新美南吉の言葉から(その3)自信があることとないこと

 新美南吉が日記に書きとめた「ほんとうにもののわかった人間は、俺は正しいのだぞというような顔をしてはいないものである」「自分はエゴイストではない、自分は正義の人間であると信じ込んでいる人間程恐ろしいものはない」という言葉に触れて、いろいろと思ったことを書いてまいりました。
 南吉のこれらの言葉は“自信”ということとも関連が深いと思います。
 南吉は、過度な自信、誤った自信、不遜な自信というものに批判的なまなざしを向けていたのでしょう。正しさを過信することの恐ろしさに意識的だったのではないでしょうか。それが彼の日記の言葉に表れている、と私は感じ取りました。


 この“自信”ということに関しても、やはり私は藤子先生の言葉や作品を参照したくなります。


 1983年8月31日、NHKで放送された「おはよう広場 子どもおもしろ講座」に出演した藤子両先生は、スタジオに集まった子どもたちに、自分らが子どもだった頃は2人ともコンプレックスのかたまりだったとして、こんなことを語りました。

■藤本先生「スポーツはダメ、勉強もそれほどじゃなく、自慢できるのは足で耳の後ろを掻けたことくらい」
■安孫子先生「背が低かったのでバカにされ、肉体的・力的な劣等感に悩んでいた」

 そんなお二人が自信を持てるようになったのは、マンガとの出会い、そして友達との出会い(藤本先生と安孫子先生の出会い)によってだったということです。
 しかし、この自信というものはそれほど単純ではなく、ふらふらと動き回るものであって、今でも自信のなさに苦しむことがある…と藤子両先生は述べ、こんなふうに話を続けました。

■藤本先生「自信がありすぎるとうぬぼれになるし、コンプレックスがバネになることもある」
■安孫子先生「100%自信を持ってしまうと嫌味になるので、6割は自信があって4割は自信がないほうが感じがいい」

 お二人とも、自信を持ちすぎることに釘を刺すといいますか、手放しで自信というものを称賛することに注意を払っています。むろん、自信を持つことの素晴らしさを十分に認めたうえでの注意です。


 お二人のそうした“自信”というものに対する考え方は、私にとって座右の銘というか金科玉条というか、そこまで強いものではないとしても、私の自信観の中枢をなすものとなっています。
 とくに、「100%自信を持ってしまうと嫌味になるので、6割は自信があって4割は自信がないほうが感じがいい」という安孫子先生の言葉は、ことあるたびに私の脳裏をよぎります。
 6割の自信と4話の自信の無さ…。私はその比率に理想的なものを感じつつ、いつもその理想から遠い自分に自信を失っております(笑)


 自信があることと自信がないことのバランスについては、藤本先生も別の機会に発言されています。

自信を持つということ――これは遠心力といってよいでしょう。外に向かって、強力にのびていこうとする力です。そして、自分の才能についての疑い(劣等感を持つ)、ほんとうに自分はまんが家としての能力があるかどうか悩むこと――これは求心力なのです。うちに向かってちぢまろうとする力です。
このふたつの力というのは矛盾するわけで、なかなか一人の人間の中に共存するのがむずかしいと思うのですが、ぼくの投稿時代をふりかえってみると、切実な問題でした。
 (略)
とにかく不安定で、自信と劣等感の間をゆれ動いていたのです。
 (略)
結果として考えてみると、ぼくにとっては、このことがプラスになってくれたようです。
 (略)
自信と劣等感とは、矛盾したパワー、エネルギーです。しかし、この両方を、一人の心の中にバランスよく持ち続けていくということは、まんがのみならず、作品をかく人間にとって、とても大切なことだと思うのです。
 (略)
自信が過ぎたと感じた時は、まわりの人の意見によく耳をかたむけ、落ちこみそうになった時は、積極的にプラスの面を取り上げて、困難をきりぬけていくのです。
(てんとう虫ブックス『藤子不二雄F まんがゼミナール』小学館、1988年)

 この発言は、マンガ(をはじめとした創作物)を描こうとしている子どもに向けた心得としてF先生がおっしゃったものですが、創作行為に限らず、もっとさまざまな領域に当てはめられる考え方だと思います。
 安孫子先生も藤本先生も自信を持つことと自信の無さのバランスの大切さを語っておられるところが、さすがは二人三脚で歩んできたお二人だなあと思わせます。


 自信といえば、『ドラえもん』のひみつ道具には、自信を強めるものと弱めるものとがあります。対極の機能を持った道具が存在するわけです。
 その道具が出てくる話(および、その道具名)が「自信ヘルメット」と「自信ぐらつ機」です。
 自分が0点を取ったことを周囲の皆が笑っているとひがみっぽくなっているのび太ドラえもんが「自信を持て!!自信を」と叱咤しますが、のび太は「自信なんか持てるわけないや」と自信喪失から立ち直れません。そこでドラえもんが出したのが“自信ヘルメット”です。人の言っていることが全部自分に都合よく聞こえ、世界が自分のためにあるような気がしてくる道具です。これをかぶったのび太は、他人から悪口を言われても全部誉められていると感じ、本当は実力がともなっていないことでも自分には完璧にできると思い込んでしまいます。著しく客観性を欠いた、過度な自信がもたらした結果は、ろくなものではありません。
“自信ぐらつ機”は逆に、自信たっぷりの人を自信喪失させる道具です。この話の冒頭でのび太は、ジャイアンスネ夫に腕力や容姿などを自慢されます。のび太は「自信たっぷりなやつっていやだね」と感じます。こののび太の感覚は、前述した藤子先生の自信に対する感覚と通じ合うものがあります。
 のび太ドラえもんは自信ぐらつ機を使って、自信満々の人たちの自信をぐらつかせていきます。嫌味なほど自信たっぷりな人の自信が失われていくさまは、それはそれで痛快なものですが、やはりそういう行為は自分に跳ね返ってきます。
 この2つの話を読んで思うのは、過度な自信も過小な自信も好ましいものではない、ということです。適正な自信とは、人とのコミュニケーションが円滑になり、社会生活を送っていくうえでプラスの作用をもたらすものでしょう。自分の内部だけで完結するものではなく、他者との関係の中ではぐくまれるもの、それが自信なのだと思います。
 そこでやっぱりお手本となるのが藤子先生の自信というものに対する感覚です。私にとって重要な言葉なので、再び引用します。
「自信がありすぎるとうぬぼれになるし、コンプレックスがバネになることもある」
「100%自信を持ってしまうと嫌味になるので、6割は自信があって4割は自信がないほうが感じがいい」
 このバランス感覚で自信を身につけられたらいいなあ、と思わずにはいられません。なかなかそうはいかないのですが、そうありたいと思い続けるために、藤子両先生のこの言葉を胸にとどめておきたいのです。



 今回は藤子先生が語った“自信”をテーマに話を展開しました。私がこの世に数多く存在する創作物(および数多くの著名人)の中で格別に藤子マンガ(および藤子先生)に心を惹かれるのは、さまざまな理由が織物のように関連し合っているのではありますが、藤子両先生のこの自信観といいますか自信のなさや劣等感をめぐる考え方に自分の心を自然と重ねられるから、という理由が相当大きいです。
 自信を持つことの素晴らしさばかりではなく、自信のなさの価値をも同時に語り、劣等感を持つことに共感を寄せる…。そうした自信というものへのバランス感覚が先生の描くマンガに(いろいろとかたちを変えながら)反映している…。そこのところに私の心が共鳴しているから、私は幼少期からこの年齢に至るまで藤子マンガのファンであり続けているのだと自己分析しています。



 ■「新美南吉の言葉から(その1)ほんとうにもののわかった人」
  http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20130508
 ■「新美南吉の言葉から(その2)藤子Fマンガが描く正義」
  http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20130509



●情報
藤子・F・不二雄先生生誕80周年を記念した特別展が7月19日(金)から10月6日(日)まで、東京タワーで開催されます!
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130514-00000024-tkwalk-ent


・10日発売の「ヤングアニマル」10号(白泉社)で、えりちん『描かないマンガ家』が連載50回を迎え、それを記念して同作のトビラにに藤子不二雄A先生が祝辞を寄せています。