F全集『バケルくん』

 藤子・F・不二雄大全集で『バケルくん』が刊行されました。『バケルくん』全話を収録した分厚い1冊です。この1冊を読破することでF先生の描いた『バケルくん』の全貌を味わえると思うと、物理的な本の厚さ以上の厚みを感じてしまいます(笑)
 
 このF全集『バケルくん』に挟まっている「月報」に、F先生が『白浪五人男』を演じたときの写真が掲載されています。「1983年1月国立演芸場にて、踊りの会の余興として藤子不二雄石ノ森章太郎つのだじろうさいとう・たかをが『白浪五人男』を熱演! 藤子・F・不二雄は赤星十三郎役だった。肩には特製「SIRANAMI」てぬぐいが。」とキャプションが付いています。
 この演劇は、1983年1月24日、国立演芸場で開催された友遊会新春チャリティーのなかで行なわれたものです。「月報」の写真でF先生は肩に「SIRANAMI」手ぬぐいをかけておいでですが、私は同じとき作られた「SIRANAMI」Tシャツを持っています。
 
 私はこの演劇を観ていないのですが、あとになってTシャツだけ入手できたのです。『白浪五人男』を演じた5人の巨匠漫画家が、それぞれ自分の演じた役の自画像を描いています。その横に各漫画家のサインが記されていますが、もちろんプリントです^^




(以下、『バケルくん』の内容に触れていますので未読の方はご注意を)
『バケルくん』は、生活ギャグ+SF(すこし・ふしぎ)要素という構造の作品であり、その意味で藤子F児童漫画の王道路線の系譜にある一作といえましょう。
 作品に対する先入観なしに『バケルくん』の「バケル」という語に接すると、「お化け」のイメージが連想されます。『バケルくん』第1話の「お化けやしき」ではそのイメージにのっとって、近所でお化け屋敷と呼ばれている邸宅を舞台としていますし、バケル人形が「スウ」と追ってくるシーンをはじめ、ちょっと不気味な雰囲気の場面が描かれています。そうやって読者に「お化け」のイメージを与えつつ展開していくこの話は、終盤になって、変身人形の正体が宇宙人の持ち物だったことを明かします。このとき、「お化け」から「宇宙人」へ、というイメージの移行が行なわれ、ちょっぴりホラーテイストで進行していた話が、なんとなくSFテイストを帯びて感じられるようになります。


『バケルくん』は、いまいち冴えない少年・須方カワル(すがたかわる)が宇宙人から譲り受けた各種変身人形を使って他者に変身する、ということを軸にした作品です。カワルは、自分よりも能力の高い少年(バケル)や、頭がよくて美人の女の子(ユメ代)、いくらでもお金が出てくる財布を持った大人(バケルの父親)などに変身して、「他者になる」という稀有な体験を日常的に堪能することになります。
 カワルの変身の方法は、変身人形の鼻をちょこんと押して、自分の魂を人形の体に乗り移らせる、というものです。その変身によって外見や身体的能力、頭のよさなどが他者のものに変わるのですが、記憶や感情といった意識方面はカワルのままなので、カワルは小学生の男の子の意識のままで大人としてふるまったり女の子になったりするわけです。そうした身体と意識のギャップが生み出すあれこれが、本作の面白さの一つになっています。


 カワルがバケルやユメ代などに変身しているあいだは、カワルの肉体は魂が抜けて単なる人形のようになってしまうので、カワルとバケル・ユメ代らが同時に人前に出られない、というジレンマが生じます。カワルはそのうち、5体の人形にいっぺんに変身できる技を発見するのですが、それでもカワルの意識は一つしかないため、5体とも同じ動きをし同じ台詞を発することになって、それは傍から見て実に非自然なふるまいに映ります。そのような、変身後にどうしても生じてしまう制約が、作品のギャグ成分となっています。
 カワルは次第に、2体の人形に乗り移ってそれを別々に動かす高等技術を身につけたり、自分と他者が入れ替わる「入れかわり人形」や、体は鼻を押した人そっくりになり心は人形を持った人のものになる「コピー人形」などを使ったりして、変身の方法はバリエーションを増していきます。こうした変身方法の多様化は、「変身」をモチーフとした作品が回を重ねることによって行きつく必然的ななりゆきといえるでしょう。(ただし、変身人形の使い方が進歩していく順番にやや混乱が見られます)


 カワルは、バケルやユメ代をはじめいろいろな人形に変身することで大いに楽しむわけですが、バケルばかりが評価されたりモテたりして、バケルに対してひがんだ感情を抱くことがよくあります。バケルもカワルも、意識自体はカワルのものなので、カワルは自分自身にひがんだり嫉妬したりという複雑な心理状態を体験することになります。そういうところも本作の面白さです。


「変身」、すなわち「他者になること」をモチーフにした『バケルくん』では、「子どもが大人になる」とか「男が女になる」といったふうに異なる立場の他者に変身してみることで相手の立場を実感する、という話も描かれます。「子どもはいやだ!!」「おたがいに大変だ」が、そういうことをテーマにした話の代表例です。相手の立場になって物事を考えるというのはコミュニケーションを円滑にするための基本的な秘訣ですが、それでも相手が他人である以上、相手の立場を理解することにおのずと限界が生じます。そんなとき、本当に相手そのものになってしまえば、相手の立場を身にしみて理解でき、お互いのことを心から思いやれるようになるはずです。「子どもはいやだ!!」「おたがいに大変だ」は、そのようなことをテーマにした話で、羨ましく見えていた相手の大変さを悟ったところでラストを迎えて爽やかな読後感を残します。


宇宙旅行」という話では、カワルに変身人形をくれた宇宙人が暮らす星の様子が描かれます。この宇宙人は、体を持たず精神(魂)だけで生きているので、彼らの星には家などの建造物はありません。彼らは、おなかもすかないし、病気にもなりません。そんな感じで、宇宙人の星はいつも愉快で幸せいっぱいという楽園的なイメージで描かれています。
 魂だけの人間が暮らす星というと、F先生の大傑作『モジャ公』の「天国よいとこ」で描かれたシャングリラが思い出されます。シャングリラ人は、体から心を切り離す技術によって、心だけを独立させて暮らしています。そんなシャングリラのありさまが、『モジャ公』の作中では、幸福な楽園的状態であるとの価値観も示されつつ、外部の視点から見ればディストピア(アンチ・ユートピア)と受け取れるよう表現されています。人間が心だけで暮らす星の様態が、『バケルくん』では手放しの楽園として描かれ、『モジャ公』においてはユートピアであると考える立場とディストピアと感じる立場とが描かれ相対化されているわけです。


『バケルくん』の作中では、全く動かない人形の鼻をちょこんと押すことでその人形に人の魂が乗り移るというシーンをしょっちゅう見かけます。そうしたシーンを繰り返し見ていると、近世哲学の父と呼ばれるデカルト心身二元論が想起されてきます。デカルトは、人間の精神と身体を異質なものとして峻別しました。そして、人間の身体の構造や機能を機械論的に説明しました。簡単にいえば、人間の身体とは自動機械のようなものであるというのです。そんな自動機械である身体に、別のルートで創造された精神(魂)が結びつくことで、人間は人間たる存在になるというわけです。『バケルくん』では、まさに、変身人形という機械的な身体に人間の魂が乗り移ることで人間化する、という場面が頻繁に描かれているわけですから、この作品は、デカルト心身二元論のイメージを端的に題材化した作品だといえるかもしれません。F先生がデカルトを意識されていたかどうかは別問題ですが^^



 本日のエントリの最後に、藤子・F・不二雄大全集『バケルくん』刊行記念として、私が所有しているバケルくんグッズを紹介します。すでに同ブログで紹介したことのあるものですが、記念ということでご容赦ください(笑)
 
「小学三年生」1974年9月号で通販されたバケルくんバッジです。「おわらいバッジ」と銘打たれて4種セットで販売されたもので、そのうちの1つがバケルくんだったのです。
 
「バケル変身人形アイディアコンクール」に応募した結果当選した新バケルくんのバッジです。このコンクールは、『新バケルくん』の連載が「別冊コロコロコミック」でスタートしたのを記念に企画されたものです。