映画『のび太の新恐竜』感想【その4】「鳥らしさを愛でる」

 ※以下、映画『のび太の新恐竜』のネタバレを含んでいます。未見の方はご注意を。

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 感想【その3】でも書いたとおり、キューは、生物進化のプロセスのなかで「羽毛恐竜から鳥類へ近づいた身体」を持って生まれてきた個体です。キュー自身はまだ鳥類ではありませんが、キューの遺伝子を受け継いだ子孫がやがて鳥類へと進化していくことになるのでしょう。

 キューは、羽毛恐竜から鳥類へと進化していくプロセスにおいて、その中間期にある存在なのです。ミッシングリンクですね。

 映画『のび太の新恐竜』を素直に観る限り、そのように読み取れます。

 

 ですから、キューを眺めていると「鳥らしさ」を感じさせるところが随所にあります。

 もちろん、「前肢に羽毛があって翼のように見える」「羽ばたいて空を飛べるようになった」というのは、最たる鳥らしさですが、それ以外にも鳥らしさを感じさせるところがあって、鳥が好きな私を喜ばせてくれました。

 私がキューに「かわいい~!」と目をハートにして惚れ込んでいるのは、キューから鳥らしさを感じる、という理由もあるのです。

 

 たとえば、作中でキューはミューと比べて「身体が小さく尾が短い」と指摘されます。身体が小さくなっていくのも、尾が短くなっていくのも、恐竜から鳥類へ進化していくプロセスで見られる顕著な特徴です。

 「身体の小型化」も「尾の短縮」も、恐竜が鳥類へ(そして、原始的な鳥類から進化的な鳥類へ)向かっていく進化の証しなのです。

 

 キューの場合は、一度の突然変異で実にわかりやすく尾が短くなっており、それはフィクションだからこそのデフォルメという面もあるかと思いますが、それにしても、この映画は「身体の小型化」「尾の短縮」という、鳥類進化のプロセスで見られる特徴を端的に描いていて、キューの鳥らしさを演出してくれています。それが私には嬉しいのです。

 

 キューは、ただがむしゃらに努力した成果として羽ばたいて飛べる身体的特徴を獲得したのではありません。生まれたときから羽ばたいて飛べる身体的特徴(筋肉、骨格、サイズなど)を有していました。

 それなのに、生まれたばかりの段階で飛べなかったばかりか、その後も結構長いあいだ飛べませんでした。

 

 なかなか飛べなかったキューですが、親代わり(疑似的な親)であるのび太の飛行訓練を受け、最終的にはキューが自主的に繰り返し飛ぼうとトライしたことで、ついに羽ばたいて飛べるようになりました。

 そのあたりの「親から訓練を受け、何度も飛ぼうとトライし、ついに飛べた」という展開も、私には「鳥らしいなあ」と感じられました。

 

 いま身の周りにいる野鳥の多く(ムクドリやらツバメやらメジロやら)も、巣立ったばかりの雛はうまく飛べません。うまく飛べないものですから、親のもとで飛行訓練を受けます。訓練の最中に、飛ぼうとしてうまく飛べず、地面に落ちることもあります。親鳥は餌で気を引いて雛を飛ばせようと促したり、少し離れたところから見守ったりもします。

 

 ※そのへんの生態に関しては、こちらのサイトなどで紹介されています。

 https://www.kanaloco.jp/article/entry-92953.html

 

 そんなふうに、まだうまく飛べない雛鳥が親鳥のもとで飛行訓練を受ける生態は、親代わりであるのび太のもとでキューが飛行訓練を受けるさまとバッチリ重なります。飛ぼうとしては地面に落っこちるところなど、まさにキューは鳥っぽいのです。

 

 キューがちゃんと飛べるようになるためには、飛行訓練期間が必要だったわけですね。

 だから、なかなか飛べなかったのです。

 そんな姿を見て、私はキューから「わ~!鳥っぽいなあ」と感じたのです。

 

 ただ、ちょっと違うのは、のび太の特訓指導はキューを飛行させるためには的外れな部分もあったことです。のび太はキューが飛べるようになるための正確な知識や方法論を持っていませんから、羽ばたいて飛ぶ身体構造を持って生まれてきたキューに対し、他のノビサウルスと同じ飛び方(=滑空)をするよう指導してしまいました。これではキューはうまく飛べません。

 とはいえ、のび太はぜんぜん悪くないのですよ。既存のノビサウルスから突然変異で生まれてきたキューを飛ばせるノウハウを知る者など、誰もいないのです。他のノビサウルスの飛び方をお手本とし、そのお手本のように飛べとキューに指導したのは、じつにまっとうな方法だったと思います。

 そんなのび太の飛行訓練に比して、親鳥による雛鳥への飛行訓練は、本能的に的確なものでありましょう。

 

 本能的に正しい指導ができないのび太と、本能的に的確な指導できる親鳥、という差異はあるものの、「飛翔できる身体を持って生まれてきたけれど、まだ飛翔できない我が子に飛行訓練を行なう」という点で、私はのび太がキューを訓練するシーンに鳥らしさを感じ、無性にテンションが上がったのでした。

 

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 のび太がキューにほどこした特訓について、ネット上で「スパルタ」「根性論」と批判する意見を見かけました。映画の感想には多様なものがあって然るべきです。批判や酷評があることも、この映画がもたらした反応の多様性だと思います。

 とりわけ、この『のび太の新恐竜』は歴代映画ドラえもんのなかでも賛否の反応が極端にわかれている、という印象があります。歴代最高!と言うくらい絶賛する人もいれば、許せない!と強く否定する人もいる。そういう賛否の割れ方が大きいな、と感じるのです。

 自分がこんなにも感動し、こんなにも愛でている作品が批判・酷評されるのを見ると、まあ感想は人それぞれだから、と平気なふりをしながらも、ちょっとシュンとしたり、気持ちが動揺したり、この映画を楽しんだ側として言葉を残したいと思ったりもするのです。

 

 私だって、あの特訓シーンを見て、「ちょっと厳しいな」「言いすぎてるところがあるな」「指導の方法論よりも感情が先走ってるな」と感じましたよ。とくに、のび太がキューに対し「ミューや他のみんなと腕の動かし方が違う!」と、他のノビサウルスとキューを比べてキューが間違っているかのような言葉をぶつけたときは、「キュー傷ついただろうなあ…」と感じました。

 キューの幸せをあまりにも願うあまり、のび太はキューに対してちょっと毒親的な接し方をしてしまったようです。

 

 現実にも、我が子の将来の幸せを願うあまり、やみくもに「勉強しろ」「勉強しろ」と厳しく言い立てる親はいるでしょう。勉強がよくできる他の子と比べ、「なんであなたはできないの!」と責めるようなことを我が子に言ってしまう親もいるでしょう。

 のび太も、キューの将来を心配するあまり、キューに飛んでほしいがゆえに、でもキューを飛べるようにするノウハウを持たないために、そのような親になりかけてしまったのです。

 

 そのような親になりかけてしまったものの、のび太はそのやり方をつらぬくようなことはしませんでした。

 のび太は、自分がやったきた特訓について、やりすぎてしまったことに落ち込み、反省します。そして、キューに謝罪します。

 謝罪後は、「のび太=指導する側/キュー=指導される側」というキューとの関係をやめ、「今はできないけれどできるようになりたいこと(のび太は逆上がり/キューは飛ぶこと)」をお互いにがんばってやれるようになろう、と約束を交わします。

 のび太は指導的立場から降り、キューと対等の立場に立ったのです。

 

 そういう物語の文脈を愚直に読み取れば、この映画は「のび太のスパルタっぽい特訓はうまくいかないやり方だった」と結論付けているのではないでしょうか。私はそう受け取りました。

 

 つまり、この映画は、のび太がやったスパルタっぽい特訓(スパルタと言えるほど厳格なやり方ではないけれど、やや一方的な厳しさのある特訓)を手放しで肯定しているわけではないのです。むしろ、スパルタっぽい特訓をやってうまくいかなかったから反省し、やり方を軌道修正する展開を描ているのではないでしょうか。

 

 のび太の特訓のやり方には問題点もあったと思いますが、この映画がその特訓を描いたこと自体が悪いことだったとは思えません。キューの親代わりののび太。そんなのび太の「このうえない愛の深さ」「抱え込んだ責任感」「心配・焦りの心情」、そして「親としての未熟さ」がよく描けていた、と感じるのです。

 のび太が「僕のわがままで卵をかえしたんだから、責任を持って守らないと!」と言うところなんて、まさにのび太が抱え込んだ責任感をダイレクトに感じさせるシーンでした。

 

 のび太は、キューの親として未熟な面がありました。キューに対して「野生の世界のなかで無事生き抜いていってほしい」と切に願い、そのためには「キューは絶対に飛べなくてはいけない」と思い込み、キューに厳しめの特訓をほどこしてしまいました。それは、ややエゴイスティックな面のある行為だったかもしれません。キューを傷つけたかもしれないし、キューが飛べるようになるためにはちょっと的外れの指導でもありました。

 

 それでも私は、のび太の心情に理解を示したいです。

 のび太は、キューがノビサウルスの群れから拒否された理由を「キューが飛べないから…」と即座に思います。キューが白亜紀の世界で生きていくためには飛べるようになるしかない、とのび太が強く思い込むのはやむをえないでしょう。

 キューの生存がかかっているのですから、のび太のキューに対する特訓も必然的に熱を帯びます。

 心配や焦りや、うまくやれない自分に対するもどかしさもあったでしょう。指導しているうちにだんだんムキになってイラだって、キューに言いすぎてしまった…。キューを傷つける言葉を発してしまった…。

 そういうのび太の指導ぶりに対して「スパルタ・根性論の肯定だ」と批判的にとらえた人もいらっしゃるわけですが、私は、のび太がキューを我が子のように愛するがゆえに思い余って感情的になり、キューに一方的に厳しく当たってしまった…というふうに感じられました。

 

 のび太のそのやり方が正しかったとは言いません。のび太は親として未熟だったのでしょう。のび太のエゴが出てしまったのかもしれません。

 でも、のび太は世界の誰よりもキューの幸せを願っているのだ、と私にはヒシヒシと伝わってきました。キューの生存に最も責任を負っているのがのび太なのだ、とあらためて強く感じました。

 

 そしてのび太は、自分がやってしまったその特訓を、その後の場面で反省したり謝ったりして方向転換しています。そのうえ、キュー自身が「飛びたい」という意欲をずっと失わず、のび太への信頼を持ち続け、最後には自力で飛べるようになったのです。

 2人の間には、あるがままの相手を愛する気持ちが常にあった、と私には感じられました。

 私は、そんな2人の関係を(間違っていたところも含めて)愛おしいものとして受け入れたいです。

 

 のび太がキューへの一方的な特訓をやめ対等の立場に立って以降も、この映画は熱血的なムードをまとっていました。スパルタっぽい・毒親的な指導方法は肯定していないこの映画ですが、「達成したい目標があってそのために根性を出して熱くがんばる」というタイプの根性論は肯定しているように感じました。この映画が否定したのは、「他者から問答無用に押し付けられる」タイプの根性論であり、熱血とか根性そのものにはおおむね肯定的…というか、思いきりそういうものを描いていると思うのです。

 根性論それ自体がすべてダメなのだ!と言われてしまえばどうしようもありませんが、達成したいことのために根性を出して熱くがんばる姿をフィクションが描くことを、私は悪いとは思いません。むしろ、作品を観ている者にやる気や熱気を与えるのではないでしょうか。

 

 

 と、いま根性論を肯定的に語ったばかりの私ではありますが、その半面、やみくもな熱血とか根性といったものが批判される時代になったんだなあ、ということに少なからぬ感慨をおぼえてもいます。

 根性を持つことそれ自体は良いことと思いますし、根性を出してがんばるさまを物語のなかで描くこともまた良し、とは思いますが、根性論絶対主義みたいな社会や集団はとても苦手です。根性論を疑いなく是として他者にその考えを押し付けてくるなんて、もってのほかです。うつ病の人に向かって「根性が足りない!」、風邪をひいて発熱して休みたがっている人に「気合が足りん!」、事情があってがんばることができない人に「がんばれないおまえが悪い!」などと平気で言ってしまうことが是とされる世の中であってはならない、と強く思います。

 私自身、どちらかというと根性論を好まないタイプではあるのです。

 その意味で、映画『のび太の新恐竜』で描かれた根性論的なものを批判する声が上がったことに「社会の意識は進んでいってるんだなあ」と感慨をおぼえたわけです。

 

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その1】「泣く準備はできていた」

  https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/19/204541

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その2】「羽毛恐竜キューの生態に思いを馳せる」

  https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/20/121759

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その3】「キューの“進化”に考えをめぐらす」 

  https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/27/191513

 

 

【追記】

※今回の感想では、のび太の特訓が熱を帯びたのは「キューの疑似的な親であるのび太がキューを我が子のように深く強く愛しているから」という視点で書き進めました。

が、もうひとつ、のび太の特訓が熱を帯びたのは「逆上がりをはじめ何かと苦手なことの多いのび太が飛べないキューに自分を重ね合わせていたから」という視点を、ある方からご提示いただきました。そういう見方は、私もこの映画を観ているとき感じたものの、今回はその見方には触れず、「キューの親代わりであるのび太」の思いを私なりに汲み取りながらこの文章を書いてみました。