「ドラえもんだらけ」のマッチ箱

   

 写真は、ドラえもんのマッチ箱である。台湾製で、「ドラえもんだらけ」のトビラ絵に色をつけたデザインになっている。「第5巻」とあることから、台湾で売られている『ドラえもん』の単行本の表紙を流用したものとも考えられる。
 このマッチ箱の図版は、「ドラえもんだらけ」のトビラ絵をそのまま使っているのではなく、いちばん手前のドラえもんだけ絵を差し替えているのミソだ。ご覧のとおり、このマッチ箱では手前のドラえもんは不機嫌そうにドラ焼きを食べている。ところが、単行本で元のトビラ絵を確認すると、そこには傷だらけで口がヘニャへニャに歪んだドラえもんがいる。
 このマッチ箱は、手前のドラえもんのみ、「ドラえもんだらけ」本編の18コマめで描かれた図版を使っているのだ。



ドラえもんだらけ」は、数ある『ドラえもん』のエピソードのなかでも人気の高い一編で、私も、タイム・パラドックスの不思議さとドタバタギャグの笑いを見事に結合させた大傑作だと思っている。ドラえもんの血走った目や狂気じみた表情も、本作の存在感を高めるのに一役買っているだろう。
 昨年アニメ『ドラえもん』でこの話が放送されたときも同じことを書いたが、今一度ここで「ドラえもんだらけ」の魅力に触れておきたい。



 のび太にドラ焼きで誘惑されたドラえもんは、のび太に代わって宿題をやらされることになる。宿題は、2〜3日分たまっているという。そこでドラえもんは考えた。未来の自分をここへ連れてきて手伝わせれば、1人でやるよりずっと手早く効率的に宿題をやり終えられるだろう、と。
 しかし、その一見すばらしい考えによって、ドラえもんはとんでもない修羅場に自らをおとしいれることになる。ドラえもんが自ら招いた修羅場なので自業自得といえばそのとおりなのだが、その自業自得の結果に至る因果応報のプロセスを、タイム・パラドックスを駆使して描いているところに本作の醍醐味がある。しかも、その顛末をドタバタギャグにしてしまっているのが秀逸なのだ。



 タイム・パラドックスとは、簡単にいうと、時間を行き来することで生じるパラドックスのことである。では、そのパラドックスとは何か。
 パラドックスとは、日本語で「逆説」などと訳され、「一見正しいようであるが、きっちり突き詰めて考えれば誤りだと分かる言説・事象」、あるいは逆に、「一見誤っているようだが、厳密に分析すれば高いレベルの真実を示す言説・事象」のことだ。我々が日常で出会う「矛盾した意見」とか「もっともらしい嘘」とかもパラドックスの一部といえるし、論理学や哲学、数学、物理学のジャンルで扱われる、もっと高度で難解な「真のパラドックス」もある。



ドラえもん』では、「ドラえもんだらけ」に限らず、タイム・パラドックスのアイデアがよく使われるし、タイム・パラドックスとはいえないまでも、タイムトラベルを題材にしたエピソードや、ストーリー上でパラドックスが発生するエピソードもいろいろと存在する。
 藤子・F・不二雄先生は、タイムトラベルやパラドックスの問題を、子どもにもわかりやすいよう単純化して『ドラえもん』の作中に取り込んでいる。どんなに難解で高度な問題も、おもしろい話の材料へと磨き上げ、娯楽に奉仕させているのだ。しかし、そうやってわかりやすく単純化した表現のなかからも、F先生の深い知性や鋭い視点がにじんでいるため、いわゆる〝学のある人〟がタイム・トラベルやパラドックスの問題を論じるとき、その事例を『ドラえもん』から拾い上げることがしばしばあるのだ。
 パラドックスというテーマでは、数学者の林晋氏が『パラドックス!』(林晋・編著/日本評論社/2000年)のなかで「ドラえもんパラドックス」というコラムを書いている。どこでもドアなどのひみつ道具が引き起こすパラドックスに言及しており、こんなくだりを読むとファンとしてはなかなか嬉しくなってくる。

SFのパラドックスのほとんどは、こんな風に言われてみればナーンダというようなことなのだが、中には含蓄が深くて、もしかしたら作者は天才的な科学者か哲学者ではないのかとウーンと腕組みをして感心してしまうようなものもある。私は『ドラえもん』のマンガを読むとよくそういう腕組みをする。子供マンガのレッテルを貼られることが多い藤子・F・不二雄作品だが、『パラレル同窓会』のようにシュールなものが結構あるというのはマンガ通の間では一致した意見のようだ。そして、一見、お子様向けのドラえもんにさえ、そういうシュールさが随所に組み込まれているのである。

 
 タイム・トラベルというテーマでは、哲学者の中島義道氏が自著『哲学の教科書』(講談社/1995年)のなかで、『ドラえもん』に見られるタイム・トラベルを例にとり、過去へのタイム・トラベルの不可能性を論じている。
 それから、哲学者の永井均氏が『マンガは哲学する』(講談社/2000年)の第4章「時間の謎」において、「『ドラえもん』もまた発想の宝庫であり、精密に論じるべき多くの哲学的問題を含んだ大傑作である」と述べ、『ドラえもん』の作品世界の構造を哲学的に考察している。



 と、ここまで説明したところで、「ドラえもんだらけ」の内容を私なりに見ていきたい。
ドラえもんだらけ」では、現在のドラえもんが、人手を増やして宿題を効率よく片づけようと2時間後、4時間後、6時間後、8時間後のドラえもんをタイムマシンで現在へ連れてくる。その結果、都合5体のドラえもんが一堂に会して互いに他者であるかのようにコミュニケーションをとることになるが、本来的にはその5体のドラえもんはすべて自分同士である。本当は1体しか存在しないドラえもんが、それぞれ2時間ずつズレた世界に住む4体のドラえもんと同じ時間・同じ場所に居合わせる状況から、タイム・パラドックスが生じるのだ。
 現在のドラえもん1体と未来のドラえもん4体は、ときには揉めながらも力を合わせ、どうにか宿題をやり終える。責任をはたした未来のドラえもん4体は、それぞれの未来へ戻る間際、「ほんのおかえし」とばかりに現在のドラえもんを殴りつける。現在のドラえもんは、未来のドラえもんに殴られながらも、宿題を終えた安堵にひたり眠りに就くのだった。
 ところが、話はここで終わらない。現在のドラえもんにとっての惨劇は、むしろここから始まるといってよい。眠りに就いた現在のドラえもんが、今度は、先程まで一緒に宿題をしていた2時間後、4時間後、6時間後、8時間後のドラえもんの役割を次々と担わされることになるのだ。そのため、現在のドラえもんから見て2時間前、4時間前、6時間前、8時間前のドラえもんによって、現在のドラえもんは都合4回、それぞれの過去へ無理やり連れていかれることになる。そうすることで、もともと現在のドラえもんが行なった行動の辻褄が合わされるのである。
 このようにちょっとややこしい論理的思考をともなうタイム・パラドックスというものは、論理的思考からとことん頭を解放してくれるドタバタギャグとは背反する関係にあるといってよいだろう。そんな相反する2つの要素を親和的に結びつけ、ハイテンションなSFギャグに昇華した「ドラえもんだらけ」は、数ある『ドラえもん』のエピソードのなかでも奇跡の1作というべき傑作だと思うのだ。


ドラえもんだらけ」データ
初出:「小学三年生」昭和46年2月号
単行本:「てんとう虫コミックス」5巻、「藤子不二雄ランド」7巻など