ドラえもんの切手発売

 本日(5/20)、ドラえもんのグリーティング切手が発売されました。

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 最寄りの郵便局で買ってきました♪

 

 84円切手は、ドラえもん50周年記念で初期ドラの図版を使用。懐かしげな色調も相俟ってドラえもんの可愛らしさと歴史を感じさせてくれる、素敵なデザインです。

 

 63円切手は、旅をテーマに、むぎわらしんたろう先生が描き下ろしたデザイン。日本の有名な観光地が和の味わいで描かれています。

自分の誕生日に

 きのう(5月18日)、またひとつ年齢が増えました。

 とっくに、ひとつ増えて嬉しい年齢ではなくなっていますが、

 この日(自分の誕生日)があったから、いま自分がここにいて、いろんな人と出会えて、こうして言葉を発していられる……

 そのことに感謝しながら、今年の誕生日を迎えました。

 

  この日があったから、いま自分がここにいて、いろんな人と出会えて……という言葉は、高校生のころ文通していた友人からおくられた言葉(をアレンジしたもの)です。

 だから誕生日は大切な記念日であり、おめでたい日なのだ!

 と、その友人は教えてくれました。

 

 そんな誕生日に…

 バースデープレゼントで、これをもらっちゃいました!

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 「うそつきかがみ」の話、大好きなのでとても嬉しいです♪

 ありがとう!

 グラニフのシャツのデザインは、マニアックさとオシャレ感が同居していて魅力たっぷりです。

 

  次は、誕生日プレゼントというわけではないのですが、これがちょうど誕生日に届きました。

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 藤子仲間のO氏が出してくださった、氷見の風景印を押したハガキです。

 氷見の風景の中でひみぼうずくんが圧倒的に目立っているのがスバラシイ‼

 O氏、ありがとうございます!

 

  そして、

 仲良しの漫画家さんがこんなステキでユカイなバースデー動画を作成してくれました!

 これがきのう送られてきたのを見たときは喜びと感動があふれました。

 藤子キャラ顔をした私に「のび太の新恐竜」のコスチュームを着せてくれている、という大サービスぶり!

 嬉しいなあ♪

 ほんとにありがとう!

 

  私と誕生日が同じ日付(5/18)の著名人に南方熊楠がいます。

 熊楠のほうが101年も人生の先輩ですが、その熊楠の本を拾い読みしながら、きのうの誕生日をすごしました。

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 何年か前、和歌山の南方熊楠記念館へ行ったとき粘菌のポストカードを買いました。

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 この中にドラえもんのキャンピングカプセルを思わせる粘菌があって、けっこう気に入っています。

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 キャンピングカプセルっぽいですよね。

 

 

 南方熊楠は子どもの頃から『和漢三才図会』『本草綱目』などを読破。ただ読むだけでなく、全て筆写していたそうです。

 そんな熊楠が伝記マンガの中で発した「一度本を見たら、全部覚えてしまいます」という台詞を読んで、『エスパー魔美』の高畑さんを思い出しました。「本も一度読めば、だいたいおぼえるし」なんて、さらりと言ってのけてしまう高畑さんのことを!

 2人とも本を一度読むだけでほとんど全部覚えてしまうという、驚異の記憶力の持ち主。記憶するということに対して苦労知らずの天才です。

 ウラヤマシイ!

 

 というわけで、皆様のおかげで楽しい誕生日をすごせました。

 これからもよろしくお願いします。

どくさいスイッチのシャツ

 5月5日、ドラえもん50周年を記念したグラニフのオリジナルアイテムが発売されました。

 そのうちのひとつ、どくさいスイッチシャツが届きました!

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  タイプライター生地の黒い半袖シャツです。

 

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 さっそく着用!!

 気に入りました。

 

 どくさいスイッチは、意に沿わぬ者を粛清・抹殺していく独裁者の感覚を簡単に味わえる道具ですが、あくまでも独裁者を懲らしめるための発明です。

 

 『ドラえもん』の「どくさいスイッチ」(てんコミ15巻などに収録)では、のび太どくさいスイッチを使って気に入らない人々を消していきましたが、現実の独裁者といってまず思い浮かぶ人物は、やはりヒトラーとかスターリンとかポル・ポトです。この人物たちは過去の独裁者です。今も独裁国家はいくつかあって、現在の独裁者の代表格といったら北朝鮮のあの人ですかね。

  「現在の独裁国家のなかで、もし行くとしたらこの国」と個人的に思うのは「中央アジア北朝鮮」「明るい北朝鮮」といわれるトルクメニスタンです。やくみつるさんが講演会でこの国を紹介しているのを聞いて興味を持ちました。「地獄の門」と呼ばれるガスクレーターの光景を眺めてみたいし、明るい独裁国家とはどんな様相なのか見てみたい、と思うのです。

「人間うつしはおそろしい」

 コロナ禍が続いていますが、そんなご時世だから…ということで、ウイルス感染を題材にした藤子F作品『流血鬼』『ドラえもん「流行性ネコシャクシビールス」』を読み返した……という話題を以前当ブログで書いたことがあります。

 

(『流血鬼』と「流行性ネコシャクシビールス」の話はこちらで書きました)

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/03/30/204138

 

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  で、きのう仲良しの友達とオンラインで話をしていたら、『ドラえもん』の「人間うつしはおそろしい」の話になりました。コロナ禍の件とはぜんぜん違う文脈で話題にのぼったのですが、これも感染症の話ですね。てんとう虫コミックス第45巻などに収録されています。

 

 「人間うつし」というバイ菌がのび太の体内で増殖し、汗となって体外へ排出。菌を含んだ汗は蒸発して空気に混ざり、その空気を吸うと「のび太病」に罹患して誰もがのび太並になってしまうという、ある意味おそろしい感染症です🤣

 ドラえもんのび太を家から送り出すときのセリフ「さあ、町じゅうにばい菌をばらまいてこい」は、このご時世に読むとなかなかインパクト大です(笑)

 

 この話のトビラでドラえもんは感染予防のためマスクをしているのですが、あまりにもサイズが合わなさすぎて効果があると思えません…。私がそんなふうにパッと感じてしまうのも、いまコロナ禍を体験しているからなのでしょうねえ。

藤子不二雄Ⓐ先生のイラスト作品、新発掘!?

 藤子マニアのK氏から、自粛中見舞いとしてこんなハガキが届きました。

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 藤子不二雄Ⓐ先生が描いた、かわいい赤ちゃんたち!

 七夕の夜に天の川を飛んでいる光景です。

 藤子Ⓐ先生が見た夢を絵にされたようです。

 

 藤子Ⓐ先生のサインに「87」とあるので、1987年の七夕のために描き下ろしたイラストと思われます。

 藤子不二雄コンビ解消のおよそ半年前のお仕事、ということになりますね。

 当時藤子Ⓐ先生は、宇宙からやってきた不思議な赤ちゃんが主人公のマンガ『ウルトラB』を連載中(1984年~)でしたし、1987年の4月からはその『ウルトラB』のテレビアニメも放送中でしたから、先生の中で“赤ちゃん”という存在が旬だったのかもしれません。

 このイラストの左端の、脚だけ見えている赤ん坊は、着ているものの色からして、ウルトラBっぽく見えます。

 

 じつはこのイラストの存在を私はこれまで知りませんでした。私の周囲のコアな藤子Ⓐマニアたちも「知らなかった」といいます。

 既存の藤子Ⓐ作品リストからも漏れていますし、これは、今まで埋もれていた藤子Ⓐ先生のお仕事をK氏が新発掘した!ということになりそうです。

 

 貴重なものを送ってもらえて感謝です♪ 

 

 

大林宣彦監督の偲んで(2)

 今回は、前回の記事の続きです。

 

 ■「大林宣彦監督を偲んで(1)」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/05/07/213923

 

 大林宣彦監督は、藤子・F・不二雄先生が「SF」を「すこしふしぎ」と言い表したことに対し、「すこし」というのはこの世で一番優しい言葉だと思う、と評していました。

 なぜ「すこし」が優しい言葉なのか。

 大林監督はこう書いています。

 

「すこし」、というのは、この世でいちばん、優しい言葉、だと思う。

だって、そうだろう。

もし、「さびしい」という感情に、「すこし」と付かなかったら、それは、絶望的な「孤独」である。

あるいは、「かなしい」という心に、「すこし」が寄り添えないなら、それは、救いようのない「不幸」。

「あやまち」への自覚が、「すこし」をなくしたら、もう、取り返しのつかない「悔恨」となる。

いやいや、「うれしい」という気持ちだって、もし「すこし」を忘れたら、燥(はしゃ)ぎ過ぎて、その悦びの本当の意味を、見失ってしまうだろう。

そのように、ぼくたちは、「すこし」の御蔭で、傷つかず、傲らず、自らの「幸福」を信じて、暮らしていくことができるのだ。

「すこし」とは真に大切な、人生の智恵の果実としての、言葉ではないだろうか。

(略)

だから藤子さんの「すこし」には、限りない「優しさ」が籠められているのであり、読み終わったぼくらは、誰もが「ありがとう」といいたくなるのだ。良質の「エンタテインメント」とは、こういう「おもてなし」のことである。

 

 (大林監督のこの言葉は、小学館コロコロ文庫『藤子・F・不二雄少年SF短編集1巻[未来ドロボウ]』(1996年、小学館)の巻末解説から引用しました)

 

 このように、大林監督は「すこし・ふしぎ」の「すこし」に思いを寄せて素敵な文章を書いてくださったわけです。それで思い出したのが、辻村深月さんの小説『凍りのくじら』の主人公です。この主人公は、自分がかかわった人物のことを「すこし・○○」という語法で評価することを習性としています。相手の性質をとらえて、「すこし・フリー」「すこし・普通」「すこし・不安」といったふうに、いつも「すこし」をつけて心のなかで言い表しているのです。藤子F先生が「SF」のことを「すこし・ふしぎ」と呼んでいたことに影響を受けているわけです。

 そんな『凍りのくじら』の主人公の行ないに、大林監督が言った“「すこし」というのはこの世でいちばん優しい言葉だと思う”を重ね合わせると、「すこし」という言葉のもつ、控えめだけど芯の強い力のようなものを感じます。

 「すこし」がますますいとおしい言葉になりました。

 

 藤子F先生と大林監督といえば、こんな話もあります。

 F先生は大の映画好きで、LD(レーザーディスク)でたくさんの映画作品をコレクションされていました。そんな数々のLDをアシスタントさんによく貸し出していたそうです。

 むぎわらしんたろう先生の『ドラえもん物語 〜藤子・F・不二雄先生の背中〜』(小学館、2017年)に、F先生の手書きによるLDリストが掲載されています。これは、どの作品をアシスタントさんに貸し出したかチェックするためノートに記したリストで、映画のタイトルだけが羅列されています。

 そのリストを見ると、『さびしんぼ』『ハウス』という映画名が見つかります。

 これは、前回の記事で紹介した『さびしんぼう』と、大林監督の劇場用映画デビュー作『HOUSE ハウス』(1977年)のことでしょう。F先生は大林監督の映画をよく観ていてお好きだったのだろうなあ、と推察できます。

 

 その『HOUSE ハウス』の影響でF先生が描いたのではないか、と思われるのが、『ドラえもん』の「人食いハウス」(てんとう虫コミックス14巻などに収録)という話です。

 “人を食べる家”という発想などに『HOUSE ハウス』からの影響が見て取れるのです。

 大林監督の『HOUSE ハウス』は1977年7月30日公開、F先生の「人食いハウス」が発表されたのが「小学三年生」1977年8月号(おそらく1977年7月初頭に発売)ですから、この2作品はほぼ同じ時期に世に出たことになります。

 映画『HOUSE ハウス』の事前情報や宣伝などをご覧になったF先生は、その内容にインスパイアされて『HOUSE ハウス』公開と同じタイミングで発表できるよう「人食いハウス」を描かれたのではないか、と思ったりします。あるいは、試写会でこの映画をご覧になったか。

(『HOUSE ハウス』と「人食いハウス」の関連性については、なべっかずさんから示唆を受けました。ありがとうございます。)

 

 と、ここまで書いたところで、大林監督の映画『異人たちとの夏』(1988年)を鑑賞しました。

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 離婚してマンションで一人暮らしををするシナリオライターの原田(風間杜夫)が、ある日をきっかけに不思議な体験をしていく物語です。

 原田は浅草の演芸場へ足を運びます。浅草は原田が12歳まですごした町です。彼は12歳のとき、両親を交通事故で亡くしたのですが、演芸場の客席の中に父親とそっくりな男性(片岡鶴太郎)を見つけます。その父親似の男性は、28年前、原田が12歳だった当時の父親とそっくりなのです。

 その男性がいきなり原田を家に来いと誘います。着いて行ってみると、男性は下町の路地裏に建つアパートの2階に住んでいました。そこには、原田の母親にそっくりの女性(秋吉久美子)もいました。

 その男性と女性は、原田の両親のそっくりさんではなく両親そのものだったのです。それも、28年前の姿のまま、アパートに暮らしているのです。

 

 原田は、28年前に失ったはずの両親と、40歳になって再会をはたし、期せずして3人での一家団欒を体験することになります。両親は30代のままの姿なので、息子のほうが年上という、じつに不思議な状況ですが、そのことに不自然さを感じさせないほど、あたかかくて人情味のある素敵な一家団欒の様子が描かれます。

 40歳の原田の心がだんだん素直になり子どもに戻っていく感じもよく出ています。

 そして、父と母のやさしさ、愛情の深さがたまりません。東京の下町の風景と人情がぬくもり豊かに伝わってきます。

 

 親子3人でちゃぶ台を囲んでビールを飲むシーンが好きです。両親は、息子が酒を飲める年齢に達する前に他界してしまったわけですが、それから28年経って、こういう不思議なかたちで親子3人で酒を酌み交わすことができたのです。それを思うと、なんともしみじみしてきます。単純に親子3人の楽しげな様子を見ているだけでも晴れやかな気分になれますし。

 父親とキャッチボールするシーンもいいですねえ。

 そして、原田が母親のアイスクリーム作りを手伝うシーンは妙に艶めかしかった!

 

 そんな、奇妙だけれどノスタルジックで人情味あふれる親子のエピソードがこの映画で描かれているわけですが、それに加え、原田と同じマンションに住む妖しい美女との色っぽいエピソードもあります。そちらは終盤どえらいことになる(ホラー展開になる)ので面食らいます。親子のシーンからにじみ出るあたたかな人情味と比べ、テイストの差にびっくりさせられます(笑)

 

 『異人たちとの夏』が公開された当時(1988年秋ごろ)、藤子不二雄Ⓐ先生が「コミックトム」で連載していたコミックエッセイ『パーマンの指定席』でこの映画をとりあげています。連載第69回でのことです。

 Ⓐ先生はそこでこう書いています。

 

大林宣彦監督は、いつものケレン味を抑えて、懐かしく哀しい幻想のドラマを描いている。主人公の風間杜夫も、父親役の片岡鶴太郎、母親役の秋吉久美子も素敵だ!もう還らないハズの過去がもどってきたことのうれしさと哀しさが漂う奇妙な味の映画として、日本映画ひさびさのヒットだ! 空疎な大作ではなくて、こんな粋な映画をもっと見たい!

 

 Ⓐ先生は浅草のすき焼き店のシーンで、涙をポロポロ流したそうです。このシーン、ほんと泣けるんですよ。

 食事の途中で父母の姿が消えていき、2人がそのとき使っていた箸がテーブルの上に残されます。その箸がアップで映されたとき、グッと胸に迫るものがありました。

 箸を主人公が持ち帰る行為も、映画のラストでの箸の使われ方も心にしみました。

 

 また、Ⓐ先生は、「そこ(註:亡くなったはずの父母が暮らす下町のアパート)へ行くと、中年の主人公は子供にかえり、父と母に甘えられるのだ!」と書いています。

 大人になって親に甘えられなくなった人物が、親あるいは親のような存在と不思議なかたちで遭遇し、幼子に戻ったかのようにその相手に甘えてしまう……といえば、F先生の『やすらぎの館』や『ドラえもん「パパもあまえんぼ」』が思い出されます。

 それと、Ⓐ先生の『笑ゥせぇるすまん「たのもしい顔」』も思い浮かびます。頼もしい顔をしているばかりに周りから頼られてばかりのサラリーマン男性が、最後、包容力に満ちた母のようなふくよかな女性にどっぷりと甘えることになります。どっぷり甘えるあまり、社会復帰できなさそうにも見えますが……。でもそれは、バッドエンドのようで、本人にはこのうえなく幸せな状態なのかもしれません。

 2人の藤子先生は、甘えたいのに甘えられない、頼りたいのに頼れないという、大人であるがゆえに・強さを期待されるがゆえに抑圧せざるをえない欲求を鋭くとらえ、作品の中であぶり出しているのです。

 

  と、2回にわたって大林宣彦監督の作品(とそれに関連した藤子先生の話題)について書いてきました。

 

 最後に、

 

 大林監督のご冥福を心よりお祈りいたします。

大林宣彦監督を偲んで(1)

 4月10日に亡くなった大林宣彦監督を偲んで、尾道三部作『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』を観返しました。

 思春期、学園、感傷、思慕、郷愁……。そして、尾道の情趣豊かで懐かしさ漂う景色……。

 それはいつかどこかで通りすぎたような、でも、現実にはいつまでもたどり着けない美しい幻。監督の心の内にある風景がフィルムに溶け込んでいるようです。

 

 ●『転校生』(1982年)

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 思春期の男子(一夫)と女子(一美)の心が入れ替わってしまうことであれこれ起こる青春映画です。

 なんといっても、主演2人の演技力が光っています。男子が女子に、女子が男子になってしまった様子が見事に演じ分けられ、その表情、仕草、挙動のすみずみまで神経が行き届いている感じです。男女が入れ替わるのですから、“性”を意識させる描写がたびたび出てきます。そのさまは、「男らしさ/女らしさとは何か」をあらためて問うことにもなりましょう。

 

 2人は、心が(身体が)入れ替わってしまったことで、ぶつかり合ったり戸惑ったり悩んだりしながら、奇妙な友情というか淡い恋愛感情のようなものを育んでいきます。なにしろ、互いに相手の心が自分の身体に乗り移った者同士という、前代未聞、唯一無二の濃密な関係ですから、2人の間で育まれる感情は特有のものになります。

 ラストシーンで互いに掛け合う言葉「さよなら俺」「さよなら私」は、この2人だからこその掛け替えのない特有の関係性を象徴しているのではないでしょうか。

 

 自分らが入れ替わってしまったなんて、そんな突拍子もないことは誰も信じてくれないだろうから、2人はそのことを周りに隠し続けます。そんななか、その誰も信じてくれなさそうな秘密を打ち明けた唯一の相手がSF好きの友達だった、というところも琴線に触れました。こういうとき相談すべきは、やはりSFマニアやオカルト好きの友人知人なんですよね(笑)

 

 男女の入れ替わりといえば、『ドラえもん』に「男女入れかえ物語」という話があります。その話を取っかかりに、人と人が入れ替わる物語についてあれこれと考えを巡らせた文章を当ブログで書いたことがあります。『転校生』についてもわずかに言及しています。もう15年も前の記事ですが、興味のある方はどうぞ。

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/20050603

 

 

 ●『時をかける少女』(1983年)

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 1人の少女がまとう、ありえないほどの清純なたたずまいを最後まで描ききっています。その古風で非現実的な透明性を自然に体現している原田知世。彼女の稀有な存在感に驚異を感じました。

 本作は、原田知世さんをフィーチャーした長尺のイメージ映像、といった趣があります。エンディングを見ると、その思いがますます強まります。なにしろエンディングでは、本編で観たいろいろな場面の中で知世さんが主題歌を歌っていて、途中でNG集があり、最後に知世さんのはにかんだような笑顔のアップが映されるのです。監督はこれを撮るために本編を制作したのでは!と思えるくらい、知世さんのピュアなアイドル性に焦点があてられています。

 

 そんな原田知世ワールドに時間SFの要素が加わっているところが、私にとっては、この映画を愛したくなる旨味成分です。

 知世さん演ずる芳山和子がその日の昼間に受けた漢文の授業を復習するつもりで勉強した内容が、1日前にタイムリープしてしまったがゆえに、予習したのと同じことになるくだりがあります。この映画における時間SF要素のなかでも、私が特に好きな箇所です。

  

 ラベンダーがキーアイテムになっていることも、この映画を印象深いものにしています。芳山和子は、ラベンダーの匂いをかぐと意識を失ってタイムリープすることになります。タイムリープのトリガーになるのがラベンダーなのです。時間SFであるこの映画にとって、ラベンダーとは『ドラえもん』におけるタイムマシンのような役割を果たしているのです。

 『時をかける少女』公開の前年(1982年)にリリースされた松田聖子さんの曲「渚のバルコニー」の歌詞にもラベンダーが登場します。この時代のアイドルシーンにおけるラベンダーの輝きっぷりは尋常ではありませんでした。

 

 好意を寄せていた男子の正体を知ってから和子が堰を切ったように口にする「これは愛なの?」……といった一連の台詞が鮮烈です。こっぱずかしくなりそうな青臭い言葉の連続ですから、これらの台詞を抑揚豊かな熱演で聞かされたら結構くどかったかも……と思いますが、彼女の棒読み風な台詞によって、聞き心地の悪くないリリカルな音声として耳に届きました。

 

 この映画では、きわめて初々しく淡く切ない(ある意味時空や記憶を超えた)純粋な恋模様が描かれているわけですが、仲良し3人組の中で尾美としのりさん演ずる吾朗がその恋模様の外側に置かれ気味……というところが微妙に切ないです。

 現実的な性格の吾朗と、ロマンチストの和子。その性格の対比が、冒頭の星空を見る場面でわかりやすく示されます。そんな2人の性格の対照性を、もっと自然なかたちで感じられたのが、醤油醸造家(吾朗の自宅)の場面です。和子が「この匂い好きよ。お醤油の匂いって何だか優しくって」と言うと、吾朗はすかさず「そういう気楽なことは醤油屋の倅の前では言ってほしくないね」とつれない言葉を返します。もとより、この醤油醸造家の場面は本作の他のシーンと比べて異質な感じがして印象深いところがあるのですが、その場面で2人の性格の差がさりげなく描写されたおかげで、いっそう私の心に残りました。

 

 先に述べたとおり『時をかける少女』は時間SFですから、数々の藤子作品と関連づけて語ることができます。たとえば、当ブログでは「時間ループもの、いろいろ」という記事で『時をかける少女』を取り上げたことがあります。

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/20110820

 

 

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 富田靖子さんが、清楚な女子高校生と、白塗り顔の不思議少女の2役(実際は2役以上ですが)を演じています。前者は、主人公ヒロキ(高校生男子)がひそかに「さびしんぼう」と呼んでいる片想いの相手で、後者は、自ら「さびしんぼう」と名乗る神出鬼没な存在です。「人が人を恋うるとき、人は誰でもさびしんぼうになる」のです。

 

 白塗り顔のさびしんぼうが言ったこの台詞が心に刺さりました。

「人を恋することはとっても寂しいから、だから私はさびしんぼう。でも寂しくなんかない人より、私ずっと幸せよ」

 

 白塗り顔のさびしんぼうは、ヒロキの母親が16歳だったときの姿です。どういうわけか、16歳のときの母親が、現在のヒロキの前に出現したのです。

 このさびしんぼうは、ずっと16歳のままでいる存在であり、17歳の誕生日がくると消えなければならず、水にぬれると死んでしまうといいます。そんな彼女が、雨の降りしきるなか傷心のヒロキを待っていて、抱き合いながら別れを告げます。目の縁取りが溶けて黒い涙が頬をつたう光景がじつに美しいです。

 

 いま述べたとおり、白塗り顔のさびしんぼうはヒロキの母親が16歳のときの姿で、それが現在に出現してヒロキのことを好きになります。

 ヒロキの母親は、16歳のころ“ヒロキ”という少年に恋をしていて、その名を自分の実の息子につけました。青春時代の恋の相手の名前を自分の子どもにつけたわけです。

 そう考えると、この映画では、16歳のころの母親といま高校生の息子が出会って恋をするさまが描かれていることになります。それは、なんだか近親相姦的というか倒錯的というか、なんともややこしい関係に思えます。

 

 この映画では、ショパンの「別れの曲」がよく流れます。観終えたあとも、この曲がしばらく耳に響き続けました。

 

 知人に、『さびしんぼう』を観て手塚治虫先生の短編『るんは風の中』を思い出したという人がいました。なるほど!と納得しました。

 この映画で描かれた、不思議な存在が少年の部屋に突然姿を現し少年と交流する……という状況は、藤子マンガの定番パターンを彷彿とさせるところもあります。

 

 と、藤子マンガの話を出したところで、大林監督と藤子先生といえばこれ!という話を次回に書きたいと思います。

 

 ■「大林宣彦監督を偲んで(2)」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/05/08/172424