象化した場面が見られる。『ドラえもん』という作品それ自体がマンガであるにもかかわらず、その内側でマンガというジャンルを相対化し外側の視点を導入しているところに自己言及的な批評性を感じるし、マンガ作品の中でマンガを読んでいる読者に向かってマンガに対するやや批判的あるいは分析的な見方を提示するところに、逆説的な面白さを覚える。




【アニメ】(本になった出木杉!? 人間ブックカバー)

 こちらの作品も上出来だった。
 

 冒頭の先生による批判の矛先は、どちらかというとマンガよりゲームのほうに力点が置かれた。現代の子どもはマンガよりゲームに夢中という現実の反映だろうか。


 のび太がしずかちゃんから借りた『赤毛のアン』の本。原作では「安岡みえ子 訳」とあったが、アニメでは訳者の名が削られた。この安岡みえ子とは、本物の翻訳者の名前ではなく、「人間ブックカバー」の原作マンガが描かれた当時、藤子スタジオに在籍していたアシスタントのかたからとったものだろう。私は、今から20年ほど前、その安岡さんがNHKのテレビ番組でインタビューを受けているのを観たことがある。


 ドラえもん出木杉が発した言葉に対し、のび太が反射的に思い浮かべるイメージのくだらなさが愉快だった。たとえば、ドラえもんが人間ブックカバーを出して「これをかぶると人間が本になるんだ」と説明すると、のび太の脳内に擬人化した本の映像が浮かんだり、出木杉がお薦めの本として『アンクルトムの小屋』を差し出したら、のび太が「小屋の話!? 変なのぉ」と応じたり、これまた出木杉が『銀河鉄道の夜』の登場人物について「植字工のアルバイトをして」と語ると、のび太は「植字」を「食事」と受けとったり、そんなのび太の貧困なのか豊かなのか分からぬイメージの喚起力が笑いを誘った。


 出木杉のび太に「本を読まずに読書感想文を書くなんて虫がよすぎるよ!!」とヒステリー気味に怒るのは、彼のイメージにちょっと合わないなあと感じた。同じようなセリフを言うにしても、そして出木杉の不機嫌さを現すにしても、もう少し落ち着いた感じでのび太を諭すような態度のほうがよかったのではないか。


 原作には出木杉が未来の世界へ行ってドラミちゃんに案内してもらう場面が1コマだけあるが、これがアニメでは見事にカットされた。リニューアル後、いまだドラミちゃん登場せず。