映画『のび太の新恐竜』感想【その6】「多様性というテーマについて」  

 今回は、映画『のび太の新恐竜』の感想【その6】です。

(以下の文章は、映画『のび太の新恐竜』の内容に触れています。未見の方はご注意を)

 

 

 映画『のび太の新恐竜』のテーマのひとつが「多様性」だそうです。

 私は1回目の鑑賞時、制作スタッフや関係者のインタビューなどにあまり触れず劇場へ足を運びました。映画を観終えて、この作品のテーマが多様性だとはまるで感じませんでした。

 私のテーマを汲み取る感度が低いため、そういう感じ方になったのでしょう。

 

 そして2度目の鑑賞。

 そのときは、多様性というテーマを知っていたのですが、それでも多様性がどうこう…とはあまり感じませんでした。

 監督さんや脚本家さんが多様性をテーマにしたと語っているのですから、この映画のテーマのひとつが多様性なのは間違いないのでしょう。そのようには認識しています。

 けれど、私が『のび太の新恐竜』を楽しむにあたっては、多様性テーマについてあまり意識しないほうがよさそうだ、と直観しました。この映画が多様性をどう描いているのかということと、私がこの映画を楽しむということを、できるだけ切り離して考えよう、と思いました。

 

 ところで、多様性とは何でしょうか?

 文字どおり「さまざまなありさま」のことです。

 昨今、人間社会における多様性が取り上げられる場合は「ダイバーシティ」という語で登場することが多いですね。国籍の多様性、価値観の多様性、性の多様性、文化の多様性、ライフスタイルの多様性などなど、人間にはさまざまに多様性があって、そういう多様性を肯定し、尊重し、皆で共存していこう、というわけです。

 

 ダイバーシティは、とりわけビジネスシーンで注目されています。

「さまざまな個性や価値観があることを肯定し、尊重し、それらを人材として組織のなかに受け入れる」「差別や偏見などにとらわれず、平等・均等に雇用の機会・待遇を確保する」という指針・理念がビジネス界に取り入れられつつあるのです。

 それは、マイノリティへの配慮という人類的・社会的意義もありますし、多様な人材が組織のなかにいるほうが創造的で柔軟性のある企業運営・ビジネスができる、という実利的な意義もあるようです。

 ビジネスシーンに限らず、多様性(ダイバーシティ)の肯定とは、社会・集団・組織にはさまざまな人がいるということを認め合い、尊重し合い、そのさまざまなありさまを受け入れていこう、ということです。

 

 というわけですから、『のび太の新恐竜』が作中で多様性を訴えるのであれば、キューの「飛べない」という特徴に対して「飛ばなくてもいいんだ」「飛べないのもひとつの個性なんだ」というふうに受容していく展開・視点があったほうが、テーマをよりクリアに訴えることができたのではないか……と私は思ってしまいました。

「飛ばなくてもいいんだ」「飛べないのもひとつの個性なんだ」という方向で物語を最後まで突っ切っていかなくてもいいから「そういう考え方もあるんだよ」というほのめかし・配慮をどこかのシーンに入れ込んでくれたら、私はこの映画を観て「ああ多様性を意識してるなあ」と気づけたかもしれません。

 でも、この映画はそちらの展開・視点を選びませんでした。キューの「飛べない」という特徴は、彼が飛べるようになるまで「改善すべきもの」として描かれ続けたのです。

 

 この映画がテーマとして描いた多様性とは、「ありのままの個性を平等に受け入れる」「マイノリティの権利を尊重して共存する」というような人間社会における多様性のことではありませんでした。

 

 では、どんな多様性だったのか?

 

「生物の進化」にかかわる多様性を描こうとしたようです。

 

のび太の新恐竜』の脚本を書いた川村元気さんが、Web上に公開されたインタビューでこんなことを発言しています。

今まではそんなに詳しくなかったのですが、パラスポーツとかも観るようになったんです。実際観ると、「こんなにすごいの!?」っていう感動があるわけです。やっぱり人間というか、生物ってすごいなあって。想像を超える飛躍を遂げる瞬間があるんだろうなあって思ったわけです。そういう感覚自体を、ちゃんとエンターテインメントに落とすのが僕らの仕事だと感じました。

自分が仕事をしていると無限にそういうものに触れることができるので、全てがモチーフになりますよね。自分の描く物語の中で。

もっと言うと、最近は「ダイバーシティ=多様性」などと言われていますけど、じゃあダイバーシティってなんなの?と考えてみる。「多様性」というものがなんとなく「弱いものを大事にしよう」という風に勘違いされている気もする。何億年の恐竜史や生物史を見ていると、弱者であるとか変わっているとか突然変異種とかっていうものが、実は進化の第一歩であることがよくある。そういう種がいたからこそ、絶滅しないで済んだとかいうこともあるんです。そういう綺麗事ではないダイバーシティの必要性みたいなものを、エンターテインメントとして描けるんだなって気づけたのが、自分の中では大きいポイントでしたね。

https://harumari.tokyo/52238/

 

 また、今井一暁監督は別のインタビューでこのように述べています。

恐竜についていろいろ調べたり、博物館に行ってみたり、川村さんとあれこれ話してみたりする中で出てきたのが、“進化”というキーワードです。仲間とは異なる特徴が、環境の変化に偶然適応して、時に思いもかけない歴史をつくることがあるかもしれない………というところから、「他人と違う」ということをどう考えたらいいのか、その意味のようなものを表現できるのではないかと思ったんです。オリンピックイヤーということで“ダイバーシティ=多様性”が社会的にもテーマとなっている昨今、恐竜を通してそういった部分も描けるのではないかと気づいて。そんなところも手掛かりにしながら、物語を組んでいきました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/face3de1f1b48837fd528c49ed0e17bfbc12bcb4

 

 つまり、端的に言えば、『のび太の新恐竜』がテーマとして描いた多様性というのは、生物の多様性だったのです。

 生物のありさまに多様性があるからこそ、そのさまざまなありさまのなかに環境の変化に適応するものがいて、そのおかげで生き残ることができ、進化につながっていった……。

 そうした生物の多様性と進化のすばらしさをエンタメで表現しようとしたわけです。

 

 今井監督は「仲間とは異なる特徴が、環境の変化に偶然適応して、時に思いもかけない歴史をつくることがあるかもしれない………」と語っています。『のび太の新恐竜』において、この「仲間と異なる特徴」を持った存在がほかならぬキューです。

 生物の集団のなかに多様な特徴(たとえば、体が大きい・小さい・平均的)がランダムに存在していれば、環境の急激な変化が起きたとしても、そうした多様な特徴のうちのどれかが新たな環境で生き残るのに有利に働いてくれる確率が高まります。そうやって有利な特徴を持った個体の生存率や生殖率が上がることで、代々その特徴が受け継がれていって、その生物集団が新たな環境に適応した種へと進化していくのです。

 

 キューの正式な種名はわかりませんが、ここでは、のび太命名した「ノビサウルス」を種名としましょう。ノビサウルスのなかで「仲間と異なる特徴」を持って生まれたのがキューです。

 そのキューに見られる「仲間と異なる特徴」は、「仲間と同じ飛び方では飛べない」「身体が小さめ」「尾が短い」といったものでした。そんなキューの各特徴が既存のノビサウルスたちと異なっており、それゆえノビサウルスという種はそれまでよりも多様性を高めることになりました。

 そして、その多様性(仲間とは異なるキューの特徴)が「羽ばたいて飛ぶ」という生存に有利な武器につながって大量絶滅の時代を生き残ることができ、やがて鳥類へ進化していくことになる……というわけです。

 多様性って驚くほどすばらしい!ということになりますね。

 

のび太の新恐竜』は、そうした意味での多様性をテーマとしているのです。

 社会科学や人文科学が扱うような「人間社会の多様性」というよりも、自然科学が扱う「生物多様性と進化」を描いたのですね。

 

  先ほど引用したインタビューのなかで川村さんはこう述べています。

「多様性」というものがなんとなく「弱いものを大事にしよう」という風に勘違いされている気もする。何億年の恐竜史や生物史を見ていると、弱者であるとか変わっているとか突然変異種とかっていうものが、実は進化の第一歩であることがよくある。そういう種がいたからこそ、絶滅しないで済んだとかいうこともあるんです。そういう綺麗事ではないダイバーシティの必要性みたいなものを、エンターテインメントとして描けるんだなって気づけた…

  この発言を読めば、私が先に挙げた「ありのままの個性を平等に受け入れる」「マイノリティの権利を尊重して共存する」という意味での多様性が『のび太の新恐竜』で描かれないのも当然だったのだ、と思えてきます。

 川村さんが綺麗事とまでおっしゃった「弱いものを大事にしよう」というのは、私が挙げた「ありのままの個性を平等に受け入れる」「マイノリティの権利を尊重して共存する」と同じベクトルの理念でしょう。川村さんは『のび太の新恐竜』において「(川村さんの言う)綺麗事ではない多様性」を描こうとしたのですから、「ありのままの個性を平等に受け入れる」「マイノリティの権利を尊重して共存する」という意味での多様性が描かれないのは当然だったわけです。

 

 私はここで、ちょっとだけ「待った!」をかけたいです。

 何度も同じインタビューを引用して恐縮ですが、川村さんは「何億年の恐竜史や生物史を見ていると、弱者であるとか変わっているとか突然変異種とかっていうものが、実は進化の第一歩であることがよくある。そういう種がいたからこそ、絶滅しないで済んだとかいうこともあるんです」と語っていました。

 また、今井監督は「川村さんとあれこれ話してみたりする中で出てきたのが、“進化”というキーワードです。仲間とは異なる特徴が、環境の変化に偶然適応して、時に思いもかけない歴史をつくることがあるかもしれない………」と述べています。

 お二人は『のび太の新恐竜』でそのような生物多様性と進化を描こうとしたわけです。

 

 ここで私が指摘したいのは、「進化にかかわる生物多様性というのは、個体の感情や意志や努力や目的とは無関係なものである」ということです。

 突然変異は遺伝子の複製エラーによって起きます。その突然変異によってたまたま個体が獲得した何らかの特徴がたまたま生存や繁殖に有利だった場合、その特徴が子孫に代々受け継がれ、同じ特徴を持った個体が増え、そういう集団ができて新しい種となる……。大ざっぱな言い方ですが、それが進化です。

 進化とそんなドライなものなのです。

 

 ところが、『のび太の新恐竜』は、そんなドライなものをドライなままにしておかず、感動的なドラマにしようとしました。それはまあエンタメですから、ドライなままにしておけないでしょう。今井監督&川村脚本の作風にもドライさは似合わないでしょう。

 そこでこの映画は「感情とか意志とか努力とは関係のない進化」と「感情とか意志とか努力」とを重ね合わせようとしたのです。

 ですから、「飛べないキューが何度も何度も失敗し痛みを味わいながらもあきらめず頑張ってついに飛べるようになる!」という熱血ドラマ風味の脚本と演出で物語をつくりあげ、キューが羽ばたいて飛べたときこそが進化の決定的瞬間なのだ!としたわけです。

 

 私は、キューが羽ばたいて飛べるようになった瞬間を観て、ばっちり感動しました。この映画を4回観ましたが、4回ともこのシーンでずいぶん泣けました。エモーショナルな意味では本当に満足感を授けてくれました。

  その半面、こういう描き方だと「進化」と「発育、発達、成長、達成」が混同されてしまうよなあ……という引っかかりもおぼえました。感想【その3】で書いたとおりです。

 

 川村さんのインタビューなどを読むと、生物の多様性と人間社会の多様性を同じ次元で扱っているなあ……という印象も受けました。生物多様性のすばらしさを描くことで人間社会の多様性を肯定しようとしている……、生物多様性を人間社会の多様性の比喩として描こうとしている……というニュアンスも感じました。

 この点にも私は引っかかりをおぼえました。

 

 私は、生物の多様性や進化のありように人間社会の道徳や価値感を持ち込むことには慎重であるべき、と考えるタイプです。この問題に関して川村さんとはたぶん意見が合いません。生物の多様性はあくまでも生物の多様性であり、人間社会の多様性は人間社会の多様性であって、それは分けて考えるべきものだ、というのが私のスタンスです。

 

 そんなふうに川村さんとはこの点で意見が合わないながらも、私は『のび太の新恐竜』を観てとても感動したし、とても泣けました。私はこの映画を誉め称えたい気持ちで満たされています。

 川村さんと思想は違うけれど、川村さんが携わった作品は楽しめた、というわけです。

 

 私は今回のエントリの序盤でこんなことを書きました。

「私が『のび太の新恐竜』を楽しむにあたっては、多様性テーマについてあまり意識しないほうがよさそうだ、と直観しました。この映画が多様性をどう描いているのかということと、私がこの映画を楽しむということを、できるだけ切り離して考えよう、と思いました」

  そのわりに今、『のび太の新恐竜』における多様性テーマに思いきりこだわってしまっていますね(笑)

 

 映画を観ているあいだは無心で感動し、エモーショナルな満足感を得ました。多様性がどうこうなんてすっかり頭の外側です。

 でも、映画を4回観て、4回目に観た日からだいぶ時間が経過して、なんとなく多様性について考えてみたくなったのです。

のび太の新恐竜』で描かれた多様性の肯定は、私の多様性に対する考え方とは異なる面もありますが、この映画のおかげであらためて「多様性」ということについて考えることができました。

のび太の新恐竜』は、「進化って何?」「多様性ってどういうこと?」という問いを私のなかに再燃させてくれた、触発力のある映画なのです。

 

 『のび太の新恐竜』が描いた多様性テーマにこわだりだした勢いで、もう少しこだわってみます(笑)

 この映画が描いた「飛べなかったキューが飛べるようになる展開」を観ていると、「当初は欠点に見えていたことが実は利点だった」「一見欠点と思えることでも、役に立って生きていく武器になりうるのだ」というメッセージを訴えているように思えてきます。「滑空できない」ことはキューの欠点に見えていたわけですが、その欠点に見えていたことが実は「羽ばたいて飛べる」ことに直結し「恐竜から鳥類への進化」という歴史的重大事に大きくかかわっていたのです。

 キューの欠点(に見えていたこと)は、実のところ、ものすごい利点だったわけです。

 

のび太の新恐竜』には、そういうメッセージが恐竜の世界の出来事にとどまらず人間社会にもあてはまるのだと感じられてくる仕掛けがほどこされています。

 キューは羽毛恐竜ですが、この映画はキューに人間の子どものような人格を与えています。そうすることで、キューを人間的な存在に見立てているのです。

 さすがにキューは人間の言葉を話しませんが、人間の言葉を理解しているように見えますし、のび太と約束の指切りまでしています。

 キューの知能や性格は、ある程度擬人化されているわけです。

 ですから、この映画を観る者は、キューが頑張る姿から人間の子どもが頑張っているイメージを無意識的に想起することになります。

 それゆえ観客は、「生物の一種が飛ぶ訓練をして飛べるようになるまでの生態を観察する」という見方にはなりづらく、「人間の子どもが飛ぼうと努力している姿を見守るような眼差し」でキューを観続けることになります。

 

 そのように「キュー≒人間の子ども」という見方でこの映画を鑑賞していると、飛べなかったキューが飛べるようになる一連の展開は「恐竜だけでなく、われわれ人間の社会にもあてはまること」として受け取れるようになります。

 そうして、

「欠点に見えていたことが実はそのを活かす利点だった」「一見欠点と思えることでも、そのが生きていく武器になりうるのだ」「だから、そのの欠点に見えることも尊重しよう」

 という、人間社会に向けたメッセージが浮かび上がることになるのです。

 その意味では、この映画は「生物多様性」ばかりでなく「人間社会の多様性の肯定」をも描いているのです。描いているように受け取れるのです。

 

 さて、『のび太の新恐竜』からそんなメッセージを汲み上げたところで、この「欠点に見えていたことが実はその人を活かす利点だった。一見欠点と思えることでも、その人が生きていく武器になりうるのだ。だから、その人の欠点に見えることも尊重しよう」という考え方について、ちょっと検討を加えてみたいです。

 そういう考え方も、人間社会の多様性を肯定する一つの仕方だと思います。

 すばらしい考え方だと思います。

 ですが、私には少し引っかかるところがあるのです。

 この考え方は、欠点に見えていたことが実は「役に立つことだった」「意義のあることだった」「強みだった」「生きる武器になった」から肯定しているわけです。

 

 では、欠点に見えていたことが具体的に何の役にも立たないものだったら…、あるいは、何の役に立つのか今のところわからないものだったら…、それは多様性として肯定してもらえないのでしょうか?

 

 私は、欠点に見えていたことが役に立とうと立つまいと、意義があろうとなかろうと、強みだろうと弱みだろうと、自分にその良さを理解できようとできなかろうと、それはそれとしてひとつの個性として尊重し共存していくことこそが、人間社会における多様性の肯定だと考えています。少なくとも、多様性と言うからにはそういう理念を含みこんでいてほしいと願っています。

 川村元気さんは「「多様性」というものがなんとなく「弱いものを大事にしよう」という風に勘違いされている気もする」と語っていました。私も、弱いものを大事にしようということがそのまま多様性とイコールだなんて思いませんが、人間社会における多様性の肯定と言ったとき「社会的弱者への配慮」「マイノリティとの共存」「不利な立場の人の権利の尊重」といった意味合いがしっかり含まれていてほしい、という考えを持っています。ところが、川村さんはそういう要素を「綺麗事」とまでおっしゃっているわけですから、そこのところでも川村さんと私とでは意見が異なるような気がします。(川村さんからこのテーマについてもっと詳しくお話をうかがえば印象が違ってくるかもしれませんが、私が読んだ川村さんの発言の範囲内では、川村さんの多様性に対する考え方は私とはちょっと反りが合いません)

 

のび太の新恐竜』が描いた多様性テーマになんだか難癖をつけてしまった格好になりましたが、難癖というより、ここで私の考えを付け加えておきたかっただけです。ひとつの作品のなかであれもこれも全部描けませんからね。「あれがない」「これがない」と無い物ねだりの揚げ足取りをするなんて、あまりやりたくないし、やられたくもないです。

 

 今回『のび太の新恐竜』がキューを通して描いたような「当初は欠点に見えていたことが実は利点であり、生きていくのに役に立つことだった」という展開もとてもすばらしいものであり、多様性を肯定するひとつのまっとうなやり方だと思います。欠点が強みになるのなら願ってもないくらい喜ばしいことですし、「欠点が実は強みだった!」というのはエンタメ的にカタルシスがありますもの。

 もっと言えば、川村さんと意見が異なるのも多様性ですし、意見など異なって当たり前なのです。

 そんなわけで、私は『のび太の新恐竜』を観て大いに感動したのでした。

 

のび太の新恐竜』は「生物の多様性と進化」を描いていて、それを「人間社会の多様性」になぞらえようとしている…といった意味のことを私は書きましたが、この映画がもっと直接的に「人間社会の多様性」を描いていると思える箇所も、あるにはありました。

 この映画に「ともチョコ」というひみつ道具が登場します。半分に割って片方を生き物にもう片方を自分が食べると互いが友達になれて、1時間限定で相手の生き物の特徴を受け継ぐこともできる、という道具です。

 このともチョコのデザインが、「肌の色の違う者同士の握手」なのです。

 そこのところに、人間社会における多様性へのまなざしが込められているのではないでしょうか。(この件は、オンライン会で語り合った友人の受け売りなのですが、そのように私も思いました)

 

 また、タイムパトロールの長官ナタリーが女性で有色人種、隊員のジルが男性でおそらく白色人種だったところも、人間社会の多様性を意識しているように感じられました。

 

 長々と多様性について書いてきましたが、やはり『のび太の新恐竜』を観るさいは「多様性」ということをあまり意識せず観たほうが私は楽しめそうです。

 テーマとかメッセージ云々よりも、ワクワクしたり興奮したり感動したり「かわいい~!」と思ったり、そうしたエモーショナルな要素のほうが圧倒的に重要。それが私にとっての『のび太の新恐竜』です。

 きわめて乱暴に言えば、「キューとミューかわいい~~~!」とひたすら愛で続けることができただけで、この映画の満足度はとても高く、そのうえほかにもいろんな魅力があったのですから、この映画に惜しみなく拍手をおくりたいのです。

 

 

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その1】「泣く準備はできていた」

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 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その2】「羽毛恐竜キューの生態に思いを馳せる」 

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 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その3】「キューの“進化”に考えをめぐらす」

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 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その4】「鳥らしさを愛でる」

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 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その5】「恐竜から鳥への進化に関心を抱く」 

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/11/29/180126