2009年正月

 新年あけましておめでとうございます。


 この年末は、なぜか例年よりも「年末だなあ」という感慨が乏しく、「ぼやぼやしているうちになんとなく新年を迎えてしまった」という印象です。
 じっさい、新年を迎えたといっても、昨年からの連続性のなかで淡々と規則的に時が刻まれ、昨年と同じような質の時間が流れるばかりで、「新年」ということを強く意識しない限り物理的には何も変わっていません。私が年を重ねるたびに、一年の境い目に対する感受性を鈍化させてしまっているのは、実に自然なことなのかもしれません。


 とはいえ、現にこうして新しい年が始まって元日を過ごしてみると、なんだかこう「新しい年が始まってくれたことのありがたみ」みたいなものをひしひしと感じるのです。
「新しい年が始まった」と思うだけで、なんとなく気分がリフレッシュして、いろいろなことを頑張れそうな気がしてくる。現実の人生のあれこれが単純にリセットされるわけじゃないのに、心にこびりついた垢が洗い流されて、根拠もなく希望のようなものが胸にわいてくる。どことなく、心に光が差し込んで感じられる。
「ああ、こういう感覚こそが、新年を迎えることの何よりも大きな効能なのだなあ…」とあらためて感じ入っております(笑)


 人類は、「時間」という概念を発見し、地球の公転や自転運動などを基に時間の流れを「年」とか「月」とか「日」といった暦で整理整頓し、「新年」という位置を設定してくれました。そんな人類の偉業に感謝したい気持ちがわいてきます。
 人類の他の、本能で生きている動物たちは、暦などわざわざ発明しなくても、暦のような体内感覚をしっかりと自然に有しているのでしょう。だから、たぶん、理性で体系化された暦などに依拠しなくても、精神が不安定にならずに済むのだと思います。
 ところが、“本能の壊れた動物”(by岸田秀)である我々人間は、そうはいかない…。
 毎年なにがあっても生きていれば新年を迎えられるということは、もうそれだけで人間にとって重要不可欠な救済装置なのかも…、と思ったりした元日でした(笑)



 昨年の元日は、初日の出の時間帯に嘔吐したりして不穏な始まり方をしましたが、今年はありがたいことに平穏でした。
 朝6時ごろまで「朝まで生テレビ!」を観て、それから午前中いっぱい眠り、目が覚めて「今年はウシ年だ」と思ったら不意にヨーグルトが食べたくなってコンビニで買ってきて、昼から実家へ行ってすき焼きと刺身を堪能。すき焼きを食べ終えたあと、ウシ年を迎えた初日からウシの肉を食べてしまったことにどこかしら罪を意識を感じ、でもそんな罪の意識はすぐに立ち消え、犬山の成田山名古屋別院へ初詣に出かけました。
 成田山でおみくじを引いたら「吉」が出ました。「大吉」「中吉」に次いで良い結果なので、こういう無難さがいいのだなと、とりあえず思っておくことにしました。



 藤子ファン的に今年が「ウシ年」であることを考えたとき、まず頭に思い浮かんだ脳内映像は、『ドラえもん』の以下の場面でした。
 
「しつけキャンディー」の一場面です。スネ夫のひいおばあちゃん(93歳)が、“ウソをついたら地獄に落ちてエンマ様に舌を抜かれる”と説教したことに対し、スネ夫のび太たちは、そんなの迷信だ、と笑います。
 ドラえもんは、「昔の人はウソは悪いってことをそんなふうに教えたんだよ」「科学は人間の生活を豊かにしたが、同時にこころをまずしくしたのではあるまいか!」と熱く語り、それはともかくおばあちゃんをバカにするはけしからん!ということで、“しつけキャンディー”なる物を四次元ポケットから出します。
 しつけキャンディーをしゃぶったおばあちゃんが迷信を言うと、その迷信通りのことが現実に起こってしまうのです。


 上の場面は、「ごはんのあとすぐ横になると、ウシになるのじゃ」とおばあちゃんに言われたスネ夫が、本当に牛になってしまうところです。スネ夫が本当に牛になってしまうというそのモロな描写がなんとも可笑しいですし、スネ夫のママがガニ股になって絶叫する姿も笑えます。
  昔は、こういう迷信が親や祖父母などから子どもに向けて語られた瞬間、子どもの心のなかで迷信の内容がまるで本当のことのように意識づけられ、そのことが大きな教育的効果を生んでいたのでしょう。そういう意識づけがなされれば、ウソをつこうとした子どもは「エンマ様に舌を抜かれる」というイメージが反射的に心に浮かび、ウソをつくことを止めようとするでしょうし、食べたあと寝転がろうとした子どもは「牛になる」自分の姿を不意に思い浮かべて寝転がるのを思いとどまるでしょう。
 ところが、そんな現象は科学的にありえない、と子どもにもわかってしまっていて、親も迷信を馬鹿にしてしまっているような現代社会では、迷信を用いたしつけの効果が著しく薄らいできていると思われます。私などは、どちらかというと合理的な知見や科学的な知識を信奉する性質ですし、オカルト的なものに懐疑をおぼえやすいところもあって、ドラえもんの「科学は人間の生活を豊かにしたが、同時にこころをまずしくしたのではあるまいか!」という言葉を聞くとちょっと耳が痛いのです。
 オカルトがあまりに本気に受け止められすぎる風潮に抵抗感をおぼえますが、でも、科学の名のもとに退けられた様々な事象にも真理が含まれていて、そういうものを無下に小馬鹿にする態度もいただけないなと感じています。
 たとえば、先祖に感謝する素朴な心情なんて、とても大切だと思ったりします。


 オカルトを科学的・論理的な視座で判断することは重要ですが、迷信を用いた昔のしつけが含み持っていたニュアンスというか精神というか魂というか、「どこかで神様が自分の行動を見ている」的な感覚は、人として生きていくうえで忘れてはならないものかもしれません。
 

 というわけで、「しつけキャンディー」は多分に訓話的な要素を持っていますが、それを短いページで実に面白おかしい話に仕立てているところに藤子F先生の手腕を感じます。



 ウシ&ドラえもんといえば、今年3月に公開される映画ドラえもん『新☆のび太の宇宙開拓史』の原作マンガ・旧作映画である『のび太の宇宙開拓史』に出てきた宇宙船「ブルトレイン」なんかも思い出します。

機動戦士ガンダム』のモビルスーツのデザインを担当したことで有名な大河原邦男さんがデザインしたメカです。『のび太の宇宙開拓史』の世界観のベースに、アメリカの西部劇映画があるわけですが、このブルトレインも、そんな西部劇的世界観に合わせて、アメリカバイソンをモデルにデザインしているようです。作品世界に見事にマッチしたメカデザインで魅力的です。新作映画ではデザインチェンジされるようですが…


 
 藤子マンガとウシという観点ですぐに思い浮かぶ作品に、SF短編『ミノタウロスの皿』があります。
 先ほど、ウシ年になった初日から牛肉を食べて罪の意識をおぼえた、と書きましたが、『ミノタウロスの皿』ではもっと事情が厄介です。主人公の地球人宇宙飛行士がたどりついた星では、地球で言う牛の姿をした動物が人類(ズン類)で、地球で言う人間の姿をした動物が食肉用家畜(ウス)で、地球人の感覚からすると、食う側と食われる側の立場が転倒しているように見えるのです。 
ミノタウロスの皿』については、以前当ブログで詳しく書いたので、そちらをご覧ください。
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20080306


 ウシ年の初日に牛肉を食べたことも、『ミノタウロスの皿』を読んだことも、「ウシを食べる」という習慣的な行為を私のなかで相対化させた点で共通したものがあります。



 新年から妙なことを考えてしまっていますが、まあ、自分が妙な人間であることを再認識できた元日でした(笑)
 
 本年もよろしくお願いします。