追悼・曽我町子さん

 曽我町子さんが藤子不二雄先生や子どもたちと行ったヨーロッパ旅行をとりあげた昔の雑誌記事を先月たまたま読んで、曽我さんの人となりに触れたばかりだったので、曽我さんの訃報を知ったときはよけいにショックが大きかった。
 昭和41年5月、不二家の企画で「オバQといっしょにケニアへ行こう!」というイベントが行なわれ、藤子両先生やオバQファンの子どもたちがアフリカ旅行を満喫した。その第2弾として企画されたのが「オバQといっしょにデンマークへ行こう!」である。このイベントは、昭和41年8月27日より12日間、曽我さんと藤子先生、当選した子ども10人、不二家の社員2人といったメンバーでエジプト、フランス、デンマークなど7ヶ国を巡るという豪華な内容だった。昭和41年の時代状況では、たいていの家庭は海外旅行になど行けなかっただろうから、アフリカにしろヨーロッパにしろ複数の国を巡ることができるこれらの企画は、当時の人には夢のような途方もないイベントに感じられたはずだ。私としては、海外へ行けるよりも、藤子先生と旅ができるということに羨望をおぼえるが。



 一行が旅行に出る前に発売された「週刊平凡」昭和41年8月25日号によると、曽我さんは当初の予定ではメンバーに入っていなかったらしいが、前回アフリカへ連れて行ってもらえなかったこともあって、「アラ、かんじんのQちゃんがいっしょに行かないなんて、おかしいじゃない」とスポンサーを口説き、メンバーに加えてもらったという。その曽我さんの行動について雑誌記者は、「(曽我さんは)もちまえの強心臓ぶりを発揮し(た)」と書いている。


 そうやってヨーロッパ旅行のメンバーに加わった曽我さんだが、すぐに心配事が頭をもたげたのだった。

「わたしって、子供は好きなんだけど、メンドウみたことないでしょう」「だからさ、ヨーロッパに行っても、どうして子供たちのメンドウみたらいいのか、心配で心配で…。夜もろくろく眠れないのよ」「わたしって、Qちゃんみたいに、人のメンドウみるのがウマくないでしょ。旦那さんをもらっても、ろくにメンドウみてあげられないと思うからこそ、この年になってもまだ結婚しないでいるんだから、ウェへへ…」

 夜も眠れぬほどの曽我さんの心配ぶりに対して、記者は、「まさか!それほど気がよわいとも思えないが…」と、ちょっと失礼な驚きを見せている。先ほどの「もちまえの強心臓ぶり」という書き方といい、曽我さんはよほど神経の太い女性だと思われていたらしい。


 曽我さんは旅行を前にしてこんなことも言っている。

ホントのこというとデンマークやパリ、ロンドンばかりじゃなく、わたしはイタリアの地中海沿岸の町とか、スペインの田舎町なんかを見に行きたいんだけどな。残念だワ。

 この発言と、曽我さんが昭和39年の東京オリンピック会期中も約1ヶ月にわたりヨーロッパを一人旅し、日本に帰ってからイタリア人男性を度外れて礼賛していることから、さてはイタリアに恋人ができたのでは、と記者は勘ぐりを入れている。「オバQといっしょにデンマークへ行こう!」の話題から、色恋沙汰のゴシップに持っていくところが実に週刊誌らしいところだが、曽我さんは、その勘ぐりをきっぱり否定した。



オバQといっしょにデンマークへ行こう!」終了後に発売された「週刊平凡」昭和41年9月29日号では、旅の最中の写真が数点紹介されている。アンデルセンの生家前で、若き日の曽我さんがオバQの人形を抱え、これまたお若い藤子・F・不二雄先生と並んだツーショット写真が最も印象深く目にとまる。お二人とも、もうこの世の人ではないと思うと悲しくなるけれど…



 ヨーロッパ旅行の話とは関係ないが、「週刊TVガイド」昭和40年11月11日号に曽我さんのインタビュー記事が小さく載っているので紹介したい。

「子どもの声は、昭和31年にNHKの〝チロリン村とクルミの木〟に出て以来。でも、お化けの声ははじめて……」
原作は藤子不二雄の人気マンガ。「やっぱりあのキャラクターにあわせたいと思い、Qちゃんの〝エヘヘへ〟という声は私の苦心作」という。声のイメージからとても想像できない25歳の女性だ。

 曽我さんが演じるQちゃんの声の独特な低音から、当時の曽我さんはもっと年配だったというイメージにとらわれがちで、亡くなったのが68歳と聞いて「まだそんなにお若かったのか」と驚いたが、オバQが始まった昭和40年、曽我さんは25歳という若さだったのである。




※関連記事:「初代オバQの声・曽我町子さん死去」
http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20060507