大林宣彦監督を偲んで(1)

 4月10日に亡くなった大林宣彦監督を偲んで、尾道三部作『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』を観返しました。

 思春期、学園、感傷、思慕、郷愁……。そして、尾道の情趣豊かで懐かしさ漂う景色……。

 それはいつかどこかで通りすぎたような、でも、現実にはいつまでもたどり着けない美しい幻。監督の心の内にある風景がフィルムに溶け込んでいるようです。

 

 ●『転校生』(1982年)

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 思春期の男子(一夫)と女子(一美)の心が入れ替わってしまうことであれこれ起こる青春映画です。

 なんといっても、主演2人の演技力が光っています。男子が女子に、女子が男子になってしまった様子が見事に演じ分けられ、その表情、仕草、挙動のすみずみまで神経が行き届いている感じです。男女が入れ替わるのですから、“性”を意識させる描写がたびたび出てきます。そのさまは、「男らしさ/女らしさとは何か」をあらためて問うことにもなりましょう。

 

 2人は、心が(身体が)入れ替わってしまったことで、ぶつかり合ったり戸惑ったり悩んだりしながら、奇妙な友情というか淡い恋愛感情のようなものを育んでいきます。なにしろ、互いに相手の心が自分の身体に乗り移った者同士という、前代未聞、唯一無二の濃密な関係ですから、2人の間で育まれる感情は特有のものになります。

 ラストシーンで互いに掛け合う言葉「さよなら俺」「さよなら私」は、この2人だからこその掛け替えのない特有の関係性を象徴しているのではないでしょうか。

 

 自分らが入れ替わってしまったなんて、そんな突拍子もないことは誰も信じてくれないだろうから、2人はそのことを周りに隠し続けます。そんななか、その誰も信じてくれなさそうな秘密を打ち明けた唯一の相手がSF好きの友達だった、というところも琴線に触れました。こういうとき相談すべきは、やはりSFマニアやオカルト好きの友人知人なんですよね(笑)

 

 男女の入れ替わりといえば、『ドラえもん』に「男女入れかえ物語」という話があります。その話を取っかかりに、人と人が入れ替わる物語についてあれこれと考えを巡らせた文章を当ブログで書いたことがあります。『転校生』についてもわずかに言及しています。もう15年も前の記事ですが、興味のある方はどうぞ。

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/20050603

 

 

 ●『時をかける少女』(1983年)

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 1人の少女がまとう、ありえないほどの清純なたたずまいを最後まで描ききっています。その古風で非現実的な透明性を自然に体現している原田知世。彼女の稀有な存在感に驚異を感じました。

 本作は、原田知世さんをフィーチャーした長尺のイメージ映像、といった趣があります。エンディングを見ると、その思いがますます強まります。なにしろエンディングでは、本編で観たいろいろな場面の中で知世さんが主題歌を歌っていて、途中でNG集があり、最後に知世さんのはにかんだような笑顔のアップが映されるのです。監督はこれを撮るために本編を制作したのでは!と思えるくらい、知世さんのピュアなアイドル性に焦点があてられています。

 

 そんな原田知世ワールドに時間SFの要素が加わっているところが、私にとっては、この映画を愛したくなる旨味成分です。

 知世さん演ずる芳山和子がその日の昼間に受けた漢文の授業を復習するつもりで勉強した内容が、1日前にタイムリープしてしまったがゆえに、予習したのと同じことになるくだりがあります。この映画における時間SF要素のなかでも、私が特に好きな箇所です。

  

 ラベンダーがキーアイテムになっていることも、この映画を印象深いものにしています。芳山和子は、ラベンダーの匂いをかぐと意識を失ってタイムリープすることになります。タイムリープのトリガーになるのがラベンダーなのです。時間SFであるこの映画にとって、ラベンダーとは『ドラえもん』におけるタイムマシンのような役割を果たしているのです。

 『時をかける少女』公開の前年(1982年)にリリースされた松田聖子さんの曲「渚のバルコニー」の歌詞にもラベンダーが登場します。この時代のアイドルシーンにおけるラベンダーの輝きっぷりは尋常ではありませんでした。

 

 好意を寄せていた男子の正体を知ってから和子が堰を切ったように口にする「これは愛なの?」……といった一連の台詞が鮮烈です。こっぱずかしくなりそうな青臭い言葉の連続ですから、これらの台詞を抑揚豊かな熱演で聞かされたら結構くどかったかも……と思いますが、彼女の棒読み風な台詞によって、聞き心地の悪くないリリカルな音声として耳に届きました。

 

 この映画では、きわめて初々しく淡く切ない(ある意味時空や記憶を超えた)純粋な恋模様が描かれているわけですが、仲良し3人組の中で尾美としのりさん演ずる吾朗がその恋模様の外側に置かれ気味……というところが微妙に切ないです。

 現実的な性格の吾朗と、ロマンチストの和子。その性格の対比が、冒頭の星空を見る場面でわかりやすく示されます。そんな2人の性格の対照性を、もっと自然なかたちで感じられたのが、醤油醸造家(吾朗の自宅)の場面です。和子が「この匂い好きよ。お醤油の匂いって何だか優しくって」と言うと、吾朗はすかさず「そういう気楽なことは醤油屋の倅の前では言ってほしくないね」とつれない言葉を返します。もとより、この醤油醸造家の場面は本作の他のシーンと比べて異質な感じがして印象深いところがあるのですが、その場面で2人の性格の差がさりげなく描写されたおかげで、いっそう私の心に残りました。

 

 先に述べたとおり『時をかける少女』は時間SFですから、数々の藤子作品と関連づけて語ることができます。たとえば、当ブログでは「時間ループもの、いろいろ」という記事で『時をかける少女』を取り上げたことがあります。

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/20110820

 

 

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 富田靖子さんが、清楚な女子高校生と、白塗り顔の不思議少女の2役(実際は2役以上ですが)を演じています。前者は、主人公ヒロキ(高校生男子)がひそかに「さびしんぼう」と呼んでいる片想いの相手で、後者は、自ら「さびしんぼう」と名乗る神出鬼没な存在です。「人が人を恋うるとき、人は誰でもさびしんぼうになる」のです。

 

 白塗り顔のさびしんぼうが言ったこの台詞が心に刺さりました。

「人を恋することはとっても寂しいから、だから私はさびしんぼう。でも寂しくなんかない人より、私ずっと幸せよ」

 

 白塗り顔のさびしんぼうは、ヒロキの母親が16歳だったときの姿です。どういうわけか、16歳のときの母親が、現在のヒロキの前に出現したのです。

 このさびしんぼうは、ずっと16歳のままでいる存在であり、17歳の誕生日がくると消えなければならず、水にぬれると死んでしまうといいます。そんな彼女が、雨の降りしきるなか傷心のヒロキを待っていて、抱き合いながら別れを告げます。目の縁取りが溶けて黒い涙が頬をつたう光景がじつに美しいです。

 

 いま述べたとおり、白塗り顔のさびしんぼうはヒロキの母親が16歳のときの姿で、それが現在に出現してヒロキのことを好きになります。

 ヒロキの母親は、16歳のころ“ヒロキ”という少年に恋をしていて、その名を自分の実の息子につけました。青春時代の恋の相手の名前を自分の子どもにつけたわけです。

 そう考えると、この映画では、16歳のころの母親といま高校生の息子が出会って恋をするさまが描かれていることになります。それは、なんだか近親相姦的というか倒錯的というか、なんともややこしい関係に思えます。

 

 この映画では、ショパンの「別れの曲」がよく流れます。観終えたあとも、この曲がしばらく耳に響き続けました。

 

 知人に、『さびしんぼう』を観て手塚治虫先生の短編『るんは風の中』を思い出したという人がいました。なるほど!と納得しました。

 この映画で描かれた、不思議な存在が少年の部屋に突然姿を現し少年と交流する……という状況は、藤子マンガの定番パターンを彷彿とさせるところもあります。

 

 と、藤子マンガの話を出したところで、大林監督と藤子先生といえばこれ!という話を次回に書きたいと思います。

 

 ■「大林宣彦監督を偲んで(2)」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/05/08/172424