「な、なんと!! のび太が百点とった!!」「デビルカード」レビュー

 アニメ『ドラえもん』は、9月22日の放送以後、番組改変期にあたり3週間連続で休み中である。次回の放送は10月20日となるが、9月22日に放送された2作品のレビューをまだしていなかったので、遅ればせながらここで書いておきたい。いつもは原作とアニメを分けて書いているが、今回はその辺のところを曖昧にして、「な、なんと!!のび太が百点とった!!」と「デビルカード」の2作品について思うところを記していきたい。



●「な、なんと!! のび太が百点とった!!」

・原作初出:「小学六年生」1981年5月号
・原作収録単行本:てんとう虫コミックス第25巻など
・アニメサブタイトル:「最初で最後か? な、なんと!!のび太が百点とった」

 いつもは0点をはじめ悪い点数ばかりとっているのび太が、奇跡的に100点満点をとった。のび太はそのことを皆に自慢しようとするが、ふだんの点数が点数なだけに誰もまともにとりあってくれない。ジャイアンスネ夫は、のび太の名が書かれた100点の答案が道に落ちていると聞いて「名まえか点数か、どっちかがまちがってるんだ」とはなっから信じてくれないし、しずちゃんのび太がまた0点をとったと思い込んで慰めてくれるし、ドラえもんにいたっては「ついにカンニングしたか」と条件反射的にのび太を疑う始末。皆のつれない反応にのび太はいじけてしまう。
 のび太が100点をとったことに対し、それぞれの登場人物の性格に応じて違った反応が見られるのが面白い。違った反応ながら、誰もがのび太の100点を素直に信じてくれない点で一様なのもまた面白い。



 ふだん正しくないことばかりしているため、いざ正しいことをしても周囲から信じてもらえない、というこのエピソードを読むと、あの有名な狼少年の話を思い出す。羊飼いの少年が日頃から「狼が来た」と嘘ばかりついていたので、本当に狼が出現したときいくら「狼が来た」と叫んでも誰にも信じてもらえなかった、という話だ。
 羊飼いの少年は、故意に嘘をつき大人たちを騙して笑っていたわけで、それと比べれば取りたくもない不本意な点数ばかり取って叱られ続けるのび太の日常は同情の余地があるけれど、“日常の行ないが悪いと、いざ正しいことをしても信じてもらえない”という寓意(物語的教訓)が読みとれるところで2つの話は通低していると思う。
 ただしのび太は最後になって、ひみつ道具を使わずとも100点を取ったことをママに信じてもらえたのだから、狼少年よりはずっと救われているし愛されているのだった。
(狼少年の話は、いま手元にある「イソップ寓話集」(岩波文庫)には『悪戯をする羊飼』という題名で収録されている)



●「デビルカード」

・原作初出:「てれびくん」1980年5月号
・原作収録単行本:「てんとう虫コミックス」第22巻など
・アニメサブタイトル:「イマどきの悪魔にご用心 デビルカード」

 悪魔から渡されたデビルカードを一振りすると、300円が出てくる。そのかわり悪魔は、300円ごとにのび太の身長を1ミリだけもらう。のび太と悪魔は、そんな契約を交わす。300円という金額が微妙で、そのたびに身長を1ミリもらうというのもまた微妙で、そんな大したことのなさげな交換条件と、一振り300円という手軽さから、のび太はデビルカードを相当使いこんでしまう。
 のび太がシャツを着ると袖がだぶついて、そんなのび太を見たママが「なんだか小さくなったんじゃない?」と訊くシーンは、ゾッとする。その後、ジャイアンや両親らにデビルカードをたっぷり使われて、のび太が身長をすべて失ってしまう!? というところで恐怖は最高潮に達するのだ。
 この話はまた、現実の社会で今まさに起きているサラ金地獄の構図に似たものを感じさせ、恐怖が増幅する。



 のび太と悪魔の契約のアイデアは、『ファウスト』の物語からヒントを得ている。悪魔と契約を交わし、地上の快楽にかわりに悪魔に魂を売り渡すというファウストの話は、世界中に様々な異説・異本が存在する。日本で生まれたものでは、手塚治虫先生のファウスト3部作『ファウスト』『百物語』『ネオ・ファウスト』が有名だろう。そして、世界的なレベルで最高峰とされるのが、ゲーテ作の『ファウスト』である。
 ゲーテの『ファウスト』第一部は、こんなふうに始まる。

老学者のファウストは、あらゆる学問を極めつくしたが、結局「われわれは何も知ることができない」と悟り絶望する。そんなファウストに悪魔メフィストフェレスが近づき「私はこの世であなたの奴隷のように仕えるので、あの世で再び会ったときはあべこべにあなたが私に使われてください」と契約をもちかける。あの世に興味のないファウストはこの契約に応じ、さらにファウストがこの世の快楽にたぶらかされ刹那に向かって「とどまれ、おまえは美しい」と言ったら、そのときファウストは死んで悪魔に魂を捧げる、という賭けをする。そうしてメフィストフェレスによって20代に若返ったファウストは、敬虔なクリスチャンの少女グレートヒェンに一目惚れしていくのだった…

 
ファウスト』の物語に直接的なヒントを得た藤子・F・不二雄作品は、「デビルカード」のほかにもいくつかある。その代表格が「漫画アクション」1979年4月14日増刊号で発表された短編『メフィスト惨歌』だろう。人生に絶望した男の前に悪魔メフィストが現れ、快楽に満ちた新しい人生を男に与えるかわりに男が死んだら魂をもらいたい、と契約をもちかけるところはゲーテの『ファウスト』と同様だ。しかし『メフィスト惨歌』は、悪魔の存在など簡単に信じてもらえず世界中の神々が人類の救済にサジを投げた20世紀の日本を舞台にしており、それがために悪魔はさまざまな苦労を強いられる。自分の存在をすぐに信じてもらえただけで驚き途惑うメフィストの様子を見るだけでも、彼のふだんの苦労がうかがえるだろう。
 本作は、科学文明が発達し、何もかもが金銭的価値に置き換えられ、厳密な書面による契約社会となった現代日本で活動する悪魔メフィストの悲哀を描いていて、そのさまはノルマに追い立てられ上司に叱責されストレスに苦しむサラリーマンの悲哀に通ずるものがある。



メフィスト惨歌』以外で『ファウスト』にヒントを得た藤子・F作品としては、「週刊少年サンデー」1977年9月11日号で発表された『未来ドロボウ』が思いあたる。『未来ドロボウ』は、老い先短い老人と、未来をたっぷり残した中学生による人格の入れかわりを描いた短編だ。F先生は、『ファウスト』における魂と若さの交換という設定をもとに、ファウストメフィストフェレスの役割を一旦分解し、それを中学生・老人・執事の3人に再配分して、『未来ドロボウ』の話を構成したのである。たとえばここに出てくる老人は、人生に失望した中学生に契約をもちかけるという点でメフィストフェレス的だが、契約後は自分自身が若返り新しい人生の快楽を体験するという点でファウスト的なのだ。
 それにしても、この老人の「未来は、それがあるというだけですばらしいことなんだ」という言葉が、ますます真実味を帯びて感じられる今日この頃である。



 ちなみにファウストは、15世紀末から16世紀中頃まで南西ドイツに実在した人物で、医師・錬金術師・占星家として知られる人文学者だった。
 ドイツのシュタウフェン・イム・ブライスガウという小さな町に「ファウスト博士 終焉の地」があって、隠れた名所になっているそうだ。市庁舎前の広場に面した旅館「獅子亭」の壁には「西暦1539年、当地におきて黒魔術師ファウスト博士死せり」といった一文が刻まれているというし、市庁舎の塔に昇る階段の最上階には爪先の尖った足跡が残されいて、それは空中に飛び立つ悪魔がふんばった痕跡だということだ。ドイツを旅行する機会があればぜひ訪れてみたいスポットだが、そもそもドイツへ行くことなど今後あるのだろうか。