藤子不二雄と三島由紀夫

 今年は、三島由紀夫没後35年・生誕80年ということで、映画や出版、記念展など三島にまつわる企画がいろいろと出現した。私も三島読者のはしくれとして、今年はちょこちょこと三島の小説を再読してみたりした。私の好きな三島作品は、10代のころ出会った『潮騒』『午後の曳航』『金閣寺』で、とくに『午後の曳航』を読んだときの衝撃は強烈だった。13歳の少年・登が、実の母親とその恋人の船乗り・竜二の情事を、部屋の抽斗(ひきだし)に隠れて覗き見する描写がショッキングだったし、理想の存在だった竜二に失望した登がとっていく行動にもひどく震撼させられた。
 だから、評論家の小浜逸郎氏が『頭はよくならない』という著書のなかで、子どもを素材にしたすぐれた創作物の例として『午後の曳航』と藤子作品を並べて挙げてくれたときは、ちょっと嬉しかった。その辺のことを当ブログ2月4日の記事で書いたので、該当する部分をここで引用したい。

藤子ファンの観点で小浜氏の文章に接した場合、これは好印象だと感じたのは、氏の著作『頭はよくならない』(洋泉社/2003年3月21日初版発行)を読んでいるときだった。この本で小浜氏は、作家の瀬戸内寂聴氏を「通俗道徳家」と批判しており、その瀬戸内寂聴批判の過程で、藤子ファンである私を少しばかり気持ちよくしてくれることを書いているのだ。そのあたりの文脈を大ざっぱに紹介したい。

 
小浜氏によると、少年Aが起こしたいわゆる酒鬼薔薇事件にさいして、瀬戸内寂聴氏がこんな意味のことを発言したという。
「今の教育制度は、知識偏重の頭でっかちなもので、徳育智慧の部分がないがしろにされている。犯人の少年Aは、そういう偏差値教育の犠牲者である」


それを受けて小浜氏は、その瀬戸内発言を「間違いだらけの通説」と斬り、「学校教育に子どもの心や内面の救済を期待するという発想が、そもそもないものねだりの無理である。学校教育が子どもの精神形成のすべてを左右するなどという考え方は、一部の大人の思い上がり以外の何ものでもない」と論駁。


そのうえで小浜氏は、
「現実の子ども達は、学校生活の中で先生の目を盗み、規制の網の目をくぐり、悪さをし、いくらでも子ども達固有の共同性を作り出している」「(そういう子ども達の現実は)子どもを素材にしたすぐれた文学作品や映画、マンガなどに触れればすぐ了解できる」と述べ、そんな〝すぐれた文学作品や映画、マンガ〟の具体例として、「宮沢賢治の『風の又三郎』や三島由紀夫の『午後の曳航』、篠田正浩の『少年時代』、藤子・F・不二雄の『ドラえもん』」といった作品名を挙げているのである。

 
 ここで挙げられた「篠田正浩の『少年時代』」とは、もちろん映画『少年時代』のことを指している。この映画の原作者は、いうまでもなくわれらが藤子不二雄A先生(と柏原兵三)であり、藤子A先生はこの映画の企画・製作(いわゆるプロデューサー)も担当している。そうして見ると小浜氏は、「子どもを素材にしたすぐれた文学作品や映画、マンガ」の例として、藤子不二雄A作品である『少年時代』と、藤子・F・不二雄作品である『ドラえもん』、そして三島の『午後の曳航』を並べて挙げていることになるわけで、そのことが私の気分をよくしてくれたのだ。

 

『午後の曳航』ばかりでなく多くの三島作品にいえることだが、そこに書かれた異常性・変態性と、それを表現する唯美的な文章が、一見アンバランスでありながら調和のとれた融合を見せていて、それがなんとも魅惑的である。しかしその唯美的な文章は、ある意味クセの強い文章とも言え、ときとして私から読む気力を奪いとることもある。読みたくなるときと受けつけたくないときが、はっきりしている文章なのだ。



 さて、今年が三島の没後35年にあたるということは、すなわち1970年11月25日、三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東部方面総監部の総監室に籠城し、バルコニーで自衛隊の決起を呼びかける演説をしたあと割腹自殺した、あの「三島事件」から35年が経過したということだ。私は当時2歳。この事件はテレビやニュースでさんざん報道され、世の中を騒然とさせただろうが、私はそのことをまったく記憶していない。同じ年に大阪万博へ連れて行ってもらったが、これもぜんぜん記憶にない。
 ここで藤子不二雄三島由紀夫の関連を見たいと思うが、三島事件の話題から真っ先に思い至るのは、藤子不二雄A先生の作品に〝三島由紀夫の割腹〟をネタにしたものがある、ということだ。それは、創刊間もない「少年チャンピオン」に連載されたナンセンスギャグマンガ『狂人軍』の第4話「おしかけむすこキチ吉の巻」(同誌1969年6号)のなかで見られる。イカれたメンバーばかりで構成された野球チーム〝狂人軍〟のひとり・ハットのオヤジが、三島のまねをして自らの腹に短刀を突き刺すシーンが描かれているのだ。ここでハットのオヤジは、自分の腹に短刀を刺しておいて「これからどうするんだっけ?」などと実に惚けた挙動を見せている。
 この作品が発表されたのは三島由紀夫割腹自殺の前のことなので、ハットのオヤジの割腹ネタが三島事件を受けてのものではないことは明白だ。ハットのオヤジのセリフに「こないだみた活動写真で三島由紀夫が小刀でこうするところがあったよ!」というものがあることから、三島由紀夫が割腹するシーンのある映画が元ネタになっているようだ。その映画とは、おそらく、1969年に公開された『人斬り』(監督:五社英雄/配給:大映)と思われる。司馬遼太郎の『人斬り以蔵』から材をとったこの映画で、三島は、勝新太郎扮する剣客・岡田以蔵のライバル・田中新兵衛を演じ、作中で割腹自殺をしているのである。この翌年三島は、映画での演技ではなく本当に割腹自殺をはかってしまったわけだ。



 藤子A作品のなかの三島由紀夫ネタでは、ほかにこんなものが思い当たる。
●『諸芸百般道けわし』(「ビッグコミック」1971年1月25日号)
主人公の青年・丹保治郎が観ているテレビ番組で、街行く女性に好ましい男性像を尋ねるインタビュー企画をやっていて、インタビューされた女性のひとりが「チャールズブロンスンとアランドロンと三島由紀夫をいっしょにしたような人……」と答えている。



●『カタリ・カタリ』(「ビッグコミック」1972年1月10日号)
ローマ旅行中の主人公・日元陽一がトレヴィの泉にいるとき、彼に声をかけてきた若いイタリア人カップルが、「ワタシタチ ミラノ大学で 日本文学ノ勉強ヲシテルモノデス」と名乗ってから、「今 ミシマのコノ本 勉強シテマス」と言って、三島由紀夫の『天人五衰』を見せる。日元は、一瞬そのカップルをインチキのポン引きじゃないかと疑うが、すぐに考えを改め、「そ そのゥ 三島は日本人でもむずかしいことばをつかってます!」「でも… ぼくにわかることなら喜んで説明してあげますよ」と応じる。



 何年か前に、藤子A先生の生家である光禅寺で先生から直接いろいろなお話をうかがう機会があった。そのとき藤子A先生は、ある出版社の文学関係のパーティーに出席したとき三島由紀夫のスピーチを聴いた、というエピソードを披露してくださった。
藤子A先生と三島由紀夫の直接の交流はなくとも、二人が同じ空間に居合わせたことはあったのだ。




 藤子・F・不二雄先生と三島由紀夫という観点では、「藤子・F・不二雄の異説クラブ」(小学館/1989年12月1日初版第1刷発行)で、あるライターが記したこんな文面を思い出す。

「ニセUFOの写真なんて、実に、簡単に撮れるんですよ。さまざまな手段でね」と、インタビューの中で藤子・F先生は述べられた。その後で、藤子・F先生は数枚のUFOの写真を見せて下さった。それこそ、藤子・F先生ご自身が撮影されたという、ニセUFOの写真だったのだ。撮影されたのは、十年ほど前で、撮影した場所はご自宅のある神奈川県生田の近辺とのことだった。
ちなみに、故三島由紀夫の『美しい星』の中でも、UFOが生田に着陸する描写があるそうだ。

 藤子・F先生はUFOのトリック写真を撮影するのが趣味で、『ドラえもん』の「ハロー宇宙人」(てんとう虫コミックス13巻収録)でそのトリックをネタにしているし、雑誌「ぼく、ドラえもん」14号(小学館/2004年発行)の『Fのひとこま』でもF先生がUFOのトリック写真を撮っていたエピソードが紹介されている。この、F先生がニセのUFO写真を撮影していた場所というのが神奈川県川崎市生田の近辺であり、その川崎市生田にUFO(空飛ぶ円盤)が着陸するシーンが三島由紀夫の『美しい星』で書かれているというのだ。


『美しい星』でUFOが生田に着陸するのは、ラストシーンにおいてである。ポイントとなる部分を引用しよう。(作中で東生田駅と書かれているのは、現在の生田駅。『美しい星』が発表されたのが1962年、東生田駅生田駅に改称されたのは1964年)

日曜の深夜に郊外へ出てゆく車は少く、ドライヴは快適に運んだ。和泉多摩川の橋を渡ると、そこはすでに神奈川県で、間もなく、南武線のしんとした線路を渡った。登戸駅近傍の、燈台のような形をした火の見櫓のかたわらを左折する。目的地の東生田はそこからじきである。車は県道から左へ入って、あかあかと点した田園風な東生田駅の裏手の広場に止まった。そこは人一人見えぬプラットフォームの夥しい光りが窓ごしに洩れるだけで、暗い草叢が空地のあちこちに点在していた。
「そう、ここへ止めて。あとは歩くのだ。あそこの踏切を渡って、丘の上のほうへ」


(中略)


坂を昇りきると、寝静まった人家のかたわらへ出、そこからは丘の頂きの一面の麦畑のそよぎの上に、星空がたちまちひらけた。ここは飯能ほど清澄な空ではなかったが、ゆくての南にかがやく蠍座や天秤座は、それとたやすく指呼された。一家は星空を身に浴びていきいきとした。熟れた麦畑の間の道をゆくうちに、遠い人家で犬の声がきこえたが、人影は全くなかった。
「南へまっすぐ! どこまでもまっすぐ!」
と重一郎は叫んだ。南の外れは更に一段高い平坦な丘の稜線に切られていた。


(中略)


……ようやく四人は、丘の稜線に辿りついた。雑草に覆われた坂の半ばで、倒れて草に顔を伏せ、一雄に扶けられて夜露にしとどになった顔をあげた重一郎は、自分が第二の丘の上のひろい麦畑に達したのを知った。その丘のかなたに、更に湖中の島のように叢林に包まれた円丘があった。
「来ているわ! お父様、来ているわ!」
と暁子が突然叫んだ。
円丘の叢林に身を隠し、やや斜めに着陸している銀灰色の円盤が、息づくように、緑いろに、又あざやかな橙いろに、かわるがわるその下辺の光りをの色を変えているのが眺められた。

 ここでUFOの着陸場所へ向かっているのは、父、母、兄、妹の4人家族なのだが、これが実に奇妙な家族で、父が火星人、母が木星人、兄が水星人、妹が金星人であるとそれぞれに自覚しており、核兵器の開発などで滅亡への道を進む地球人類を救済する役目を自分らが担っていると大真面目に思い込んでいるのだ。物語の序盤に、ソ連の核実験を憂慮した一家がソ連の最高指導者であるフルシチョフに宛てて英文の手紙を書くシーンがあって、「もし返事が来なかったらどうします」などと心配しているさまが、彼らが大真面目なだけにおかしく感じられる。4人の家族は手紙の末尾にそれぞれの故郷の星のしるしを描き、その横に署名をするのだが、それもふざけているのではなく真剣にやっていることなので滑稽味がある。でも、それだけ純粋に地球の平和を願い、全人類の救済に懸命になり、滅亡させるには惜しい人間存在の美点を説く彼らの姿は、話を読み進めるうちに胸をうってくる。


 それはそれとして、私は、藤子・F先生がUFOのトリック写真を撮影した場所と、三島の『美しい星』でUFOが着陸した場所の両方が生田だったという偶然の符合に、勝手にロマンを感じているのだった。