藤子A先生トークショーinサンシャイン60

 11日(金)は、東京へ出かけていた。この日から13日まで東京ビッグサイトコミックマーケットが開催され、その初日に足を運んでみたのだ。
生まれて初めてコミケ会場に入った私は、広大なスペースに長机が整然と大量に並ぶ光景に圧倒されながら、おのぼりさん的挙動で周囲を見渡した。これだけ広い会場でおびただしい数のサークルとお客さんがひしめきあっているのだから、前もって目当てのサークルの場所をある程度見定めておかないと、とんでもないことになりそうだ。
 さっそく、 8日の日記で紹介した「Neo Utopia」42号と「藤子クロス」を入手。そのほか、わずかだが、別の同人誌も購入した。



「Neo Utopia」42号の感想などは後日書きたいが、この42号をひととおり眺めてみると、この日朝から行動を共にしていた名和広さんがそうとう活躍しているなあ、と実感した。20周年記念座談会の司会をつとめたり、マッドなNU会員・黒幕組合VSゲルピンくん対談をプロデュースしたり、ドラえもんファンの女性会員Sさんを取材したり、彼の投稿したイラストがお便りコーナーで殿堂入りを果たしたり、といった具合だ。
 名和さんが携わったこれらの記事は、彼独特の世界観が大なり小なり反映していて、今までのNU誌面では見あたらなかった個性を発揮している。これを読んで、妙なコクとアクがあっておもしろいと思う人もいれば、その刺激に眉をひそめる人もいたりするかもしれいない。
 名和さんは、今号の編集後記で「パーチャクパー子」というレアなフィギュアをようやく入手できた喜びを語っているが、その文面は、パーチャクパー子に本気で恋をしているかのような、熱烈かつ詩的な内容。これを読むと、名和さんは、本物の人間の女性ではなくフィギュアの少女を恋愛対象にしているのではないか、と思えてくる。それほど、パーチャクパー子への熱い気持ちが、短い文面から伝わってくるのだ。本田透氏ではないけれど、生身の女性を愛するよりも、架空の女性を愛することに生き甲斐や価値を見出す人が増えている昨今、名和さんも、極度の藤子フィギュアマニアとして、その道を邁進していくのだろうか。いろいろな愛の形があっていいと思うので、名和さんにはその道で頑張ってほしいものだ。(何を頑張るんだ?)




 藤子不二雄A先生のトークショーは、池袋のサンシャイン60展望台で、午後2時から行なわれた。同所で開催中の「赤塚不二夫漫画家稼業50周年企画“赤塚不二夫サンシェーッインギャラリー”」を記念したイベントで、多摩美術大学教授の片山雅博氏との対談形式で進行された。
 展望台の一画の特設ステージに登場したA先生は、鮮やかなオレンジ色の「夜の犬」Tシャツを着て、実に若々しい印象だった。夜の犬とは、赤塚マンガに登場するキャラクターで、満月の夜に逆立ちした犬のことだ。片山氏は、黒を貴重とした「笑ゥせぇるすまん」Tシャツを身につけ、A先生へ敬意を表していた。お二人のトークのテーマは、当然ながら赤塚不二夫先生についてである。



 A先生は、赤塚先生と初めて会った印象から、トキワ荘スタジオ・ゼロ時代のエピソード、赤塚先生がタモリを福岡から読んだ事実など、お馴染みの話を披露した。
 そんななか、観客の反応がよかったり、私の心に残ったりした話題を紹介したい。


トキワ荘のひと月の家賃は3000円だった。みんな貧乏だったから、その頃いちばん売れていた兄貴分のテラさんからお金を借りることがよくあった。あるとき、テラさんが僕に「お金、足りているかい? もし困っていたら貸そうか」と尋ねてきたことがあったが、僕にもプライドがあったので「いりません」と断った。でも翌日、やっぱりお金が払えなくなって、テラさんに借りに行った(笑)
 赤塚氏は、なかなかマンガ家として売れなかったので、ある日、キャバレーのボーイになると言い出した。それを聞いたテラさんは、5万円を赤塚氏に貸して「これがなくなるまではマンガ家で頑張れ」と励ましてくれた。当時の5万円といえば大変な金額。赤塚氏は後年、「テラさんがあのとき5万円を貸してくれていなかったら、今ごろ俺はキャバレー王になっていたはずだ」と豪語していた(笑)


・最も売れていた頃の赤塚氏は、ベンツを2台所有していた。ヨットも持っていた。でも彼はヨットの免許を持っていないので、そのヨットに乗ったのは1回くらいじゃないか(笑) 


・赤塚氏は『おそ松くん』で売れっ子になったが、あの時代にあんなナンセンスなマンガを描いたのがすごい。同じ「少年サンデー」に僕と藤本くんは『オバケのQ太郎』を連載していたが、同じギャグマンガでも、僕らのはほのぼのとして、終わりにちゃんとオチのあるようなものだった。でも、赤塚氏のマンガは、頭では考えられない。レレレのおじさんなんか、ほんとうに意味のないキャラ。ただ掃除しているだけなのに、なんか知らないけれど面白い。



 7月に亡くなった、赤塚先生の奥様・眞知子さんの話題にも触れられた。
・先月眞知子さんが亡くなった。僕は悲しくて仕方がない。眞知子さんは、赤塚氏の前の奥さんである登茂子さんの推薦で、赤塚氏と結婚した。見た目も内面も綺麗で素敵な人だった。赤塚氏のことを母親のように慈しんでいた。



 A先生は、こうしたトークショーで、スタジオ・ゼロの面々が作画を担当したアニメ『鉄腕アトム』「ミドロが沼」の話をするとき、そのサブタイトルを「ミドロが沼の怪人」と間違って言うことが多いのだが、今回は、最初から普通に「ミドロが沼」とおっしゃっていた。
 昨年12月10日、杉並アニメーションミュージアムで開催されたA先生と鈴木伸一館長のトークショーでは、A先生はいつもの癖で「ミドロが沼の怪人」と言ってしまって、鈴木館長と司会の片山雅博氏に「“怪人”は要りませんよ!」とダメ出しをくらっていた。



 片山氏の話でとくに興味深かったのは、この情報だ。
トキワ荘が取り壊されるとき藤子先生と石森章太郎先生がトキワ荘関係の本を出版し、それを記念したパーティーが京王プラザホテルで開かれた。赤塚先生は、友達である藤子先生や石森先生をお祝いするため、トキワ荘のガスコンロで火をつけ、聖火ランナーになってトキワ荘から京王プラザホテルまで走り抜いた。その模様を8ミリフィルムで撮影し、そこに鈴木伸一先生が、手塚先生・藤子先生・石森先生らが走っている似顔アニメを合成して、パーティーで上映した。このフィルムがまだ残っているので、今度、赤塚先生の娘さんに渡す予定。



 最後にA先生は、
「赤塚氏は今は病床で寝ているが、きっとカムバックすると思う。僕はもうすぐ死にますが(笑)」
と発言。すると片山氏が
「こんなにゴルフ焼けして健康な人が何を言ってるんですか」
などと切り返した。




 夜は、藤子ファン仲間で集まって、飲み会を開いた。
 1次会の居酒屋では、あるトラブルによって私が結果的に飲み会の楽しいムードを壊してしまい、一緒に飲んでいた方々には、まことに申し訳ないことをしたと思っている。本気で身の危険を感じ、恐怖と怒りのあまり、大人気なくブチ切れてしまいました。
 その後、Nさんが、妙な演出のある中華料理店へ皆を連れて行って、雰囲気を和ませてくれた。Nさんに感謝。
 トラブルによって負った喉の痛みが翌日になっても消えないので、12日に医者へ行ってみたら、「出血はしていませんが、喉が赤く腫れ上がっています」と言われ、4種類も薬を出された。軽傷ですんでよかったが、喉のケガなので、ちょっとしたことで痛みを感じやすく、とくに食べ物を飲み込むたびに痛みが伴って、なんだか切なくなる。トラブルの事などすぐに忘れたいところだが、喉が痛むたびに思い出すので、よけいに悲しい。



 このとき一緒に飲んでいた藤子ファン仲間のTさんが、翌日になって、「koikesanさんが怒るのを初めて見ました。なんだがF先生みたい。スタジオゼロで赤塚先生とフジオプロのメンバーが銀玉鉄砲を撃ち合っているとき、めったに怒らないF先生が「うるさい!」と怒りモードになったエピソードを思い出しました」とメールを送ってくださった。私の行動をF先生にたとえてもらえたことで、とても心が和み、救われた気持ちになった。ありがたい。
 私はF先生ほど温厚な人間ではないので、たまに怒ったりキレたりすることもあるだろうが、今回のように激しく怒りをぶちまけることは、10年に1度あるかないか、である。