クリスマスにクリスマスの物語を読む

 クリスマス(&イヴとその前日あたり)に、クリスマスを題材にした物語を再読してすごしました。昔から読んできて、好きな物語ばかりです。
 いろいろと読み返したなか、当ブログのテーマにのっとって藤子作品を中心に語っていきます。

 
 まずは『ドラえもん』の「重力ペンキ」てんとう虫コミックス5巻)です。純粋に「いい話だなあ」と感じられる一編。クリスマス子どもパーティーをあばら谷くんの家でやろう、ということになったのだけど、彼の家は貧しくて狭くて兄弟姉妹が多く、とてもパーティーができる環境じゃありません。悩んだすえ無理だから断りに行こうとしたあばら谷くんにお母さんが向けた言葉がすばらしい。
「お友だちとのやくそくは、守らなきゃいけないよ」
「あんたもたまには、お友だちをさそってきたいでしょ」
「さあ、みんなでかけるよ。かぜひかないように、あつぎして。その前におそうじしようね」
 友達との約束は守るべきと教育的言辞を述べてすぐ、あばら谷くんの気持ちを汲みとって共感を示し、それから即座に兄弟姉妹を連れてパーティーのあいだ家を空けようと行動に移したお母さん。しかも兄弟姉妹に厚着するよう気を配り、さらにパーティーのため掃除してから外出しようとするなんて! ひとつひとつの言動の、なんとこまやかで優しく立派なことでしょう。



 この話の結末も素敵です。ドラえもんの出した重力ペンキであばら谷くん宅の壁も天井も床ごとく使えるようにして、友達、お母さん、兄弟姉妹みんな揃ってパーティーを催すわけですが、道具を出すとき“重力に関する簡単な説明”があったうえで“ペンキを塗った面が下になる”というアイデアが披露されて、ほんの短いくだりなのに、すこし・ふしぎの魅力にしびれます。“重力”という実科学の領域から、“壁でも天井でもペンキを塗ったところが下になる”という空想科学の領域へひょいと跳ぶこの瞬間が絶妙でたまりません。
 壁や天井など、通常は自分にとって「上」だったり「側面」だったりする場所がすべて「下」になるこの不思議な状態は、まさにセンス・オブ・ワンダー! 自分にとって上や下なんていちいち疑うまでもない自明のことだったはずなのに、上や横だと思っていたところまで下になる光景を目撃して、いったい何が下なのだろう、下とはどこのことだろう、と自分のなかで上下の概念が問題化・意識化・相対化されるのです。
 ラストの一コマ。壁も天井も下になったあばら谷くんの家で皆がクリスマスパーティーを心から楽しむ様子に心があたたまります。このコマを、単行本を回転させながら読んだという友人がいます。すべてが下になった部屋を描いているのですから、単行本を横にしても逆さにしてもその一コマに関してはひっくり返らないわけですね♪
 わずか7ページの話ながら、すこし・ふしぎの魅力が冴えているし、じんわりとハートフルで、最後のコマはストレートに楽しげで、ほんとうにいい話です。


 
「重力ペンキ」には、重力ペンキのほかにもうひとつひみつ道具が登場します。インスタントツリーです。種をまいたらあっというまにクリスマスツリーが生えてくる。そんな道具です。これと似たひみつ道具「クリスマスツリーの種」てんとう虫コミックススペシャル カラー作品集5巻)という話に出てきます。これも種をまいたらクリスマスツリーが生えてくるのですが、インスタントツリーよりも生えてくるまでの時間がやや長いようで、生えてきたツリーはサイズが大きめです。しかもツリーにはプレゼントがいっぱいぶら下がっている。「小学一年生」(1971年12月号)で発表されたこともあって、童心のあふれた夢のあるお話です。


 
「重力ペンキ」に負けず劣らず“いい話だなあ”と素直に感じられるクリスマスエピソードが、「地下鉄をつくっちゃえ」てんとう虫コミックス2巻)です。これも素敵なクリスマス・エピソードです。
 パパにプレゼントしてもらおう、じゃなく、パパにプレゼントしよう、という発想がまず素敵だし、そのプレゼント内容も実にパパ思いで泣かせます。通勤ラッシュで毎日大変なパパのために地下鉄をつくってプレゼントしようというのですから、パパ思いであるうえ、まことに壮大な計画です。そんな壮大な計画を描いた話がわずか10ページでまとまっているのもすごい。
 結果としてパパへの地下鉄プレゼントは失敗に終わって、のび太ドラえもんは泣いて謝るのですが、そのときのパパの態度もすばらしい。「泣くなよ、パパのためにやってくれたんだもの、うれしいよ」…。この言葉と、その言葉が本当であることが伝わるパパの和やかな笑顔にジーンとします。
 最後のコマ。パパものび太ドラえもんも土で汚れた姿ですが、3人とも実に嬉しそうな顔をしています。会社に入っていくパパとそれを見送るのび太ドラえもんを見ていると、さわやかな気分になってきます。



ドラえもん』には他にもクリスマス関連の話がいくつもあるのですが、ここではあと1作、「サンタメール」てんとう虫コミックス21巻)を挙げておくことにします。短編『ドラえもん』(つまり通常の『ドラえもん』)のなかでは比較的ページ数が多く、『ドラえもん』のクリスマスものを代表する一編だと思います。のび太ドラえもんが北極から出発するなど、かなり本格的にサンタクロースごっこをします。短編ドラの中の大作といえましょう。


 
エスパー魔美』にもクリスマスの名編があります。エスパークリスマス」「マミを贈ります」です。
 魔美の単純な……いや、純真な心、困った人を見かけるとなんとかしたいと感じる優しさに胸を打たれます。そんな魔美の純真さによって改心する人物が作中で描かれており、それを読む私も心洗われる気持ちになって、クリスマスに読んだからこそ「今まさに聖夜をすごしているんだ」という感覚を味わえました。
エスパークリスマス」に登場する兄妹とその家庭環境は、「重力ペンキ」のあばら谷くんのイメージと重なるものを感じます(兄とあばら家くんの口がとんがているところも似ている…)。両者とも両親のうちどちらかがいないようなのですが、対照的なのは、あばら谷くには優しく立派な母親がいるのに対し、「エスパークリスマス」の兄妹の父親は飲んだくれで家族を顧みない荒んだ生活を送っている点です。そんな父親が魔美の純真さによって改心するのですからホロリとせずにはいられません。
 魔美の心は純真であるがゆえに客観性を欠くことがあります。理知的な洞察・判断をもたらしてくれる高畑くんがいることで、その欠けた点が補われます。魔美と高畑くんはバランスのとれた名コンビです。
エスパークリスマス」では、魔美と高畑くんのあいだでこんなやりとりが見られます。クリスマスなのに親に放置されてケーキすら食べられない兄妹を気の毒に思った魔美は、小さなケーキでも買ってその兄妹の家でクリスマスパーティをしたいと言いだします。それに対し高畑くんは「その場かぎりの自己満足じゃないか。やすっぽい同情は、かえってその子たちのためにならないよ」「いつも他人のほどこしを期待する気持ちをもったらどうする? これからもずうっとめんどうみてやれるなら別だけど」と返します。シビアなようだけど、リアルな判断です。高畑くんの言葉には、蒙を啓かれるような、目から鱗が落ちるような、すぐれた箴言に触れたような気持ちにさせてくれるものが多い。このセリフもその類ですが、そのうえでガツンとくる説教のような迫力を持っています。ガツンとくるのだけど、けっして頭ごなしの説教ではなく、言葉のひとつひとつに納得させてもらえるのですから、これは高畑くんの理知と人柄の賜物なのだと思います。
 そんなシビアなことを述べた高畑くんですが、彼もとても優しい人なのです。困った人を見たらなんとかしたいと感じる魔美と、根っこは同じタイプなのです。
 だから結局、高畑くんは魔美が望んだとおり、クリスマスなのに父親に放置された兄妹の家を訪れる、という選択をするのでした。そんな高畑くんを尊敬します。大好きです。もちろん魔美のことも♪



「マミを贈ります」で魔美がやろうとしたことは、献身的な行動というより、まさに献身です。献身は善行ですが、この場合は行き過ぎです。この魔美の行き過ぎを制御したのもまた高畑くんでした。魔美は、自殺志願の大学生からその悪魔的な願望がなくなるまで彼とともに暮らす決意をしたのですが、それが間違っていることを弁えている高畑くんは大学生のところへ行って「マミをかえせ!!」と怒りながら訴えます。大学生が本気で自殺願望を持っていることを知った高畑くんは、大学生の話に耳を傾けつつ、理性に訴える言葉で自殺を思いとどまらせようとします。社会の歯車になる空しさを語る大学生に対し「歯車をバカにしちゃいけないとおもうな。歯車一枚ぬけても、機械は動きませんよ」と返し、人生なんてつかの間のはかないユメだと言われれば「それはそうかもしれないけれど、でも、どうせユメをみるなら、ぼくは充実した楽しいユメをみたいとおもうな」と語ります。ひとつひとつの言葉のなんたる説得力。私など、ほんとうにそうだ、と肯くばかりですが、大学生の態度はまだ変わりません。そうこうしているうちに高畑くんは「ぼくみたいな中学生に、えらそうなこという資格はないけど……わかってるけど、でも」「でも………」と声を枯らすまで訴えかけ、理屈よりも感情による説得に向かっていきます。それが大学生の心を動かしました。
 困った人を見たらなんとかしたいと自然に感じる優しさ。魔美がそれを持っていることはこの話からも十分すぎるほど感じられますが、高畑くんもまたこんなにも他者を思う情的な人物なのだと強く伝わってくるエピソードです。



 自分がキリスト教徒でもないのにクリスマスに祝祭的な行動を取ることに疑問を感じたとき、私がとても共感するの言葉を「マミを贈ります」のなかで魔美のパパが発しています。
「クリスチャンでもないのに、キリストの誕生を祝うなんておかしなものだが… ま、そうかたいこといわないで、メリークリスマス!!」
 このセリフで私のかすかな疑問はすぐさま吹っ飛ぶのでした(笑)
パーマン』の「特大クリスマス」において、「お寺の子がキリストの誕生を祝うの」と問われたパーやんが「だれの誕生日もめでたさにかわりないよ」と切り返したその言葉も、魔美のパパと同様の宗教的寛容の精神が感じられます。宗派に拘泥することなく、めでたいものはめでたいのだから楽しくお祝いしちゃおうよ、という精神です。
 F先生とクリスマスといえば、「サンタポスト」とか「サンタ特急便」と名付けてクリスマス前に娘さんたちからプレゼントの希望を募っていた事実も思い出されます。そのさいF先生が描いたサンタのイラストが魅力的なのです。



 このクリスマスには、藤子作品のほか活字の物語もいくつか読み返したのですが、ここではウィーダの『フランダースの犬』と、ディケンズの『クリスマス・キャロル』に言及しておきます。
 
フランダースの犬は、テレビアニメの印象が強いのですが、ぜんぶ観返す余裕もないし、いま映像が手元にないので、ウィーダの原作小説を再読しました。物語の終盤、ネロとパトラッシュが、家賃の滞納で住まいを出てから大聖堂で亡くなるまでがクリスマスイブの出来事なのです。
 貧しい暮らしを送りながら、まっすぐで美しい心を持った働き者の少年ネロ。彼を慕う、賢くたくましくやさしい犬、パトラッシュ……。
 ネロには、これでもか、というほどつらいことが続々と降りかかります。クリスマスイブの日、ネロが最後の希望を託していた絵画コンクールにも落選して、絶望のどん底に。ネロとパトラッシュは、大聖堂のなかで飢えと寒さと絶望によって亡くなってしまうのでした。
 そして翌日、クリスマスの日に彼らの亡骸が発見されるのです。
 クリスマスをお祝いしようという日に読むにはあまりに悲劇的でつらい話ですが、かすかながらでも希望を見いだすなら、ネロが念願としていたルーベンスの絵画を最後の最後に見ることができたのは大きな喜びだったろうし、ネロとパトラッシュの深い友情が共に天国へ行くことで完遂した、と見ることもできましょう。でも、そうやって努めて希望を見いださない限り、この物語の結末はつらく悲しいばかりです。ネロとパトラッシュの死を知った人々が、ああしてやればよかった、こうしておけばよかったと悔いるのですが、そんなこと言ったってもう遅すぎるよ…と今回の再読ではその場面で泣けました。
 藤子・F・不二雄先生のご長女・土屋匡美さんは、インタビューでこんなことを述べていました。
『父は子ども向けの物語が悲劇で終わることをあまり好みませんでした。また「子どもが死ぬ物語」の映画などは観ようとはしませんでした。子どものころ「フランダースの犬」の最終回を見て、姉妹で大泣きしたことがあるのですが、父は「正直でやさしく、働き者が報われないのはかわいそうすぎる」と真剣に言っていました(笑)』(「ポピュラーサイエンス日本版」2004年10月号)


 
 ディケンズクリスマス・キャロルも、クリスマスの物語の古典的な名作です。村岡花子が訳した新潮文庫版(タイトル表記は『クリスマス・カロル』)で再読しました。今年NHK連続テレビ小説村岡花子をモデルにした『花子とアン』が放映されたこともあって、この訳で読むのがふさわしいと思ったのです。「赤毛のアン展」のレポートを当ブログで書いた縁もありますし。このときは、村岡花子のお孫さんのトークを聞いたりご著書にサインをいただいたりしましたし、ブログでは藤子作品と絡めて語ったりしました。
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20140508
 そういえば、村岡花子は毎年クリスマスがめぐってくるごとに『クリスマス・キャロル』を読み返していたそうです。


クリスマス・キャロル』は、ケチで欲深く冷たくてクリスマスを祝う気持ちも持たない老人スクルージを改心させよう、という物語です。彼の改心のために行動するのは幽霊。日本の幽霊と違って、生きている人に善くなってもらおうと働きかけるのがイギリスの幽霊だとか。
 改心の前と後でスクルージは別人のように変わります。こんなにも人格を変えてしまうなんて、幽霊たちは彼に対していったい何をしたのでしょうか(笑)
フランダースの犬』の悲劇的な結末を読んだあとだと『クリスマス・キャロル』の明朗で善良な結末にホッとします。人間には良心がある、ということをいっそう信じたくなる物語です。当時のイギリスの民衆がクリスマスをどんなふうに祝っていたかを伝えてくれるお話でもあります。



 クリスマスにクリスマスの物語を読んですごす…。なかなか味わい深く、充実感のあるクリスマスの過ごし方だなと感じました。